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第十三章:忘却という名の、最期にして最大の復讐
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死の淵を彷徨ったエルフレイデが、三日ぶりに重い瞼を持ち上げたのは、冬の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込む昼下がりだった。
――ここは、あの冷え切った北塔ではない。
王宮で最も日当たりが良く、王の体温が染み付いた「王の寝室」である。
ギルベルトは三日間、一睡もせず、彼女の枕元でその手を握り続けていた。
かつての氷の威厳は影もなく、そこにいるのは――
自らの手で壊してしまった宝物の破片を、血を流しながら繋ぎ合わせようとする、ただの無力な男にすぎなかった。
「……エル、気がついたか! わかるか、私だ。医師を――医師を呼べ!」
声は、今にも切れそうな弦のように震えていた。
エルフレイデはゆっくりと、焦点の定まらない瞳を彼へ向ける。
その瞳は澄み切っており、かつて彼を焼き尽くそうとした憎悪も、執着も、すべて洗い流されたかのように――空虚だった。
「……あの、失礼ですが。どなた、ですか?」
ギルベルトの心臓が、一瞬で凍りついた。
「なにを……言っている。私だ、ギルベルトだ。お前の夫であり、この国の王だ。……ああ、毒のせいで混乱しているのだな。今すぐ――」
「陛下……様でいらっしゃるのですね。申し訳ございません。頭の中に霧がかかったようで……なにも、思い出せませんの」
エルフレイデは、握られていた指先を、そっと――しかし決定的な拒絶の気配とともに引き抜いた。
その仕草ひとつが、ギルベルトの胸に鋭い刃を突き立てる。
「夫、とおっしゃいましたか? ……いいえ、私の記憶にある“陛下”は、もっと冷酷で、私を“毒蛇の娘”と呼んで蔑む、氷のような目をしていたはずですわ」
「それは……それは、お前を守るための嘘だった! エル、頼む、思い出してくれ。私はお前を救いたくて、あえて憎まれ役を――」
「……守る? 私を?」
エルフレイデは小首を傾げ、困ったように微笑む。
それは、あまりにも他人行儀で、遠い微笑だった。
「陛下、冗談が過ぎますわ。私のような“平和の生贄”に、そのような熱い言葉を向けてくださる方がいるはずございませんもの。……でも、不思議ですわね。貴方の悲しそうな眼差しを見ると、胸の奥が――ほんの少しだけ、不快になりますの」
「……不快、だと?」
「ええ。まるで、貴方のせいで私が死にかけたことを、私の心だけが覚えているかのように。……思い出さない方が、私は幸せでいられる――そんな気がいたしますの」
ギルベルトは絶句した。
彼女は、憎しみすら手放した。
かつて共有していた痛みも、怒りも、罪も――すべてを「無」に変えることで。
謝罪も、悔恨も、贖いも、愛も。
そのどれも、彼女の手に届かない場所へ追放された。
憎しみには、まだ繋がりがあった。
だが今、彼女が選んだのは――過去のすべてを無価値にする、徹底した断絶だった。
「……ところで陛下。先ほどから扉の外で騒いでいるあの方は、どなた?」
扉の向こうでは、捕縛されたリヴィアが狂ったように叫んでいた。
「ギル様! 助けて! あの女は嘘をついてるわ、記憶なんてあるはずがない! 私を殺すために演技を――!」
ギルベルトは立ち上がり、地の底から響くような声で命じた。
「その女を連れて行け。……処刑はしない。アステラ王国へ“壊れたまま”送り返せ。光の差さぬ地下牢で、一生、自らの罪に苛まれ続けろ。――二度と、その汚らわしい声をエルの耳に触れさせるな」
「ギル様ぁぁぁ!!」
絶叫が遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、死人のように蒼白な王と、無垢な少女のように微笑む王妃。
「……陛下、そんな恐ろしいお顔をなさらないで。私は王妃としての務めなら、記憶がなくとも果たせますわ。……以前、仰ってくださいましたわね。私はただの“置物”として、隣に座っていれば良いのだと」
「エル……頼む、もうそんなふうに自分を貶めないでくれ。私はお前を愛している。心の底から、命を懸けて――!」
「愛、ですか? まあ、素敵な言葉。ですが陛下、私には――少しも響きませんの。だって私は、今日、貴方と“初めて”お会いしたと思っておりますから」
エルフレイデは窓外へ視線を流し、わずかに口角を上げた。
(そうよ、ギルベルト。――もう遅いの。
憎んであげることすら、貴方には与えない)
彼女は、愛を失う恐怖に狂う王を、記憶喪失という名の檻に閉じ込めた。
彼がどれほど真実を語ろうと――
「覚えていません」の一言で、すべてを退ける。
彼がどれほど優しく触れようと――
「初対面の方に触れられるのは不快です」と突き放す。
