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第1話:恋愛アルバイト、時給1200円
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十一月の夕暮れ、俺の名前は結城ゆうや、大学2年。今日もスマホの残高表示が「127円」を無慈悲に点滅させている。
コンビニのレジで立ちながら、頭の中で計算する。家賃4万5千円、今月分の支払いがもう2週間遅れてる。大家さんからの督促状が3通、机の上で俺を睨んでる。
「結城くん、今日はお疲れさま。シフト、来週少し減らすかもしれないから」
店長の言葉が、胸に刺さる。バイト代月6万円が5万円になったら、もう生活できない。
母さんは看護師の夜勤で家にいない。一人暮らしのアパートに帰ると、冷蔵庫の中身はもやしと卵だけ。奨学金の返済通知書を見るたび、将来への不安が押し寄せる。総額320万円。月3万円を13年間。
「こんな状況で恋愛なんて、夢のまた夢だよな...」
ベッドに転がりながら、高校時代の彼女・さやかのことを思い出す。デート代が出せなくて、自然消滅した苦い記憶。あの時から、恋愛は「お金に余裕がある人の特権」だと思ってた。
でも、心の奥底では憧れてる。映画みたいな甘い恋愛、手を繋いで歩くキャンパスライフ、一緒に笑い合える相手。
そんな絶望のどん底で、運命の出会いが待ってるなんて、この時は知る由もなかった。
◆
翌日の昼休み、大学の学食で280円の素うどんをすすりながら、俺は掲示板の前を通りかかった。
サークル勧誘、アルバイト募集、資格試験の案内...いつもの光景。でも、その中に一枚だけ、手書きの黄ばんだコピー用紙が目に留まった。
『【緊急募集】実験モニター大募集中!
条件:大学生・20歳以上・イケメン限定(自己申告可)
内容:心理実験の協力
報酬:時給1200円+交通費全額支給
期間:1ヶ月(週2回、1回2時間)
秘密厳守必須! 演技力のある方歓迎♪
※真剣に取り組める方のみ
連絡先:090-XXXX-XXXX(水無瀬)』
時給1200円。コンビニの1.2倍だ。月収にすると約2万円のアップ。これがあれば、家賃の遅れを取り戻せる。
でも、怪しい。イケメン限定?演技力?心理実験って何だ?
俺は鏡で自分の顔を確認した。茶色の短髪、優しい茶色の瞳、人懐っこい笑顔。客観的に見て...ギリギリイケメンの範囲内か?
「背に腹は代えられない。やるしかない」
決意を固めて、チラシの電話番号をスマホに入力した。
その日の夜、アパートで勇気を振り絞って電話をかけた。コール音が3回鳴った後、受話器から流れてきた声に、俺の心臓が跳ねた。
「はい、水無瀬です」
女性の声。低めで、落ち着いてる。でも、どこか甘い響きがある。大人の女性って感じだ。
「あ、あの...掲示板のモニター募集を見て電話したんですが...」
「ああ、ありがとうございます。お名前は?」
「結城ゆうやです。大学2年で...」
「結城さんね。声、いいわね。落ち着いてるし、優しそう。年齢は?」
「20歳です」
「完璧。条件クリアね。明日、お時間ありますか? 簡単な面接をしたいんです」
面接? 俺の心拍が上がる。この声の主は、どんな人なんだろう。
「はい、大丈夫です。どちらで?」
「大学から徒歩5分のビル。詳しい住所、メールで送りますね。あ、それと...」
「はい?」
「期待してるわ、結城さん。あなたの声、とても...魅力的」
魅力的? 電話越しでも、頬が熱くなる。この人、何者だ?
