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第3話:目を閉じて。これはデータ収集です
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火曜日の夕方、俺はまたあの階段を上っていた。心臓が、うるさい。
時給1200円のバイト、3回目。頭の中は、こころさんのメモ帳の文字でいっぱい。「唇距離10cm。心拍超過の恐れあり」。あれは冗談か?それとも、本気?
この一週間、俺は普通の大学生活を送ろうとした。経済学の講義を受け、コンビニでバイトし、友達と学食で昼飯を食う。でも、頭の片隅にはいつも彼女がいた。
昨日、母さんから電話があった。
「ゆうや、最近声が明るいわね。何かいいことでもあったの?」
「別に、普通だよ」
「そう?でも、なんだか嬉しそうに聞こえるけど」
母さんの直感は鋭い。確かに、何かが変わってる。でも、説明できない。恋愛実験のバイトなんて、言えるわけがない。
今朝、鏡を見た時、自分でも驚いた。顔色がいい。目に光がある。これが、恋の力なのか?
◆
ドアをノックする手が、わずかに震える。
「どうぞ」
中に入ると、こころさんはいつもの白衣姿。でも今日は、髪を少し崩して下ろしてる。眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。
部屋の空気は、熱っぽい。窓から夕陽が差し込んで、彼女の肌を橙色に染める。危ない、綺麗すぎる。
机の上には、今まで以上に精密な機器が並んでいる。心拍計、皮膚抵抗測定器、そして見慣れない小さなカメラのような装置。
「ゆうや、来てくれたのね。座って。今日は"親密度の頂点"測定よ。唇の反応を、科学的にね」
彼女の声が、少し低め。淡々としてるのに、どこか甘い。
俺は椅子に腰を下ろし、喉を鳴らした。距離、40センチ。センサー類が机に並んでる。心拍、皮膚抵抗、果ては瞳孔拡大まで測るらしい。
「今日の実験について、少し説明させて」
こころさんは資料を開いた。グラフや図表が並んでいる。
「恋愛関係における最も重要な身体接触の一つが、キスよ。これは単なる物理的接触以上の意味を持つ。唇には多数の神経終末があり、触覚刺激が脳の報酬系を直接活性化する」
なるほど、科学的根拠があるんだ。
「また、キスの際に分泌されるドーパミンとセロトニンは、愛着形成と幸福感に直結する。今日はその前段階、キス直前の心理的・生理的変化を測定したいの」
「唇の反応って……10cm、ですよね?それ、ホントにやるんですか?」
俺の声が上ずる。こころさんは資料をパラパラめくり、微笑んだ。唇が、わずかに濡れてる。リップ?いや、気のせいか。
「ええ、もちろん。恋人同士なら、キスは普通でしょ?でも今日は未遂で。目を閉じて、距離を保つだけ。データ収集よ。怖がらないで」
怖がらないで?それが一番怖いんだよ。
「その前に、今日使用する測定機器について説明するわ」
こころさんは机の上の装置を指差した。
「これは瞳孔径測定器。瞳孔の拡大は、自律神経の興奮と直結してる。恋愛感情が高まると、瞳孔は平均20-30%拡大することが知られてる」
「へえ、目でも分かるんですね」
「ええ。『目は心の窓』という言葉は、科学的にも正しいの。それと、これは呼吸パターン分析装置。恋愛的興奮時には、呼吸が浅く速くなる特徴的なパターンが現れる」
彼女の説明を聞いていると、改めて実感する。これは本格的な学術研究なんだ。でも、同時に不安も湧く。俺の感情が、すべて数値化されてしまう。
「最後に、これは表情筋電図。顔の微細な筋肉の動きを検出して、無意識の感情変化を読み取る」
「すごいですね。俺の気持ちが全部バレちゃう」
「そうね。でも、それが研究の目的だから」
彼女は少し複雑な表情を見せた。
「ただ、一つ問題があるの」
「問題?」
「研究者である私も、同じ測定を受けることになった。指導教授からの指示よ。客観性を保つために、実験者の反応も記録しなさいって」
つまり、彼女の感情も数値化される?
俺は深呼吸して、頷いた。契約だ。家賃のためだ。……いや、それだけか?