それは、愛より深く、憎しみより冷酷な――
エルフレイデの「忘却の復讐」。
王が注ぐ愛が深まれば深まるほど、
それを受け取ってもらえない絶望が、ギルベルトを永遠に蝕み続けるのだった。
――ここは、あの冷え切った北塔ではない。
王宮で最も日当たりが良く、王の体温が染み付いた「王の寝室」である。
ギルベルトは三日間、一睡もせず、彼女の枕元でその手を握り続けていた。
かつての氷の威厳は影もなく、そこにいるのは――
自らの手で壊してしまった宝物の破片を、血を流しながら繋ぎ合わせようとする、ただの無力な男にすぎなかった。
「……エル、気がついたか! わかるか、私だ。医師を――医師を呼べ!」
声は、今にも切れそうな弦のように震えていた。
エルフレイデはゆっくりと、焦点の定まらない瞳を彼へ向ける。
その瞳は澄み切っており、かつて彼を焼き尽くそうとした憎悪も、執着も、すべて洗い流されたかのように――空虚だった。
「……あの、失礼ですが。どなた、ですか?」
ギルベルトの心臓が、一瞬で凍りついた。
「なにを……言っている。私だ、ギルベルトだ。お前の夫であり、この国の王だ。……ああ、毒のせいで混乱しているのだな。今すぐ――」
「陛下……様でいらっしゃるのですね。申し訳ございません。頭の中に霧がかかったようで……なにも、思い出せませんの」
エルフレイデは、握られていた指先を、そっと――しかし決定的な拒絶の気配とともに引き抜いた。
その仕草ひとつが、ギルベルトの胸に鋭い刃を突き立てる。
「夫、とおっしゃいましたか? ……いいえ、私の記憶にある“陛下”は、もっと冷酷で、私を“毒蛇の娘”と呼んで蔑む、氷のような目をしていたはずですわ」
「それは……それは、お前を守るための嘘だった! エル、頼む、思い出してくれ。私はお前を救いたくて、あえて憎まれ役を――」
「……守る? 私を?」
エルフレイデは小首を傾げ、困ったように微笑む。
それは、あまりにも他人行儀で、遠い微笑だった。
「陛下、冗談が過ぎますわ。私のような“平和の生贄”に、そのような熱い言葉を向けてくださる方がいるはずございませんもの。……でも、不思議ですわね。貴方の悲しそうな眼差しを見ると、胸の奥が――ほんの少しだけ、不快になりますの」
「……不快、だと?」
「ええ。まるで、貴方のせいで私が死にかけたことを、私の心だけが覚えているかのように。……思い出さない方が、私は幸せでいられる――そんな気がいたしますの」
ギルベルトは絶句した。
彼女は、憎しみすら手放した。
かつて共有していた痛みも、怒りも、罪も――すべてを「無」に変えることで。
謝罪も、悔恨も、贖いも、愛も。
そのどれも、彼女の手に届かない場所へ追放された。
憎しみには、まだ繋がりがあった。
だが今、彼女が選んだのは――過去のすべてを無価値にする、徹底した断絶だった。
「……ところで陛下。先ほどから扉の外で騒いでいるあの方は、どなた?」
扉の向こうでは、捕縛されたリヴィアが狂ったように叫んでいた。
「ギル様! 助けて! あの女は嘘をついてるわ、記憶なんてあるはずがない! 私を殺すために演技を――!」
ギルベルトは立ち上がり、地の底から響くような声で命じた。
「その女を連れて行け。……処刑はしない。アステラ王国へ“壊れたまま”送り返せ。光の差さぬ地下牢で、一生、自らの罪に苛まれ続けろ。――二度と、その汚らわしい声をエルの耳に触れさせるな」
「ギル様ぁぁぁ!!」
絶叫が遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、死人のように蒼白な王と、無垢な少女のように微笑む王妃。
「……陛下、そんな恐ろしいお顔をなさらないで。私は王妃としての務めなら、記憶がなくとも果たせますわ。……以前、仰ってくださいましたわね。私はただの“置物”として、隣に座っていれば良いのだと」
「エル……頼む、もうそんなふうに自分を貶めないでくれ。私はお前を愛している。心の底から、命を懸けて――!」
「愛、ですか? まあ、素敵な言葉。ですが陛下、私には――少しも響きませんの。だって私は、今日、貴方と“初めて”お会いしたと思っておりますから」
エルフレイデは窓外へ視線を流し、わずかに口角を上げた。
(そうよ、ギルベルト。――もう遅いの。
憎んであげることすら、貴方には与えない)
彼女は、愛を失う恐怖に狂う王を、記憶喪失という名の檻に閉じ込めた。
彼がどれほど真実を語ろうと――
「覚えていません」の一言で、すべてを退ける。
彼がどれほど優しく触れようと――
「初対面の方に触れられるのは不快です」と突き放す。
それは、愛より深く、憎しみより冷酷な――
エルフレイデの「忘却の復讐」。
王が注ぐ愛が深まれば深まるほど、
それを受け取ってもらえない絶望が、ギルベルトを永遠に蝕み続けるのだった。
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