年上彼女と危険なバイト

月下花音

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第2話:手を繋ぐのも、実験のうち

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火曜日の夕方、俺はまたあの古いビルの前に立っていた。心臓が、すでに少し速い。

時給1200円のバイト、2回目。昨日の夜、ベッドで何度も天井を見つめた。こころの瞳、香り、視線固定の30秒。あれは本当に実験だったのか?それとも、俺の頭がおかしくなっただけなのか。

朝、コンビニのシフトで店長に「最近、顔色いいな」と言われた。そうか?自分では分からない。でも、確かに昨日から何かが違う。胸の奥に、小さな光が灯ったような感覚。

昼休みに友達の田中と学食で話していた時も、集中できなかった。

「ゆうや、聞いてる?新しいバイト、どうなんだよ」

「あ、うん。まあ、普通かな」

普通?全然普通じゃない。でも、秘密厳守の契約書にサインしてる。話せるわけがない。

「時給いいんだろ?羨ましいわ。俺なんて塾講師800円だぜ」

田中の愚痴を聞きながら、俺は心の中で複雑な気持ちになった。確かに時給はいい。でも、この仕事の内容を知ったら、田中はなんて言うだろう。



階段を上る足音が、妙に響く。302号室のドアをノックすると、中から「どうぞ」の声。

開けると、いつもの白衣姿のこころさんが、机の向かいに座っていた。今日は眼鏡を外してる。黒髪が肩に落ちて、柔らかい印象。部屋の空気は、前回より甘い。彼女の匂いか?

「ゆうや、時間通りね。座って。今日は触覚刺激の測定よ」

彼女は淡々とノートPCを操作しながら言った。画面に波形が表示される。心拍センサーの準備は万端のようだ。

俺は椅子に腰を下ろし、深呼吸した。距離、50センチ。まだ安全圏だ。

机の上には、前回なかった資料が積まれている。「触覚刺激による愛着形成の神経科学的研究」「恋愛関係における身体接触の心理的効果」といったタイトルが見える。本格的な学術研究なんだ、これは。

「触覚刺激って……具体的には?」

俺の声が、少し震えた。こころさんは資料をめくり、冷静に説明を始める。声が低くて、耳に染みる。

「恋人同士の触れ合いが、心理的親密度にどう影響するかを観察するの。今日は手を繋ぐだけ。センサーを指先に付けて、心拍と皮膚抵抗を測るわ。簡単でしょ?」

手を繋ぐだけ?簡単?

俺は喉を鳴らした。頭の中で、警報が鳴る。でも、拒否ったら家賃の督促状が来る。サインした契約書が、脳裏に浮かぶ。

「わかりました。じゃあ、始めましょうか」

「その前に、少し説明させて。今日の実験の理論的背景よ」

こころさんは資料を俺の方に向けた。図表やグラフが並んでいる。

「人間の愛着形成には、身体接触が重要な役割を果たすの。これはハーロウの代理母実験で証明されてる。サルの赤ちゃんは、ミルクをくれる針金の母親より、温かい布でできた母親を選んだ。つまり、物理的な温もりが心理的な安心感を生む」

なるほど、確かに興味深い。俺は経済学部だが、心理学の話は新鮮だ。

「恋愛関係でも同じ。手を繋ぐという行為は、オキシトシンというホルモンの分泌を促進する。これは『愛情ホルモン』とも呼ばれていて、相手への信頼感や愛着を強める効果がある」

「へえ、科学的根拠があるんですね」

「ええ。だから今日の実験は、その理論を実際に検証するの。あなたと私が手を繋いだ時、どんな生理的変化が起こるかを測定する」

彼女の説明を聞いていると、これが本当に学術研究なんだと実感する。でも、同時に不安も湧く。科学的に愛情を測定されるって、なんだか複雑だ。

「じゃあ、恋人モードに入って。名前で呼び合って、自然にね」

彼女は椅子を少し近づけた。距離、30センチ。白衣の袖が、俺の腕に触れそう。香りが強くなる。フローラルで、少し甘酸っぱい。シャンプー?いや、もっと生々しい。

「こころ……今日も綺麗だね」

言われた通り、恋人っぽく言ってみた。俺の声が上ずる。彼女の瞳が、わずかに見開く。一瞬の沈黙。

「ふふ、ありがとう。あなたも、ゆうや。……いい感じよ、その言い方」

彼女は微笑んで、机の下に手を伸ばした。細い指先が、俺の指に触れる。冷たい。いや、温かい?電流みたいに、ビリッと走る。

心拍センサーが、ピッと鳴った。モニターに、波形が跳ねる。

「心拍数、85から92へ上昇。触覚刺激、効果的ね」

こころさんはデータを確認しながら、指を絡めてきた。ゆっくり、優しく。恋人みたいに。彼女の掌が、柔らかい。爪が、俺の皮膚を軽く引っかく。意図的か?

俺の手は、働きすぎでガサガサだ。コンビニのレジ、皿洗いのバイト、そして勉強。彼女の手と比べると、恥ずかしくなる。でも、彼女は嫌がる様子もない。

「これ、ホントに実験なんですか?なんか……本気っぽいんですけど」

俺が聞くと、彼女は小さく首を傾げた。黒髪が揺れる。視線が、俺の唇に落ちる。一瞬、息を飲む。

「実験よ、もちろん。でも、リアルにするのが目的だから。あなたの手、温かいわね。心拍、私の方も少し上がってるみたい」

彼女の指が、わずかに震えた。気のせいか?いや、確かにある。

センサーの電子音が、ピッ、ピッと鳴る。部屋に、静かな緊張が広がる。距離、10センチ。息が混じる。

「面白いデータが出てるわ。皮膚抵抗の変化を見て」

こころさんはモニターを指差した。グラフが波打っている。

「皮膚抵抗が下がるのは、自律神経の興奮を示してる。つまり、あなたは今、生理的に興奮状態にある。これは恋愛感情の初期段階で見られる典型的な反応よ」

「へえ、俺の気持ちが数値で分かるんですね」

「ええ。でも興味深いのは、私のデータも似たような変化を示してること」

え?彼女も測定してるの?