「じゃあ、恋人モード。名前で呼んで、自然に」
彼女は椅子を近づけた。距離、20センチ。白衣の隙間から、鎖骨が覗く。香りが、濃くなる。甘くて、頭がクラクラする。
「こころ……今日の髪、いいね。いつもより柔らかそう」
恋人っぽく、褒めてみた。彼女の頰が、ぽっと赤くなる。一瞬の沈黙。目が合う。
「ありがとう、ゆうや。あなたも、今日のシャツ似合ってるわ。……胸板、逞しいのね」
褒め返し?彼女の視線が、俺の胸に落ちる。
心拍センサーを貼られ、ピッと鳴る。すでに90超え。こりゃ、データ以前に俺が壊れる。
モニターには、俺と彼女、両方のデータが表示されている。興味深いことに、心拍数の変化パターンが似ている。
「面白いわね。同期現象が起きてる」
「同期?」
「恋人同士や親密な関係にある人は、心拍や呼吸が無意識に同調することがあるの。これも愛着の証拠の一つよ」
「スタート。手を繋いで、視線固定から。10秒」
前回のリプレイみたいに、手を握る。温かい。指が絡まって、掌が密着。息が混じる。彼女の瞳が、深くなる。
10秒終了。モニターを見ると、両方の心拍数が上昇している。
「次のステップ。距離15センチ。目は開けたまま」
こころさんは息を吐き、ゆっくり顔を近づけた。距離、15センチ。睫毛が、俺の視界に近づく。
彼女の瞳を見つめていると、その奥に何かを見つける。冷静な研究者の仮面の向こうに、もっと人間的な感情。不安?期待?それとも……。
「瞳孔径、両者とも25%拡大。予想通りの反応ね」
彼女は自分のデータを見て、少し驚いたような表情を見せた。
「私のデータも、予想以上に……」
「どうしたんですか?」
「いえ、何でもないわ。次のステップに進みましょう」
「次、目を閉じて。唇の距離、10cm。心拍と呼吸を測るわ。動かないで」
目を閉じる。暗闇に、彼女の息が聞こえる。温かくて、湿った。距離が縮まる。5センチ?いや、もっと近い。唇の感触が、想像できる。柔らかくて、甘い。
心拍、120。センサーが警告音を出す。ピーッ。彼女の息が、俺の唇に触れる。ほとんど、キスだ。
「こころ……これ、データ収集?」
目を開けずに呟く。声が震える。彼女の声が、耳元で囁く。熱い息。
「ええ、データよ。でも……あなたのを、感じてるわ。心拍、130。私のも、同じくらいかも」
嘘だろ。彼女の指が、俺の手を強く握る。震えてる。意図的?それとも、本気?
暗闇の中で、唇の距離がゼロに近づく。1cm?触れる寸前。
彼女の呼吸が乱れる。俺の心臓が、爆発しそう。理性が、飛ぶ。あと少しで――。
「ストップ!」
こころさんが、慌てて後ろに引いた。目を開けると、彼女の顔が真っ赤。眼鏡がずれかけてる。息が荒い。
モニターに、波形が乱れまくってる。心拍、150超え。警告ランプが点滅。
「データ……異常値。心拍上限超過。ゆうや、ごめんね。やりすぎたわ」
彼女は慌ててセンサーを外し、ノートPCを叩く。指が、震えてる。間違いない。本気だ。実験じゃ、ない。
「こころ、それ……ホントに大丈夫?顔、赤いですよ。俺だけじゃ、ないですよね?」
俺がツッコむと、彼女は小さく笑った。照れ隠しみたいに、髪をかき上げる。白衣の袖が、ずり上がって腕が露わ。細くて、白い。
「ふふ、バレた?あなたが悪いわよ、そんなに反応いいんだもの。恋人役、上手すぎる。……私、研究者失格かも」
失格?それ、告白か?
彼女はモニターを見つめながら、複雑な表情を見せた。
「見て、このデータ。私たちの心拍数、呼吸パターン、瞳孔径……すべてが恋愛関係初期の典型的な数値を示してる。でも、これは実験のはずなのに」
「つまり?」
「つまり、演技のつもりが、生理的には本物の恋愛反応が起きてるということ。これは研究として非常に興味深いけれど、同時に……」
「同時に?」
「倫理的な問題がある。私は研究者として、被験者であるあなたに感情的な影響を与えてはいけない。でも、私自身も同じ影響を受けてる」
部屋に、沈黙が落ちる。センサーの電子音だけが、ピッ、ピッと鳴る。彼女の瞳が、潤んでる。夕陽が、彼女の横顔を照らす。美しすぎて、息が詰まる。
「実は、指導教授から警告を受けたの。被験者との距離感について」
「警告?」
「研究倫理委員会では、実験者と被験者の間に感情的な関係が生じることを厳しく禁じてる。客観性が損なわれるから」
彼女は資料を整理しながら、続けた。
「でも、このデータを見る限り、もう手遅れかもしれない。私たちの間に、何かが生まれてる」
俺は彼女の言葉を聞いて、胸が締め付けられた。研究のためには、この関係を断ち切らなければならないのか?
