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第1章「薔薇園に落ちた噂」
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薄雲を透かした日差しが、薔薇のアーチに柔らかな輪郭を描いていた。朝露はまだ葉の縁にとどまり、白い花弁の先で小さな珠になって震えている。
シャーロットは籐椅子に腰を下ろし、湯気の消えた紅茶のカップを両手で包んだ。指先に残るぬくもりは、心の奥にある空白までは温めてくれない。
「お嬢さま、今日の花は、ひときわ香りが濃厚でございますよ」
侍女のエミリアが、摘みたての白薔薇をガラスの小瓶に生けて卓上へ置く。微かな水音がして、ふっと空気が甘くなった。
アーチの頂には、細い白いリボンが結ばれている。幼いころ、隣家の少年と背伸びをして結んだ、あの結び目。ほどけては結び直し、何度も練習したから、形だけは今も美しい。
「エミリア。……あの結び方、覚えているのね」
「ええ。お嬢さまと、向かいのお坊ちゃま――いえ、今は立派な公爵さまですが――お二人が競い合っておられた頃から」
シャーロットは小さく笑って、すぐに目を伏せた。
言葉にすれば簡単に崩れてしまいそうな想いは、胸の内側で静かに育てるしかない。公爵カルロス――幼馴染であり、今はこの国の重責を担う人。彼に会うたび、喉の奥で言葉が迷子になる。
「そういえば」エミリアが声を潜める。「市場に出ていた商人が言っておりました。『公爵さまのご婚約が近いらしい』と」
紅茶の表面に映った空が、かすかに揺れた。
それは、事実か、ただの風の噂か。シャーロットはカップを置き、無意識にアーチの白いリボンへ視線を上げた。結び目が朝風にそよぎ、影だけが足もとへ落ちている。
「……どなたと、とは?」
「詳しい名までは。ですが、宮廷の夜会が続きますでしょう。『そこで発表があるやもしれぬ』と」
心臓が、ひと拍、遅れて落ちる。
彼の隣に立つにふさわしい人は、たくさんいる。聡くて、社交に長けて、言葉を選ぶのがうまい令嬢たち。自分がその列に並べないことくらい、とうに知っていた。
それでも――幼い日の手のぬくもりや、雨上がりの庭で笑い合った記憶が、たやすく納得を許してくれない。
「お嬢さま?」エミリアが覗き込む。「お顔色が……」
「大丈夫よ」シャーロットは微笑んだ。自分でも驚くほど、静かな声で。「噂は、噂だもの」
返した笑みは薄かったが、崩れてはいなかった。
遠くで鐘が鳴り、城下の朝を知らせる。アーチの陰ではすずめが跳ね、濡れた土に小さな足跡を刻んでいく。
シャーロットは立ち上がり、リボンの結び目にそっと指を添えた。触れただけでほどけてしまいそうに見えて、意外にも固く締まっている。幼い二人が力を合わせた結びは、時を越えても簡単には解けないらしい。
「今朝は、伯爵家の茶会へ招かれていますね」エミリアが手帳を確認する。「席次は――」
「ええ、わかっているわ」
伯爵令嬢マリナの名が脳裏をよぎる。いつからだろう。彼女の笑顔の奥に、ほんの少し冷たい光を見つけるようになったのは。
思い過ごしならそれでいい。けれど、公爵の名が話題にのぼるたび、マリナの視線は氷砂糖のように固く、透明に見えた。
シャーロットは視線を落とし、卓上のガラスのカップを持ち上げる。底に残った光を確かめるように揺らしてから、空の器をそっとベンチへ置いた。
朝の香りが、薔薇と土と、遠い雨の記憶を連れてくる。
「行きましょう、エミリア。遅れては失礼だわ」
「かしこまりました」
庭を離れる前に、シャーロットはもういちどだけ振り返った。
白いリボンが、風に合わせてさざめく。たしかな結び目――けれど、それは誰の手が結び直すのか。次にこの下をくぐるとき、自分の隣にいるのは、だれ。