電話を切った後、送られてきたメールを確認する。住所と時間、そして最後に一言。
『明日、お会いできるのを楽しみにしています。- 水無瀬こころ』
こころ。名前からして、ミステリアス。
その夜、俺は興奮と不安で眠れなかった。
◆
翌日の午後3時、指定された古いビルの前に立っていた。エレベーターなしの3階建て。階段を上りながら、心臓の音が耳に響く。
3階の「302号室」のドアの前で、深呼吸。ノックする手が、わずかに震える。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、電話で聞いたあの声。でも、直接聞くともっと魅力的だ。
ドアを開けた瞬間、俺の時間が止まった。
部屋は白い壁のシンプルなラボ風。机の上にはノートPCと見たことのない精密機械が並んでいる。でも、そんなものは全部どうでもよくなった。
そこに立っていた女性を見た瞬間、息を飲んだ。
白衣を羽織った、黒髪ロングの美女。年齢は俺より上、24、5歳くらいか。眼鏡の奥の瞳が深い黒色で、知的で少し冷たい印象。でも、その冷たさが逆に神秘的で魅力的だ。
スラッとした体型に、白衣の下から覗くネイビーのブラウス。上品で洗練された雰囲気。香水の匂いが、かすかに甘い。フローラル系?いや、もっと上品な香り。
「こんにちは。結城ゆうやさんですね?私は水無瀬こころ、心理学の大学院生です。座ってください」
彼女は淡々と手を差し出して、俺を椅子に促した。距離、約1メートル。なのに、なんか息苦しい。声が、電話で聞いたより生々しくて、耳に残る。
「えっと、どんな実験なんですか?チラシに詳しく書いてなかったので...」
俺が聞くと、彼女は資料の束をパラパラめくりながら、静かに説明を始めた。眼鏡を押し上げる仕草が、なぜかセクシーに見える。
「恋愛感情の生理的反応を観察する研究なんです。心拍数、脳波、視線追跡、触覚刺激による感情変化...そういうデータを集めて、修士論文にまとめたいの。あなたには、その"彼氏役"をお願いしたいんです」
彼氏役? 俺は思わず咳き込んだ。
「え、待ってください。恋愛実験って...具体的には?」
こころさんは眼鏡を押し上げ、小さく微笑んだ。笑顔なのに、目が笑ってない感じ。なんか、ぞわっとした。でも、その神秘的な雰囲気に引き込まれる。
「リアルな恋人関係を演じてもらうんです。毎回2時間、私の"彼氏役"として振る舞って。手を繋いだり、視線を合わせたり、場合によってはもう少し...親密な接触も。普通のカップルがするようなことを、センサーでデータを取りながら。痛くも怖くもないわ。報酬は時給1200円、1ヶ月契約。交通費も出します」
親密な接触? 俺の頭の中で、警報が鳴り響く。これは、ただのバイトじゃない。でも、拒否ったら家賃が払えない。
それに、彼女の視線が俺の顔をじっと見てる。評価されてるみたいで、背筋が伸びる。
「...わかりました。やります。契約書とかあります?」
「ええ、こちら。サインをお願いします」
資料を渡される時、指先が触れた。一瞬の接触だけど、電流みたいなものが走る。彼女の手、思ったより温かい。
契約書の内容はシンプル:秘密保持、実験中の演技協力、報酬支払い。なんか、恋愛契約書みたいで現実感がない。
サインしたら、こころさんは満足げに頷いた。
「ありがとう。これで正式に、あなたは私の"恋人役"ね。じゃあ、今日から始めましょうか。初回は軽く、自己紹介と基本的な反応テストから」
「え、今すぐですか?準備とか...」
「恋人は準備なんかしないわ。自然に、ね?」
彼女は椅子を俺の隣に引き寄せた。距離、30センチ。白衣の袖から、細い腕が覗く。香りが強くなる。近くで見ると、肌が透き通るように白い。
「じゃあ、名前で呼んで。私の名前は"こころ"。恋人同士なんだから、"さん"付けはなしよ」
「こ、こころ...?」
声が上ずった。彼女の瞳が、俺を捉える。黒くて、底が見えない。なんか、吸い込まれそう。
「そう。いい響きね、あなたの声。今度は私の番よ。」
「ゆうや...」
彼女の唇から出る俺の名前。こんなに甘く聞こえるなんて、思わなかった。
「慣れるわよ。恋は、最初はみんなそう。じゃあ、基本的な反応テスト。心拍センサーを貼るから、ちょっと待って」
彼女は俺の指先に小さなパッドを貼った。冷たい感触。機械がピッと鳴り、モニターに波形が表示される。心拍、80。普通だ。
でも、彼女の指が俺の手に触れる度に、数値が跳ねる。
「まずは視線固定テスト。30秒間、目を逸らさないで。恋人同士なら、これくらい普通でしょ?」
普通? 全然普通じゃない。
「スタート」
目が合う。こころさんの睫毛が、微かに動く。1秒、2秒...。彼女の唇が、わずかに開く。息が、俺の頰にかかる。距離が近い。熱い。
10秒。俺の心拍が、90に跳ねる。ピッ、ピッ。彼女の目が、わずかに細くなる。楽しんでる?それとも、緊張?