「こころさん、俺は……」
「言わないで」
彼女は俺の言葉を遮った。
「今、あなたの気持ちを聞いたら、私はもう研究者でいられなくなる。でも、同時に一人の女性として、聞きたい気持ちもある」
「次は、もっと安全なテストにしましょう。でも、今日のデータは宝物よ。唇の距離、効果抜群」
彼女はメモに書き込みながら、立ち上がった。ドアまで送る。廊下で、ぽつりと。
「ゆうや、来週も来てね。……実験、続けたいの。でも、次回は少し違うアプローチで」
「違うアプローチ?」
「日常的な恋人関係の観察。大学内でのデート実験よ。人目のある場所での行動パターンを調べたいの」
デート実験?それって、もはや実験の域を超えてないか?
「あ、それと」
彼女は俺に封筒を渡した。
「今日の報酬。危険手当込みで3000円」
危険手当?彼女なりのジョークか、それとも本気で危険だと思ってるのか。
「ありがとうございます」
「お疲れさま。じゃあ、火曜日ね。忘れないで、恋人役」
◆
階段を下りながら、唇を指で触れる。彼女の息の感触が、残ってる。熱い。
帰り道、大学の図書館に寄った。心理学の本を借りるためだ。恋愛の科学について、もっと知りたくなった。
「恋愛心理学入門」「愛着理論の基礎」「感情の神経科学」。こんな本を借りる日が来るなんて、思わなかった。
家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。心拍、まだ速い。これは、バイトの限界だ。境界が、崩れ始めてる。
こころの震え、あれは演技じゃない。俺と同じ、感じてる。
でも、彼女の立場を考えると複雑だ。研究者として、倫理的な問題を抱えてる。俺のせいで、彼女が困ることになるのか?
スマホに、こころさんからメールが届いた。
『今日はお疲れさまでした。予想以上に興味深いデータが取れましたが、同時に研究の方向性について考え直す必要があります。来週、お話ししたいことがあります。- こころ』
話したいこと?それは研究のことか、それとも……。
次の火曜日が、待ちきれねえ。怖いのに、止まらねえ。
恋の実験が、本物の恋に変わりつつある。でも、それは許されることなのか?
俺たちの関係は、どこに向かっているんだろう。
時給1200円のバイト、3回目。頭の中は、こころさんのメモ帳の文字でいっぱい。「唇距離10cm。心拍超過の恐れあり」。あれは冗談か?それとも、本気?
この一週間、俺は普通の大学生活を送ろうとした。経済学の講義を受け、コンビニでバイトし、友達と学食で昼飯を食う。でも、頭の片隅にはいつも彼女がいた。
昨日、母さんから電話があった。
「ゆうや、最近声が明るいわね。何かいいことでもあったの?」
「別に、普通だよ」
「そう?でも、なんだか嬉しそうに聞こえるけど」
母さんの直感は鋭い。確かに、何かが変わってる。でも、説明できない。恋愛実験のバイトなんて、言えるわけがない。
今朝、鏡を見た時、自分でも驚いた。顔色がいい。目に光がある。これが、恋の力なのか?