「研究者として、自分の反応も記録してるの。客観性を保つために」

彼女は別のモニターを見せてくれた。確かに、俺と似たような波形が表示されている。

「こころさんも、ドキドキしてるってことですか?」

「……データ上は、そうね。でも、これは研究への興奮かもしれない。新しい発見への期待感」

そう言いながら、彼女の頬がほんのり赤くなる。研究への興奮?本当にそれだけ?

「もっと強く握って。恋人同士なら、こんな感じでしょ?」

命令みたいな声。俺は言われた通り、彼女の手を握り返した。強く、包み込むように。

こころさんの息が、わずかに乱れる。掌の汗が、混ざる。熱い。彼女の瞳が、潤む。

「……強すぎるわ。心拍、105。皮膚抵抗、さらに下がってる。興奮の兆候ね」

彼女はモニターを睨みながら、呟いた。声が、少し上ずってる。実験者のはずなのに、頰がほんのり赤い。耳まで、か?

「次は視線固定のバリエーション。手を繋いだまま、30秒。目を逸らさないで」

カウントが始まる。1秒。こころさんの睫毛が、微かに震える。息が、俺の頰に当たる。温かい。

5秒。彼女の瞳の奥に、何かが見える。知的な冷静さの向こう側に、もっと人間的な何か。不安?期待?

10秒。唇が、わずかに開く。ピンク色で、湿ってる。視線が、絡まる。彼女の瞳に、理性の外側、何かが覗く。好奇心?それとも、欲?

15秒。俺の心の中で、何かが変わっていく。これは演技じゃない。少なくとも、俺にとっては。

20秒。喉が鳴る音が、聞こえる。彼女の?俺の?手が、汗で滑る。心拍、120超え。センサーが、警告音を出す。ピーッ。

25秒。彼女の唇が、わずかに動く。何か言いかけて、止める。

30秒。

「30秒、終了。……データ、優秀すぎるわ。心拍上限に近い」

こころさんは息を吐き、手をゆっくり離した。指先が、名残惜しげに触れる。

彼女は立ち上がり、ノートPCを閉じた。白衣の裾が、揺れる。横顔が、ライトに照らされて、影が落ちる。色っぽい。危ない。

「今日のデータ、予想以上に興味深いわ。オキシトシンの分泌量を推定すると、通常の恋愛関係初期段階と同等の数値が出てる」

「それって、どういう意味ですか?」

「つまり、演技のはずなのに、生理的には本物の恋愛反応が起きてるということ」

彼女は資料を整理しながら、複雑な表情を見せた。

「これは研究として非常に価値がある。でも、同時に……」

「同時に?」

「倫理的な問題が生じる可能性がある。被験者であるあなたに、予期しない感情的影響を与えているかもしれない」

俺は彼女の言葉を聞いて、少し安心した。彼女も、この状況の複雑さを理解してるんだ。

「俺は大丈夫ですよ。むしろ、面白いです。自分の感情が数値で見えるなんて」

「そう?なら良いけれど……」

彼女は少し迷うような表情を見せた。

「今日はこれで。ゆうや、よく頑張ったわ。次回は"恋人の距離"測定よ。もっと……親密に」

「親密って、どんなんですか?」

俺の声が、かすれる。彼女はメモ帳に何かを書き込みながら、いたずらっぽく微笑んだ。眼鏡をかけ直す仕草が、セクシーだ。

「キスまでの距離、10センチ。唇の反応を測るの。心拍数、超過の恐れあり。注意よ?」

絶句。キス?未遂か?それとも……。頭が真っ白になる。

「あ、それと」

彼女は俺に封筒を渡した。

「今日の報酬。2時間分、2400円」

封筒の中身を確認すると、確かに2400円入っている。これで今月の家賃の遅れを少し取り戻せる。

「ありがとうございます」

「お疲れさま。じゃあ、火曜日ね。忘れないで、恋人役」

階段を下りながら、俺は手を握りしめた。掌に、彼女の温もりが残ってる。恋なんて、まだ演技のはずだ。なのに、胸が疼く。

帰り道、コンビニに寄って夕飯を買った。いつものもやしと卵に加えて、今日は肉も買えた。2400円の威力だ。

レジで店長に会った。

「結城くん、なんか最近、表情明るいな。いいことでもあったか?」

「まあ、ちょっと」

「彼女でもできたか?」

彼女?こころさんの顔が浮かぶ。でも、あれは実験だ。演技だ。

「いえ、そんなんじゃないです」

でも、心の奥では分からなくなってきている。

家に帰って、鏡を見た。頰が赤い。心拍、まだ収まらない。

机の上の奨学金返済通知書を見る。月3万円、13年間。総額320万円。重い現実だ。でも、今日は少し軽く感じる。

スマホに、こころさんからメールが届いた。

『今日はお疲れさまでした。非常に興味深いデータが取れました。次回の実験も、よろしくお願いします。- こころ』

短いメッセージなのに、何度も読み返してしまう。

これは、バイトの代償か?それとも、始まってる何か?

次の火曜日が、怖い。楽しみだ。境界が、曖昧になってる。

でも、一つだけ確かなことがある。俺の大学生活は、確実に変わり始めている。

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