20秒。喉が乾く。視線が絡まって、動かせない。彼女の瞳に、何か別の光が宿る。理性?それとも、もっと深いもの?
25秒。彼女の頬が、ほんのり赤くなる。気のせいか?いや、確かに赤い。
30秒。
「終了」
こころさんはゆっくり息を吐き、モニターを覗き込んだ。
「心拍数、平均105。いい反応ね。恋愛感情の初期兆候が出てるわ。これ、データとして優秀」
「そりゃ、こんな状況で普通じゃいられませんよ。心臓バクバクです」
俺が笑って誤魔化すと、彼女は小さく首を傾げた。眼鏡のレンズが、光を反射する。
「ふふ、照れてるの?可愛いわね、ゆうや。恋人役、向いてるかも」
可愛い? 俺は熱くなって、言葉に詰まった。
彼女は立ち上がり、白衣を直した。部屋の空気が、急に重くなる。実験が終わった途端、現実に引き戻される感覚。
「今日はこれでおしまい。次は来週火曜日、同じ時間。忘れ物ない?」
ドアまで送ってくれる。廊下で、彼女がぽつりと呟いた。
「あなたみたいな人、初めて。楽しみだわ、この実験」
楽しみ? 俺は頷くしかなかった。
階段を下りながら、指先のセンサーの跡を撫でる。心拍、まだ収まってない。
家に帰ってベッドに転がった。時給1200円のバイト、始まったばかりだ。なのに、頭の中は彼女の瞳でいっぱい。こころ。名前を呼ぶだけで、胸がざわつく。
スマホに、彼女からのメールが届いた。
『今日はお疲れさまでした。とても良いデータが取れました。来週も、よろしくお願いします。- こころ』
短いメッセージなのに、何度も読み返してしまう。
これは、ただのアルバイトか?それとも、もっと危ない何か?
