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第29章|守るための突き放し
しおりを挟むその日、王都の空は晴れていた。
晴れているほど、影が濃くなる。
噂の影も、視線の影も、そして――心の影も。
王宮主催の慈善式典。
名目は寄付、実態は“見せる場”。
誰が誰の隣に立つか、誰が誰に笑うか、誰が誰に触れるか。
それだけで物語が完成する。
私は鏡の前に立っていた。
プラチナブロンドの髪をミナが丁寧にまとめ、首元のレースを整える。
その指先が震えているのが分かる。
「奥様……」
ミナの声が細い。
「今日は、近衛が……」
「分かってる」
私は微笑もうとした。
でも口角が上がらない。
回廊の温度が、まだ肌に残っている。
国王の腕。
咄嗟の支え。
兄としての優しさ。
でも私には言えない。
だからあれは“抱擁”として残る。
アランの視線。
扉の隙間から刺さったあの冷たい目。
そして何も言わずに去った背中。
(違うのに)
違うと言えない私は、最悪の像を彼の心に焼き付けてしまった。
それを思い出すだけで、喉が締まる。
青石の指輪が冷たい。
握りしめるほど、痛い。
守りの鎖が、今日も私を縛る。
馬車が門を出ると、王都の人々の視線が動いた。
声は聞こえない。
でも視線の形で分かる。彼らは“妾の女”を見ている。
式典会場の大広間は、白と金で飾られていた。
光が跳ね、笑い声が高い。
その高い笑いが、私の胸を踏む。
「公爵夫人、ごきげんよう」
貴婦人たちが扇で口元を隠す。
隠すのは唇だけで、瞳は隠さない。
瞳はいつも真実を言う。
――彼女たちにとっての真実を。
私は礼儀通りに一礼し、決められた位置へ進んだ。
今日の私は、ただの“置物”だ。
触れられない置物。
触れられると噂が完成するから。
その時、空気がざわめいた。
王弟アドリアンが入場した。
柔らかな笑み。優雅な所作。
彼が笑うだけで、噂の火が起きる。
アドリアンが私に近づくのを見て、私は息を浅くした。
(来ないで)
来れば噂が完成する。
来ればアランの嫉妬が増える。
増えた嫉妬は、また冷たさになる。
でもアドリアンは、止まらない。
「公爵夫人」
名を呼ばれただけで、視線が集まる。
彼はゆっくり一礼した。
丁寧に、深く。
それだけで周囲の扇が一斉に上がる。
“王弟が妾に頭を下げた”
そんな甘い言葉が、もう誰かの喉で形になっている。
「お加減はいかがです? 先日のことを聞きました。心配で」
心配。
その言葉が、最も残酷だ。
心配されればされるほど、私は“守られる女”になる。
守られる女は、王家のものに見える。
「ご心配、痛み入ります」
私は微笑むことすらできず、丁寧に答えた。
声が乾いている。
胸が痛い。
アドリアンがもう一歩近づく。
距離が近い。
噂が喜ぶ距離。
「あなたは一人で耐えすぎる。……王家はあなたを見捨てない」
その言葉で、私の背中が冷たくなった。
見捨てない――つまり、“囲う”。
妾に必要なのは囲いだ、と噂は知っている。
(やめて)
心の中で叫ぶ。
でも声にできない。
声にすれば、噂が勝つ。
その時――広間の入口が、静かに割れた。
空気が一段冷える。
アラン公爵が入ってきた。
黒に近い正装。金の刺繍。
表情のない美貌。
そして目だけが鋭い。
彼はまっすぐこちらへ向かってくる。
視線は私ではなく、アドリアンへ。
(来ないで)
来てほしい。
でも来てほしくない。
矛盾が喉を締める。
アランは、私の隣に立たない。
――一歩手前で止まり、王弟へ短く礼をした。
「殿下」
礼は完璧。
温度がない。
温度がないから、胸が痛い。
アドリアンは楽しそうに微笑んだ。
「アラン。公爵夫人の具合が心配でね」
その言い方が、社交界にとって最高の燃料だ。
公爵が“気の毒”という物語が完成する。
アランの目が、私の指輪に落ちる。
次に、アドリアンの手元に。
そして、私の首元に。
その視線の動きだけで、私は分かってしまう。
(嫉妬している)
嫉妬しているのに、優しくできない。
優しくしたいのに、奪われるのが怖い。
