沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ

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第11章 沈黙の書斎

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 朝、目を覚ますと、雪は静かに積もっていた。
 庭の白が、まるで何もかも覆い隠すように眩しい。
 シャルロッテは寝室の窓辺で立ち尽くし、深く息を吐いた。
 昨夜、カリウスは戻らなかった。
 執務室に泊まったという侍女の報告だけが、彼の存在を知らせている。

 “出立の準備をしている”――
 その言葉が胸の奥で何度も反響する。
 どこへ行くのかも、いつ戻るのかも知らされないまま。
 まるで、妻ではなく、ただの他人になってしまったようだった。

 廊下を歩くと、冷たい空気が頬を刺した。
 執務室の扉の前に立つ。
 重厚な木の扉は、彼が閉ざした心そのもののように見えた。
 けれど、このまま見送ることなどできない。
 意を決して、ノックをした。
 返事はない。
 静かに扉を押すと、鍵はかかっていなかった。

 ――彼の香りがした。
 薔薇と煙草。
 机の上には書類の山と、整然と並ぶペン、そして一枚の白い封筒。
 目に入ったその封に、思わず足が止まる。
 名前が記されていた。
 「アーベントライン・カリウス/ローゼンベルク・シャルロッテ」。

 見覚えのある形式。
 それは――離婚届だった。

 指先が凍りつく。
 息を呑む音さえ、部屋に響くほどの沈黙。
 封はされていない。
 中の紙を取り出すと、日付の欄は空白のまま。
 けれど、彼の筆跡で“署名”だけが記されていた。

 > カリウス・アーベントライン

 視界が揺れる。
 信じたくないのに、確かな現実が目の前にある。
 震える手で書類を握りしめた瞬間、
 背後で扉が軋む音がした。

 「……ロッテ」

 振り向くと、そこにカリウスが立っていた。
 出立用のコートを羽織り、瞳は夜明けの雪のように冷たい。
 「勝手に入ったのか」
 「ごめんなさい……でも、これは何ですか?」
 彼の視線が紙に落ちる。
 わずかに眉が動き、ため息がこぼれた。
 「見られたか……」
 「“見られたか”ではなくて、どういう意味なのか教えてください!」

 彼は答えない。
 ただ机に片手を置き、目を閉じた。
 「これは……必要な時のために書いただけだ」
 「必要な時……? それは“終わり”を決める時、ということですか?」
 「違う。……君を守るためだ」
 「守る?」
 「僕の過去が、君に届かないように」

 その言葉の意味を理解するより早く、涙があふれた。
 「どうして、そんなに何も話してくれないの……?」
 「話せば、君が傷つく」
 「沈黙の方が、もっと傷つきます!」

 声が震えた。
 彼はゆっくりと彼女に歩み寄り、紙を取り上げた。
 「これは、ただの書類だ。君が望まない限り、意味はない」
 「望むわけないわ!」
 「なら、それでいい」

 彼は破り捨てるでもなく、静かに封筒へ戻した。
 その仕草があまりに穏やかで、逆に恐ろしかった。

 「……どこへ行くの?」
 「少し、整理が必要だ。……僕自身の」
 「帰ってきてくれますか?」
 短い沈黙のあと、彼は答えた。
 「約束はできない」

 その言葉が、刃のように心を裂いた。
 彼はコートの襟を立て、振り返らずに扉を開く。
 吹き込む冷たい風が、机の上の紙を揺らした。

 「……行かないで」
 声にならない声。
 扉の向こうに、雪の光だけが残った。

 机の上の離婚届が、静かに彼の香りを残している。
 ――沈黙の書斎。
 そこにあったのは、愛の終わりではなく、
 “信じる力”が壊れかけた夫婦の姿だった。
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