◆
ドアをノックする手が、わずかに震える。
「どうぞ」
中に入ると、こころさんはいつもの白衣姿。でも今日は、髪を少し崩して下ろしてる。眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。
部屋の空気は、熱っぽい。窓から夕陽が差し込んで、彼女の肌を橙色に染める。危ない、綺麗すぎる。
机の上には、今まで以上に精密な機器が並んでいる。心拍計、皮膚抵抗測定器、そして見慣れない小さなカメラのような装置。
「ゆうや、来てくれたのね。座って。今日は"親密度の頂点"測定よ。唇の反応を、科学的にね」
彼女の声が、少し低め。淡々としてるのに、どこか甘い。
俺は椅子に腰を下ろし、喉を鳴らした。距離、40センチ。センサー類が机に並んでる。心拍、皮膚抵抗、果ては瞳孔拡大まで測るらしい。
「今日の実験について、少し説明させて」
こころさんは資料を開いた。グラフや図表が並んでいる。
「恋愛関係における最も重要な身体接触の一つが、キスよ。これは単なる物理的接触以上の意味を持つ。唇には多数の神経終末があり、触覚刺激が脳の報酬系を直接活性化する」
なるほど、科学的根拠があるんだ。
「また、キスの際に分泌されるドーパミンとセロトニンは、愛着形成と幸福感に直結する。今日はその前段階、キス直前の心理的・生理的変化を測定したいの」
「唇の反応って……10cm、ですよね?それ、ホントにやるんですか?」
俺の声が上ずる。こころさんは資料をパラパラめくり、微笑んだ。唇が、わずかに濡れてる。リップ?いや、気のせいか。
「ええ、もちろん。恋人同士なら、キスは普通でしょ?でも今日は未遂で。目を閉じて、距離を保つだけ。データ収集よ。怖がらないで」
怖がらないで?それが一番怖いんだよ。
「その前に、今日使用する測定機器について説明するわ」
こころさんは机の上の装置を指差した。
「これは瞳孔径測定器。瞳孔の拡大は、自律神経の興奮と直結してる。恋愛感情が高まると、瞳孔は平均20-30%拡大することが知られてる」
「へえ、目でも分かるんですね」
「ええ。『目は心の窓』という言葉は、科学的にも正しいの。それと、これは呼吸パターン分析装置。恋愛的興奮時には、呼吸が浅く速くなる特徴的なパターンが現れる」
彼女の説明を聞いていると、改めて実感する。これは本格的な学術研究なんだ。でも、同時に不安も湧く。俺の感情が、すべて数値化されてしまう。
「最後に、これは表情筋電図。顔の微細な筋肉の動きを検出して、無意識の感情変化を読み取る」
「すごいですね。俺の気持ちが全部バレちゃう」
「そうね。でも、それが研究の目的だから」
彼女は少し複雑な表情を見せた。
「ただ、一つ問題があるの」
「問題?」
「研究者である私も、同じ測定を受けることになった。指導教授からの指示よ。客観性を保つために、実験者の反応も記録しなさいって」
つまり、彼女の感情も数値化される?
俺は深呼吸して、頷いた。契約だ。家賃のためだ。……いや、それだけか?
「じゃあ、恋人モード。名前で呼んで、自然に」
彼女は椅子を近づけた。距離、20センチ。白衣の隙間から、鎖骨が覗く。香りが、濃くなる。甘くて、頭がクラクラする。
「こころ……今日の髪、いいね。いつもより柔らかそう」
恋人っぽく、褒めてみた。彼女の頰が、ぽっと赤くなる。一瞬の沈黙。目が合う。
「ありがとう、ゆうや。あなたも、今日のシャツ似合ってるわ。……胸板、逞しいのね」
褒め返し?彼女の視線が、俺の胸に落ちる。
心拍センサーを貼られ、ピッと鳴る。すでに90超え。こりゃ、データ以前に俺が壊れる。
モニターには、俺と彼女、両方のデータが表示されている。興味深いことに、心拍数の変化パターンが似ている。
「面白いわね。同期現象が起きてる」
「同期?」
「恋人同士や親密な関係にある人は、心拍や呼吸が無意識に同調することがあるの。これも愛着の証拠の一つよ」
「スタート。手を繋いで、視線固定から。10秒」
前回のリプレイみたいに、手を握る。温かい。指が絡まって、掌が密着。息が混じる。彼女の瞳が、深くなる。
10秒終了。モニターを見ると、両方の心拍数が上昇している。
「次のステップ。距離15センチ。目は開けたまま」
こころさんは息を吐き、ゆっくり顔を近づけた。距離、15センチ。睫毛が、俺の視界に近づく。
彼女の瞳を見つめていると、その奥に何かを見つける。冷静な研究者の仮面の向こうに、もっと人間的な感情。不安?期待?それとも……。
「瞳孔径、両者とも25%拡大。予想通りの反応ね」
彼女は自分のデータを見て、少し驚いたような表情を見せた。
「私のデータも、予想以上に……」
「どうしたんですか?」
「いえ、何でもないわ。次のステップに進みましょう」
「次、目を閉じて。唇の距離、10cm。心拍と呼吸を測るわ。動かないで」
目を閉じる。暗闇に、彼女の息が聞こえる。温かくて、湿った。距離が縮まる。5センチ?いや、もっと近い。唇の感触が、想像できる。柔らかくて、甘い。
心拍、120。センサーが警告音を出す。ピーッ。彼女の息が、俺の唇に触れる。ほとんど、キスだ。
「こころ……これ、データ収集?」
目を開けずに呟く。声が震える。彼女の声が、耳元で囁く。熱い息。
「ええ、データよ。でも……あなたのを、感じてるわ。心拍、130。私のも、同じくらいかも」
嘘だろ。彼女の指が、俺の手を強く握る。震えてる。意図的?それとも、本気?