答えのない問いを胸に、シャーロットは一歩を踏み出した。
噂は軽い。けれど、心を揺らすには、十分だった。
シャーロットは籐椅子に腰を下ろし、湯気の消えた紅茶のカップを両手で包んだ。指先に残るぬくもりは、心の奥にある空白までは温めてくれない。
「お嬢さま、今日の花は、ひときわ香りが濃厚でございますよ」
侍女のエミリアが、摘みたての白薔薇をガラスの小瓶に生けて卓上へ置く。微かな水音がして、ふっと空気が甘くなった。
アーチの頂には、細い白いリボンが結ばれている。幼いころ、隣家の少年と背伸びをして結んだ、あの結び目。ほどけては結び直し、何度も練習したから、形だけは今も美しい。
「エミリア。……あの結び方、覚えているのね」
「ええ。お嬢さまと、向かいのお坊ちゃま――いえ、今は立派な公爵さまですが――お二人が競い合っておられた頃から」
シャーロットは小さく笑って、すぐに目を伏せた。
言葉にすれば簡単に崩れてしまいそうな想いは、胸の内側で静かに育てるしかない。公爵カルロス――幼馴染であり、今はこの国の重責を担う人。彼に会うたび、喉の奥で言葉が迷子になる。
「そういえば」エミリアが声を潜める。「市場に出ていた商人が言っておりました。『公爵さまのご婚約が近いらしい』と」
紅茶の表面に映った空が、かすかに揺れた。
それは、事実か、ただの風の噂か。シャーロットはカップを置き、無意識にアーチの白いリボンへ視線を上げた。結び目が朝風にそよぎ、影だけが足もとへ落ちている。
「……どなたと、とは?」
「詳しい名までは。ですが、宮廷の夜会が続きますでしょう。『そこで発表があるやもしれぬ』と」
心臓が、ひと拍、遅れて落ちる。
彼の隣に立つにふさわしい人は、たくさんいる。聡くて、社交に長けて、言葉を選ぶのがうまい令嬢たち。自分がその列に並べないことくらい、とうに知っていた。
それでも――幼い日の手のぬくもりや、雨上がりの庭で笑い合った記憶が、たやすく納得を許してくれない。
「お嬢さま?」エミリアが覗き込む。「お顔色が……」
「大丈夫よ」シャーロットは微笑んだ。自分でも驚くほど、静かな声で。「噂は、噂だもの」
返した笑みは薄かったが、崩れてはいなかった。
遠くで鐘が鳴り、城下の朝を知らせる。アーチの陰ではすずめが跳ね、濡れた土に小さな足跡を刻んでいく。
シャーロットは立ち上がり、リボンの結び目にそっと指を添えた。触れただけでほどけてしまいそうに見えて、意外にも固く締まっている。幼い二人が力を合わせた結びは、時を越えても簡単には解けないらしい。
「今朝は、伯爵家の茶会へ招かれていますね」エミリアが手帳を確認する。「席次は――」
「ええ、わかっているわ」
伯爵令嬢マリナの名が脳裏をよぎる。いつからだろう。彼女の笑顔の奥に、ほんの少し冷たい光を見つけるようになったのは。
思い過ごしならそれでいい。けれど、公爵の名が話題にのぼるたび、マリナの視線は氷砂糖のように固く、透明に見えた。
シャーロットは視線を落とし、卓上のガラスのカップを持ち上げる。底に残った光を確かめるように揺らしてから、空の器をそっとベンチへ置いた。
朝の香りが、薔薇と土と、遠い雨の記憶を連れてくる。
「行きましょう、エミリア。遅れては失礼だわ」
「かしこまりました」
庭を離れる前に、シャーロットはもういちどだけ振り返った。
白いリボンが、風に合わせてさざめく。たしかな結び目――けれど、それは誰の手が結び直すのか。次にこの下をくぐるとき、自分の隣にいるのは、だれ。
答えのない問いを胸に、シャーロットは一歩を踏み出した。
噂は軽い。けれど、心を揺らすには、十分だった。
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