その恐怖が、彼の目を冷たくする。
アドリアンが、わざとらしく私に向けて言った。
「公爵夫人。もし辛ければ、私が盾になりますよ」
盾。
その一言で、私の胸が凍る。
盾が増えれば増えるほど、噂は完成する。
国王、王弟、そして公爵。
誰もが彼女を守る=彼女は“特別”。
特別=妾。
アランの喉が僅かに動いた。
飲み込んだものが、鋭い音を立てる気がした。
そして――彼は一歩、前へ出た。
私を庇う位置。
壁になる位置。
でも触れない。
触れられない。
彼の声が落ちた。
「……恐れながら」
静かで、冷たい声。
「妻は、公爵家が守ります」
その言葉は救いのはずなのに、胸が痛い。
守ると言っても、抱きしめない。
愛していると言わない。
私の手を取らない。
守りは温度をくれない。
守りは距離を増やす。
アドリアンは微笑んだ。
そして、さらりと言った。
「なるほど。では“公爵家の妻”として、誰も触れない方がよいですね」
――触れない方がよい。
それは、最も残酷な正論の形で、噂の核心を突く。
公爵が妻に触れない。
だから妾。
だから王家が守る。
周囲の貴婦人たちが、扇の裏で息を飲むのが分かった。
噂が生まれる音がした。
アランの肩が僅かに硬くなる。
左手が動きかけて止まる。
痛みを抑える癖。
衝動を抑える癖。
(お願い、ここで壊れないで)
私は祈った。
でも祈りは届かない。
祈りより噂の方が速い。
その瞬間、誰かの笑い声が聞こえた。
「ほら、やっぱり」
そう言ったのが誰か分からない。
でも、空気が言った。
私は息ができなくなった。
(私のせいだ)
(私が沈黙しているから)
(真実を言えないから)
その時――アランが、突然声を上げた。
大きな声ではない。
むしろ低く、静か。
だからこそ会場が凍る。
「……触れるな」
一言。
アドリアンではない。
周囲に向けて。
近づこうとする侍女にも、貴婦人にも、噂の手にも。
そして決定的に、言った。
「彼女に触れるな。恥を広げるだけだ」
その瞬間、私の心が音を立てて割れた。
恥。
広げる。
私は唇が震えるのを感じた。
でも泣けない。
泣き方を忘れた目が、ただ痛む。
(……恥なのは、私)
(私は、恥を広げる存在)
頭の中で、最悪の結論が完成してしまう。
それはアランの本心ではない。
守るための言葉だ。
噂を断つための刃だ。
でも、私の心はそこまで辿り着けない。
痛みの方が速い。
会場がざわめく。
ざわめきが噂になる。
噂が今夜、また生まれる。
――公爵が妻を恥だと言った。
――だから触れない。
――やはり妾だ。
私はその瞬間、心の扉を閉めた。
もう、何も期待しない。
期待すれば死ぬ。
期待すれば壊れる。
「……承知いたしました」
自分の声が、他人のように聞こえた。
私は一礼した。
公爵夫人としての礼。
でも、それは降伏の礼だった。
アランの目が揺れる。
揺れて、何か言いたそうに唇が動く。
でも、言えない。
言えば、守りが崩れる。
王宮が殺すかもしれない。
私は視線を合わせなかった。
合わせたら泣く。
泣いたら噂が完成する。
アランは冷たく言った。
「……戻れ」
命令。
いつもの命令。
私は頷き、広間を去った。
背中に刺さる視線が、針のように痛い。
廊下の冷気が頬を撫でた。
その冷たさだけが、私を生かす。
(恥を広げるだけ)
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
“妾”と呼ばれた時より痛い。
“監視”を確信した時より痛い。
“抱きしめられた”誤解より痛い。
なぜならそれは、夫の口から出た言葉だから。
私は自室に戻り、扉を閉め、背中を預けた。
涙は出なかった。
泣けない。
ただ、心が静かに冷えていく。
(私は、もう守られなくていい)
(守られるほど、恥が増えるなら)
その瞬間、私の中の何かが死んだ。
そして私は、二度と同じように夫を見られなくなる。
――守るための突き放しが、私の心を完全に閉ざした日だった。
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