沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ

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第15章 沈む薔薇の庭

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 記者会見の朝、空は薄い鉛色をしていた。
 湯気を立てる“約束のカップ”を両手で包み、シャルロッテはひと口だけベルガモットを含む。金継ぎの線が光を拾い、ひびの軌跡が美しく残っていた。――壊れた場所ほど、強く、目に見える形で。

 外へ出ると、薔薇の庭は雪解けの泥を吸い込み、色のない水たまりが鏡のように空を映していた。
 園丁が帽子を取る。「今年は芽の上がりが遅うございます。根は生きておりますが、土がまだ重い」
 「……根が、生きているなら」
 彼が頷く。「ええ、陽が差せば必ず」

 石造りの噴水の縁に腰を下ろす。ここは、婚約の夜に二人で座った場所――「割れても直せばいい」と笑った彼の横顔が、冷たい水面に揺れた。
 ポケットからハンカチを出す。薔薇と煙草の匂いが薄く残る。彼の。胸がきゅっと痛んだ。

 屋敷の方角で、電話の呼び鈴が鳴った。
 駆け戻ると、受話器の向こうから低い声。「ロッテ」
 「……カリウス様。ねえ、会見、怖くない? 手、冷たくなってない?」
 微かな笑い。「君は相変わらずだ。大丈夫だよ」
 「終わったら――迎えに来て。門のところで、『よく待ったな、姫君』って言って。わたし、練習してるの。“おかえり”の」
 短い沈黙が、電話線の中で凍る。
 「……終わったら、連絡する」
 「“来る”って言って。叱ってから、ぎゅってして。……ね、意地悪でもいいから」
 呼吸の気配だけが近づいて、遠のく。「すぐ始まる。行かないと」
 「行ってらっしゃい、カリウス。――姫君、上手に見送れるから」
 「……ありがとう」
 通話が切れる。言葉の余熱だけが掌に残った。

 受話器を置くと、手が寂しさを持て余す。無意識に指輪を撫でた瞬間――
 白金の輪が、するりと抜けた。
 「あ……」
 床に落ちた指輪は、廊下の端で小さく跳ねて、開け放した扉の向こう――庭の石段を伝い、噴水の浅い水へと転がり落ちた。

 冷たい水に手を入れる。
 息が詰まるほどの冷たさが、骨にまでしみた。
 ぬるりと泥を撫で、石の縁を探り当てる。――指先に硬い感触。掴む。
 引き上げた指輪の薔薇の彫刻に、細い傷が一本走っていた。
 指の甲に小さな痛み。水面に、赤い点がふわりと広がる。
 「痛っ……」
 思わず笑ってしまう。涙の気配と笑いの気配が、喉元でぶつかって、喉が甘くなる。
 「ねえ、叱って。『勝手に怪我をするな』って。……それから、抱っこして。わたし、子どもみたいに泣くから」

 ハンカチで指を押さえ、リングを拭う。
 泥を拭き取ると、細い傷は消えず、光だけがそこに宿った。
 “金継ぎ”のように繕えはしない。でも――傷の入り方を、覚えておくことはできる。
 もう一度、薬指へ。
 少し緩い輪が、迷いながら席に戻ってくる。ぴたりとは馴染まないのに、なぜか彼の掌に導かれた夜の記憶だけは、ぴたりと寄り添う。

 庭に戻ると、風が黒土の匂いを運んできた。
 園丁が土を割る鍬を止め、遠くから帽子のつばを上げる。
「根が呼吸を始めました。――奥さま、春は必ず来ます」
 「ええ。……待つのは、得意よ」
 甘えるように言ってから、自分で苦笑する。待つ女の甘えは、時々少しだけ強がりに似る。

 正午が近づく。屋敷の時計が柔らかく鳴り、遠い鐘の音が追いかける。
 リディアが姿を見せた。「奥さま、会見の中継が始まります」
 「庭で聞くわ。――ここで、例の“練習”もしておきたいの」
 彼女が微笑み、携帯式の受信器を持ってきてくれる。
 スイッチが入ると、ざらりと空気が変わった。人いきれの音。記者たちのざわめき。マイクの前に立つ足音。
 声が、来る。
 ――彼の。

 「アーベントライン財閥後継、カリウス・アーベントラインです」
 胸が、きゅっと縮む。
 「まず、報道について。事実と異なる点が多分にあります。私は――」

 風が、言葉の尻尾を千切っていく。
 シャルロッテは指輪を握り、そっと目を閉じた。
 “信じる力を、失わないで。”
 あの夜の手紙が、内側から灯りをともす。
 ――失わない。たとえ、言葉が途中で途切れても。わたしは“終わり”を先に選ばない。

 「最後に、個人的なことを。……私の家庭について、根拠なき憶測が語られている。沈黙は盾になるが、時に誰かを傷つける。だから今日、言うべきことを言います」
 受信器の向こうで、無数のペン先が一斉に走った。

 シャルロッテは噴水の縁から立ち上がり、泥の庭をひと歩き、ふた歩き。
 濃い土に靴の跡が残るたび、沈んだ薔薇の根元に空気が触れていく。
 ――沈むのは花弁だけでいい。根は、呼吸をやめない。

 「……帰ってきて。叱って、抱きしめて。『よく待ったな、姫君』って言って」
 甘えた囁きは風にほどけ、金継ぎのカップと、傷の入った指輪と、重い土へと沈んだ。
 どれも、まだ温かい。
 春の前の、静かな温度だった。
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