次の火曜日が、待ち遠しくて怖い。
俺の大学生活は、今日から変わった。恋愛実験の渦に、巻き込まれたんだ。
でも、不思議と後悔はない。むしろ、初めて感じる高揚感。
明日からまた、もやしと卵の生活が続く。でも、心の中に小さな光が灯った。
こころさんとの火曜日。それが、俺の新しい希望だった。
その夜、母さんから久しぶりに電話があった。
「ゆうや、元気?夜勤続きで連絡できなくて、ごめんね」
「大丈夫だよ、母さん。新しいバイト見つけたから」
「そう?良かった。でも、変な仕事じゃないでしょうね?」
変な仕事...確かに変だ。でも、悪い変じゃない。
「心配しないで。ちゃんとしたところだから」
電話を切った後、窓の外を見る。夜空に星が見える。いつもより、明るく見えた。
明日から、また普通の大学生活。でも、火曜日には、あの部屋で彼女と会う。
恋愛実験。演技のはずなのに、胸の奥で何かが動いてる。
これが、恋の始まりなのかもしれない。
コンビニのレジで立ちながら、頭の中で計算する。家賃4万5千円、今月分の支払いがもう2週間遅れてる。大家さんからの督促状が3通、机の上で俺を睨んでる。
「結城くん、今日はお疲れさま。シフト、来週少し減らすかもしれないから」
店長の言葉が、胸に刺さる。バイト代月6万円が5万円になったら、もう生活できない。
母さんは看護師の夜勤で家にいない。一人暮らしのアパートに帰ると、冷蔵庫の中身はもやしと卵だけ。奨学金の返済通知書を見るたび、将来への不安が押し寄せる。総額320万円。月3万円を13年間。
「こんな状況で恋愛なんて、夢のまた夢だよな...」
ベッドに転がりながら、高校時代の彼女・さやかのことを思い出す。デート代が出せなくて、自然消滅した苦い記憶。あの時から、恋愛は「お金に余裕がある人の特権」だと思ってた。
でも、心の奥底では憧れてる。映画みたいな甘い恋愛、手を繋いで歩くキャンパスライフ、一緒に笑い合える相手。
そんな絶望のどん底で、運命の出会いが待ってるなんて、この時は知る由もなかった。
◆
翌日の昼休み、大学の学食で280円の素うどんをすすりながら、俺は掲示板の前を通りかかった。
サークル勧誘、アルバイト募集、資格試験の案内...いつもの光景。でも、その中に一枚だけ、手書きの黄ばんだコピー用紙が目に留まった。
『【緊急募集】実験モニター大募集中!
条件:大学生・20歳以上・イケメン限定(自己申告可)
内容:心理実験の協力
報酬:時給1200円+交通費全額支給
期間:1ヶ月(週2回、1回2時間)
秘密厳守必須! 演技力のある方歓迎♪
※真剣に取り組める方のみ
連絡先:090-XXXX-XXXX(水無瀬)』
時給1200円。コンビニの1.2倍だ。月収にすると約2万円のアップ。これがあれば、家賃の遅れを取り戻せる。
でも、怪しい。イケメン限定?演技力?心理実験って何だ?
俺は鏡で自分の顔を確認した。茶色の短髪、優しい茶色の瞳、人懐っこい笑顔。客観的に見て...ギリギリイケメンの範囲内か?
「背に腹は代えられない。やるしかない」
決意を固めて、チラシの電話番号をスマホに入力した。
その日の夜、アパートで勇気を振り絞って電話をかけた。コール音が3回鳴った後、受話器から流れてきた声に、俺の心臓が跳ねた。
「はい、水無瀬です」
女性の声。低めで、落ち着いてる。でも、どこか甘い響きがある。大人の女性って感じだ。
「あ、あの...掲示板のモニター募集を見て電話したんですが...」
「ああ、ありがとうございます。お名前は?」
「結城ゆうやです。大学2年で...」
「結城さんね。声、いいわね。落ち着いてるし、優しそう。年齢は?」
「20歳です」
「完璧。条件クリアね。明日、お時間ありますか? 簡単な面接をしたいんです」
面接? 俺の心拍が上がる。この声の主は、どんな人なんだろう。
「はい、大丈夫です。どちらで?」
「大学から徒歩5分のビル。詳しい住所、メールで送りますね。あ、それと...」
「はい?」
「期待してるわ、結城さん。あなたの声、とても...魅力的」
魅力的? 電話越しでも、頬が熱くなる。この人、何者だ?
