貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ

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第一章 氷の侯爵邸

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侯爵邸の食堂は、重厚なオーク材の壁に囲まれ、外光を拒むように沈黙していた。
窓の向こうでは、夕暮れがゆっくりと色を失い、空は深い群青へと沈み込んでいる。

長い食卓の両端に、リリー夫人とカイル侯爵が向かい合って座っていた。
だが、その距離は、物理的な長さ以上に、決して埋まらぬ隔たりを感じさせた。

皿の上には、丁寧にローストされた仔羊の肉が湯気を立てている。
リリーは背筋を正し、寸分の狂いもない所作でナイフとフォークを操った。その動きには、結婚生活の年月が磨き上げた、冷たいほどの完成度が宿っている。

――その完璧さこそが、カイルの神経を逆なでしていた。

カイルは銀のカトラリーを乱暴に皿へ置き、深く息を吐いた。その音が、広すぎる食堂に不快な余韻を残す。

「……今日は、公爵家から使いが来た」

感情の起伏を削ぎ落とした声。
報告書を読み上げるかのような口調に、リリーは静かにグラスを唇から離した。琥珀色のワインを嚥下し、淡々と応じる。

「クリストファー様、ですか」

その名を口にした瞬間、心臓がわずかに強く脈打った。
クリストファー――幼い頃から想い続けてきた、ただ一人の人。
完璧な仮面の下で、秘めた愛が熱を帯びて蘇るのを、リリーは自覚していた。

カイルは苛立ちを隠さず、鼻を鳴らす。

「ああ。相変わらず、我が家のことに口を出すのがお好きらしい。お前の実家からの貸し付けについて、余計な確認までしてきた」

「侯爵家の経営に関わる問題です。公爵家の跡取りが関心を持たれるのは、自然なことでしょう」

冷静な声音とは裏腹に、リリーの胸には別の感情が渦巻いていた。
彼は、この家を――そして自分を、守ろうとしているのではないか。
そう思ってしまう自分を、彼女は戒めながらも、止められなかった。

カイルは鋭く彼女を睨みつけた。
その瞳に宿るのは、嫌悪と、抑えきれない嫉妬。

「相変わらずだな。何から何まで、あの男を正当化する。お前はいつもそうだ、リリアーヌ」

リリーは黙した。
否定すれば、自分の心を裏切ることになる。

――彼は知っている。
リリーが、誰を愛しているのかを。

そして、その事実こそが、カイルが彼女を拒み続ける最大の理由であることを、リリーは痛いほど理解していた。

カイルはワインを一気に煽り、椅子に深くもたれかかる。

「私を嫌っているのは分かっている。その完璧な微笑みも、冷たい態度も……すべて、私への拒絶だ」

リリーは静かに視線を上げた。
燭台の炎が青い瞳に揺らめき、静かな光を宿す。

「侯爵様。私は、侯爵夫人としての義務を果たしているだけです。
それを冷たいとお感じになるのなら――それは、あなたご自身の感情ではありませんか」

穏やかな声。しかし、その言葉は鋼のように硬かった。

カイルは嘲るように笑う。

「義務、か。
その義務とやらで、いつまでこの“氷の侯爵邸”を保つつもりだ?
本当に愛しているのは、あの次期公爵だろう。なぜ、私を解放しない」

胸の奥が、鈍く抉られる。
――正しい。
愛しているのは、クリスだ。

だが、自分が去れば、侯爵家は破綻し、その影は必ず彼に及ぶ。
そして何より――今、彼の隣に立つのは、自分ではない。

「私が去れば、世間は侯爵様をどう見るでしょう。
そして、クリストファー様の立場は……」

「心配無用だ」

カイルは冷たく言い放った。

「あの男は、もう別の女に夢中だ。伯爵令嬢との縁談で頭がいっぱいらしい」

その言葉は、刃となってリリーの心を貫いた。

(……やはり、そうなのね)

リリーは表情を変えず、冷え切った仔羊の肉を口に運んだ。

「でしたら、私は侯爵家のために、夫人の役目を続けます。
それが報復だと、お思いになってくださっても構いません」

視線を逸らさず、彼女は淡々と肉を飲み込んだ。

カイルはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、完璧で、哀しみに滲んだリリーの横顔を、憎しみと諦念の入り混じった目で見つめ続ける。

侯爵邸は再び、重苦しい沈黙と、凍りつくような空気に閉ざされていったのです。
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