暗闇の中で、唇の距離がゼロに近づく。1cm?触れる寸前。
彼女の呼吸が乱れる。俺の心臓が、爆発しそう。理性が、飛ぶ。あと少しで――。
「ストップ!」
こころさんが、慌てて後ろに引いた。目を開けると、彼女の顔が真っ赤。眼鏡がずれかけてる。息が荒い。
モニターに、波形が乱れまくってる。心拍、150超え。警告ランプが点滅。
「データ……異常値。心拍上限超過。ゆうや、ごめんね。やりすぎたわ」
彼女は慌ててセンサーを外し、ノートPCを叩く。指が、震えてる。間違いない。本気だ。実験じゃ、ない。
「こころ、それ……ホントに大丈夫?顔、赤いですよ。俺だけじゃ、ないですよね?」
俺がツッコむと、彼女は小さく笑った。照れ隠しみたいに、髪をかき上げる。白衣の袖が、ずり上がって腕が露わ。細くて、白い。
「ふふ、バレた?あなたが悪いわよ、そんなに反応いいんだもの。恋人役、上手すぎる。……私、研究者失格かも」
失格?それ、告白か?
彼女はモニターを見つめながら、複雑な表情を見せた。
「見て、このデータ。私たちの心拍数、呼吸パターン、瞳孔径……すべてが恋愛関係初期の典型的な数値を示してる。でも、これは実験のはずなのに」
「つまり?」
「つまり、演技のつもりが、生理的には本物の恋愛反応が起きてるということ。これは研究として非常に興味深いけれど、同時に……」
「同時に?」
「倫理的な問題がある。私は研究者として、被験者であるあなたに感情的な影響を与えてはいけない。でも、私自身も同じ影響を受けてる」
部屋に、沈黙が落ちる。センサーの電子音だけが、ピッ、ピッと鳴る。彼女の瞳が、潤んでる。夕陽が、彼女の横顔を照らす。美しすぎて、息が詰まる。
「実は、指導教授から警告を受けたの。被験者との距離感について」
「警告?」
「研究倫理委員会では、実験者と被験者の間に感情的な関係が生じることを厳しく禁じてる。客観性が損なわれるから」
彼女は資料を整理しながら、続けた。
「でも、このデータを見る限り、もう手遅れかもしれない。私たちの間に、何かが生まれてる」
俺は彼女の言葉を聞いて、胸が締め付けられた。研究のためには、この関係を断ち切らなければならないのか?
「こころさん、俺は……」
「言わないで」
彼女は俺の言葉を遮った。
「今、あなたの気持ちを聞いたら、私はもう研究者でいられなくなる。でも、同時に一人の女性として、聞きたい気持ちもある」
「次は、もっと安全なテストにしましょう。でも、今日のデータは宝物よ。唇の距離、効果抜群」
彼女はメモに書き込みながら、立ち上がった。ドアまで送る。廊下で、ぽつりと。
「ゆうや、来週も来てね。……実験、続けたいの。でも、次回は少し違うアプローチで」
「違うアプローチ?」
「日常的な恋人関係の観察。大学内でのデート実験よ。人目のある場所での行動パターンを調べたいの」
デート実験?それって、もはや実験の域を超えてないか?
「あ、それと」
彼女は俺に封筒を渡した。
「今日の報酬。危険手当込みで3000円」
危険手当?彼女なりのジョークか、それとも本気で危険だと思ってるのか。
「ありがとうございます」
「お疲れさま。じゃあ、火曜日ね。忘れないで、恋人役」
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階段を下りながら、唇を指で触れる。彼女の息の感触が、残ってる。熱い。
帰り道、大学の図書館に寄った。心理学の本を借りるためだ。恋愛の科学について、もっと知りたくなった。
「恋愛心理学入門」「愛着理論の基礎」「感情の神経科学」。こんな本を借りる日が来るなんて、思わなかった。
家に帰って、ベッドに倒れ込んだ。心拍、まだ速い。これは、バイトの限界だ。境界が、崩れ始めてる。
こころの震え、あれは演技じゃない。俺と同じ、感じてる。
でも、彼女の立場を考えると複雑だ。研究者として、倫理的な問題を抱えてる。俺のせいで、彼女が困ることになるのか?
スマホに、こころさんからメールが届いた。
『今日はお疲れさまでした。予想以上に興味深いデータが取れましたが、同時に研究の方向性について考え直す必要があります。来週、お話ししたいことがあります。- こころ』
話したいこと?それは研究のことか、それとも……。
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