電話を切った後、送られてきたメールを確認する。住所と時間、そして最後に一言。
『明日、お会いできるのを楽しみにしています。- 水無瀬こころ』
こころ。名前からして、ミステリアス。
その夜、俺は興奮と不安で眠れなかった。
◆
翌日の午後3時、指定された古いビルの前に立っていた。エレベーターなしの3階建て。階段を上りながら、心臓の音が耳に響く。
3階の「302号室」のドアの前で、深呼吸。ノックする手が、わずかに震える。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、電話で聞いたあの声。でも、直接聞くともっと魅力的だ。
ドアを開けた瞬間、俺の時間が止まった。
部屋は白い壁のシンプルなラボ風。机の上にはノートPCと見たことのない精密機械が並んでいる。でも、そんなものは全部どうでもよくなった。
そこに立っていた女性を見た瞬間、息を飲んだ。
白衣を羽織った、黒髪ロングの美女。年齢は俺より上、24、5歳くらいか。眼鏡の奥の瞳が深い黒色で、知的で少し冷たい印象。でも、その冷たさが逆に神秘的で魅力的だ。
スラッとした体型に、白衣の下から覗くネイビーのブラウス。上品で洗練された雰囲気。香水の匂いが、かすかに甘い。フローラル系?いや、もっと上品な香り。
「こんにちは。結城ゆうやさんですね?私は水無瀬こころ、心理学の大学院生です。座ってください」
彼女は淡々と手を差し出して、俺を椅子に促した。距離、約1メートル。なのに、なんか息苦しい。声が、電話で聞いたより生々しくて、耳に残る。
「えっと、どんな実験なんですか?チラシに詳しく書いてなかったので...」
俺が聞くと、彼女は資料の束をパラパラめくりながら、静かに説明を始めた。眼鏡を押し上げる仕草が、なぜかセクシーに見える。
「恋愛感情の生理的反応を観察する研究なんです。心拍数、脳波、視線追跡、触覚刺激による感情変化...そういうデータを集めて、修士論文にまとめたいの。あなたには、その"彼氏役"をお願いしたいんです」
彼氏役? 俺は思わず咳き込んだ。
「え、待ってください。恋愛実験って...具体的には?」
こころさんは眼鏡を押し上げ、小さく微笑んだ。笑顔なのに、目が笑ってない感じ。なんか、ぞわっとした。でも、その神秘的な雰囲気に引き込まれる。
「リアルな恋人関係を演じてもらうんです。毎回2時間、私の"彼氏役"として振る舞って。手を繋いだり、視線を合わせたり、場合によってはもう少し...親密な接触も。普通のカップルがするようなことを、センサーでデータを取りながら。痛くも怖くもないわ。報酬は時給1200円、1ヶ月契約。交通費も出します」
親密な接触? 俺の頭の中で、警報が鳴り響く。これは、ただのバイトじゃない。でも、拒否ったら家賃が払えない。
それに、彼女の視線が俺の顔をじっと見てる。評価されてるみたいで、背筋が伸びる。
「...わかりました。やります。契約書とかあります?」
「ええ、こちら。サインをお願いします」
資料を渡される時、指先が触れた。一瞬の接触だけど、電流みたいなものが走る。彼女の手、思ったより温かい。
契約書の内容はシンプル:秘密保持、実験中の演技協力、報酬支払い。なんか、恋愛契約書みたいで現実感がない。
サインしたら、こころさんは満足げに頷いた。
「ありがとう。これで正式に、あなたは私の"恋人役"ね。じゃあ、今日から始めましょうか。初回は軽く、自己紹介と基本的な反応テストから」
「え、今すぐですか?準備とか...」
「恋人は準備なんかしないわ。自然に、ね?」
彼女は椅子を俺の隣に引き寄せた。距離、30センチ。白衣の袖から、細い腕が覗く。香りが強くなる。近くで見ると、肌が透き通るように白い。
「じゃあ、名前で呼んで。私の名前は"こころ"。恋人同士なんだから、"さん"付けはなしよ」
「こ、こころ...?」
声が上ずった。彼女の瞳が、俺を捉える。黒くて、底が見えない。なんか、吸い込まれそう。
「そう。いい響きね、あなたの声。今度は私の番よ。」
「ゆうや...」
彼女の唇から出る俺の名前。こんなに甘く聞こえるなんて、思わなかった。
「慣れるわよ。恋は、最初はみんなそう。じゃあ、基本的な反応テスト。心拍センサーを貼るから、ちょっと待って」
彼女は俺の指先に小さなパッドを貼った。冷たい感触。機械がピッと鳴り、モニターに波形が表示される。心拍、80。普通だ。
でも、彼女の指が俺の手に触れる度に、数値が跳ねる。
「まずは視線固定テスト。30秒間、目を逸らさないで。恋人同士なら、これくらい普通でしょ?」
普通? 全然普通じゃない。
「スタート」
目が合う。こころさんの睫毛が、微かに動く。1秒、2秒...。彼女の唇が、わずかに開く。息が、俺の頰にかかる。距離が近い。熱い。
10秒。俺の心拍が、90に跳ねる。ピッ、ピッ。彼女の目が、わずかに細くなる。楽しんでる?それとも、緊張?
