心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ

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第32章「血の契約の夜」

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 王宮の深夜。
 風が止み、月明かりさえ雲に隠れた夜。
 静寂の中、礼拝堂だけが異様な気配を孕んでいた。



 重厚な扉の陰から、侍女長イリスが静かに姿を現した。
 周囲を確かめ、鍵を外す。
 わずかな軋む音とともに扉が開き、冷たい闇が彼女を迎え入れた。

 「……準備は整いました」

 低い声で囁いた瞬間、礼拝堂の奥に灯がともる。
 黒い外套に身を包んだ宰相派の廷臣たちが、血の封蝋を刻んだ文を捧げていた。

 「この契約をもって、王太子を失脚させる」
 「犠牲を強いた王子に、王冠は相応しくない」

 その声に、イリスの唇がかすかに歪む。
 ——これで、伯爵家の名も再び光を取り戻す。



 やがて、契約の儀が始まった。
 短剣の刃先が掌を裂き、赤い血が文書に滴る。
 「血で交わすは、裏切りなき誓い」

 重苦しい呪言が礼拝堂に響き渡る。
 滴り落ちた血は封蝋の紋を濡らし、契約は“影の証”となった。

 イリスはその光景を見つめながらも、胸の奥にひそかな震えを覚えていた。
 忠実な侍女としての仮面は笑みを保ちながら、その裏では野心と恐怖がせめぎ合っていた。



 一方その頃。
 セレーネは夜の回廊を歩いていた。
 寝室に戻ろうとしても、心のざわめきが収まらなかった。

 ——黒い契約。
 あの噂が、ただの作り話ではないような気がする。

 胸の奥で冷たい予感が膨らむ。
 廊下の隅を過ぎると、一瞬、礼拝堂の方から光が漏れるのが見えた。

 「……誰か、いる?」

 セレーネは足を止めたが、すぐに光は消え、夜の闇が戻った。



 翌朝、宮廷は再びざわめきに包まれた。
 「殿下に背く者たちが契約を結んだらしい」
 「血で誓ったという噂も……」

 廷臣たちの囁きは恐怖と好奇心に満ち、広間全体に不穏な空気を広げていく。

 セレーネは胸を押さえた。
 ——やはり、何かが動いている。
 殿下を孤立させる影が、王宮そのものを覆いつつある。



 その夜。
 イリスは鏡に向かい、口元に微笑を浮かべていた。
 「黒い契約は結ばれた。あとは妃殿下を揺らすだけ」

 伯爵家の娘としての誇りが、甘美な野心に変わり、瞳に宿る。
 「妃殿下……あなたの純真さが、鎖となってあなたを縛るのです」

 蝋燭の炎が揺らめき、忠実な侍女の仮面はゆっくりと闇に溶けていった。

 ——血の契約の夜。
 それは、宮廷を決定的に分かつ序章にすぎなかった。
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