沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ

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第1章 甘い朝、花の香り

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 朝の光が、ゆるやかにレースのカーテンを透き通っていく。
 公爵家の邸宅に併設された離宮の一室は、薔薇とジャスミンの香りに包まれていた。
 ベッドの上でシャルロッテは、白いシーツに頬を埋めたまま目を開ける。
 すぐ隣には、静かな寝息を立てる夫――カリウスの姿。

 夜明け前に寝台へ戻ってきたらしい。
 政務の打ち合わせだと言っていたが、どこか疲れたような影を残している。
 寝顔を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 ――この人の隣で目覚める朝が、こんなにも幸せだなんて。

 彼の頬にそっと指先を伸ばし、髪を撫でる。
 そのとき、低く穏やかな声がした。
 「……ロッテ?」
 目を開けたカリウスが、眠たげに微笑む。
 「もう朝か。まだ眠っていていいのに」
 「いえ、起きたくなりました。あなたと朝を迎えるのが、好きだから」

 思わず口にした言葉に、自分でも頬が熱くなる。
 カリウスは目を細め、起き上がるとゆっくりと彼女の頬を撫でた。
 「そんなことを言うと、仕事に行きたくなくなる」
 「……少しだけなら、行かないでいてもいいですよ?」
 「甘い誘惑だな」

 彼の笑い声が、低く心地よく響く。
 そのまま抱き寄せられ、首筋に唇が触れる。
 香り立つ薔薇のように、心が蕩けていく。
 ――この瞬間だけが、永遠に続けばいい。
 そう願った。

 けれど、現実はいつも少しだけ残酷だ。
 朝食のテーブルにつくころには、彼の表情はもう公爵家の当主らしい硬さを取り戻していた。
 「今日の会合には王家の使節が来る。少し長引くかもしれない」
 「ええ。お帰りが遅くなっても、夕食は温めておきますね」
 「ありがとう。……ああ、それと」

 彼はティーカップを手に取り、視線を落としたまま続けた。
 「昨日、君の父上から手紙が届いた。内容はまだ読んでいないが、あまり良い知らせではないかもしれない」
 「……父から?」
 「詳しくは帰ってから話そう。今は、何も心配しなくていい」

 そう言いながらも、彼の瞳の奥に一瞬だけ影がよぎった。
 それは、昨夜の“沈黙”を思わせるような光だった。
 シャルロッテは何も聞けず、ただ静かにカップを持ち上げた。
 紅茶の表面に映る自分の顔が、少しだけ曇って見える。

 「行ってきます、ロッテ」
 玄関でカリウスが微笑む。
 その指先が、彼女の髪を一束すくい上げる。
 「君の香りが好きだ。……いつも、帰り道に思い出す」
 「そんなことを言われたら、毎日香水を変えたくなってしまいます」
 「変えなくていい。君の香りは、君そのものだ」

 軽い口づけが額に落ちる。
 扉が閉まったあとも、シャルロッテはその言葉の余韻を胸に抱いていた。
 けれど、彼が去ったあと、部屋に残ったのは――
 いつもより強い、薔薇と煙草の混じった香り。

 窓を開けると、風がカーテンを揺らす。
 遠ざかる馬車の音が小さく響く。
 胸の奥で、得体の知れない寂しさが、ひとひらの花びらのように静かに舞い落ちた。

 甘い朝。
 けれど、その香りの奥に、微かな不安が芽生えていた。
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