20秒。喉が乾く。視線が絡まって、動かせない。彼女の瞳に、何か別の光が宿る。理性?それとも、もっと深いもの?
25秒。彼女の頬が、ほんのり赤くなる。気のせいか?いや、確かに赤い。
30秒。
「終了」
こころさんはゆっくり息を吐き、モニターを覗き込んだ。
「心拍数、平均105。いい反応ね。恋愛感情の初期兆候が出てるわ。これ、データとして優秀」
「そりゃ、こんな状況で普通じゃいられませんよ。心臓バクバクです」
俺が笑って誤魔化すと、彼女は小さく首を傾げた。眼鏡のレンズが、光を反射する。
「ふふ、照れてるの?可愛いわね、ゆうや。恋人役、向いてるかも」
可愛い? 俺は熱くなって、言葉に詰まった。
彼女は立ち上がり、白衣を直した。部屋の空気が、急に重くなる。実験が終わった途端、現実に引き戻される感覚。
「今日はこれでおしまい。次は来週火曜日、同じ時間。忘れ物ない?」
ドアまで送ってくれる。廊下で、彼女がぽつりと呟いた。
「あなたみたいな人、初めて。楽しみだわ、この実験」
楽しみ? 俺は頷くしかなかった。
階段を下りながら、指先のセンサーの跡を撫でる。心拍、まだ収まってない。
家に帰ってベッドに転がった。時給1200円のバイト、始まったばかりだ。なのに、頭の中は彼女の瞳でいっぱい。こころ。名前を呼ぶだけで、胸がざわつく。
スマホに、彼女からのメールが届いた。
『今日はお疲れさまでした。とても良いデータが取れました。来週も、よろしくお願いします。- こころ』
短いメッセージなのに、何度も読み返してしまう。
これは、ただのアルバイトか?それとも、もっと危ない何か?
次の火曜日が、待ち遠しくて怖い。
俺の大学生活は、今日から変わった。恋愛実験の渦に、巻き込まれたんだ。
でも、不思議と後悔はない。むしろ、初めて感じる高揚感。
明日からまた、もやしと卵の生活が続く。でも、心の中に小さな光が灯った。
こころさんとの火曜日。それが、俺の新しい希望だった。
その夜、母さんから久しぶりに電話があった。
「ゆうや、元気?夜勤続きで連絡できなくて、ごめんね」
「大丈夫だよ、母さん。新しいバイト見つけたから」
「そう?良かった。でも、変な仕事じゃないでしょうね?」
変な仕事...確かに変だ。でも、悪い変じゃない。
「心配しないで。ちゃんとしたところだから」
電話を切った後、窓の外を見る。夜空に星が見える。いつもより、明るく見えた。
明日から、また普通の大学生活。でも、火曜日には、あの部屋で彼女と会う。
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