『さよなら、彼に依存していた私―30日間の失恋回復ストーリー』

月下花音

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プロローグ:別れの日

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 日曜の夕方、優也の部屋。

 段ボール箱に詰めた私の荷物が、床に並んでいた。2年間で少しずつ増えていった、歯ブラシ、パジャマ、化粧品、本。それらを返しに来ただけのはずだった。

「ありがとう。助かった」

 優也は、いつもと変わらない声でそう言った。

 でも、その目は私を見ていなかった。

「ねえ、本当にこれでいいの?」

 私の問いかけに、彼は少しだけ躊躇してから、静かに頷いた。

「うん。これでいいと思う」

「どうして?」

 声が震える。答えを聞くのが怖いのに、聞かずにはいられなかった。

 優也は窓の外を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「嫌いになりたくないから」

 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「このまま続けたら、きっと俺、お前のこと嫌いになる。些細なことでイライラして、会うのが義務になって、最後には顔も見たくなくなる。そうなる前に、終わりにしたいんだ」

 彼の声は穏やかで、まるで天気の話をしているみたいだった。

 その冷静さが、かえって残酷だった。

「私は、そうなってもいいと思ってた」

 嘘じゃない。喧嘩してもいい、嫌われてもいい。それでも一緒にいたかった。

「でも、俺は嫌なんだ。お前との思い出を、汚したくない」

 優也は、ようやく私の方を向いた。その目には、申し訳なさと、でも揺るがない決意があった。

「ごめん」

 その一言で、全てが終わった。

 ◇

 彼の部屋を出て、駅へ向かう道。

 足が、勝手に動いていた。頭の中は真っ白で、何も考えられない。

 ホームに着いて、電車を待つ。日曜の夕方、帰宅ラッシュ前の静かな時間。

 電車が滑り込んできて、私は空いている席に座った。

 窓に映る自分の顔を見る。

 泣いていなかった。

 涙も出ない。ただ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 優也の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

「嫌いになりたくないから」

 それは、優しさなのか。それとも、残酷な逃げなのか。

 電車が揺れるたび、段ボール箱を抱えた自分の姿が、窓ガラスに映る。

 その時、ようやく涙が溢れてきた。

 静かに、音もなく、頬を伝って落ちていく。

 隣に座っていた女子高生が、気まずそうに視線を逸らした。

 ◇

 最寄り駅に着いて、改札を出る。

 家に帰りたくなかった。あの部屋には、まだ優也の痕跡が残っている。

 ふらふらと、駅前のコンビニに入った。

 何か食べなければ。そう思ったけれど、何も食べたくない。

 アイスコーナーの前で、足が止まった。

 チョコミント。優也の好きな味。

 いつも一緒に食べていた。私は本当はそんなに好きじゃなかったけれど、優也が「これ美味しいよ」と嬉しそうに選ぶから、いつの間にか私も同じものを選ぶようになっていた。

 手が伸びかけて、止まる。

 その隣に、ストロベリーアイスが一つだけ残っていた。最後の一個。

 私、本当はストロベリーが好きだったんじゃないか?

 彼に合わせて、自分の好みを忘れていただけで。

 でも、もう合わせなくていい。

 ストロベリーを手に取る。

 レジに向かう。店員さんは、若い女性だった。

「お疲れ様です」

 その優しい声に、喉の奥が熱くなる。

 泣いちゃダメだ。ここで泣いたら、止まらなくなる。

 唇を噛んで、必死に堪える。

「ありがとうございます」

 声が震えないように、慎重に言葉を選ぶ。

 店員さんは何も言わず、袋にアイスを入れてくれた。

 その何気ない優しさが、かえって胸に刺さった。

「ありがとうございます」

 かろうじて、そう答えた。

 ◇

 部屋に着いたのは、午後8時。

 電気をつけると、テーブルの上に優也が忘れていったマグカップが置かれたままだった。

 先週の日曜、ここで一緒にコーヒーを飲んだ。

 あの時はまだ、こんなことになるなんて思ってもいなかった。

 カップを手に取る。まだ洗っていない。底に、コーヒーの跡が残っている。

 嫌いになりたくない、と彼は言った。

 でも、私はどうすればいい?

 嫌いになれない。嫌いになりたいのに、なれない。

 カップを握りしめたまま、ソファに座り込む。

 そして、ようやく声を出して泣いた。

 わんわんと、子供みたいに。

「嫌いになりたくないから」って、一体何なの。

 私は、嫌われてもよかったのに。

 喧嘩してもよかったのに。

 それでも、一緒にいたかったのに。

 答えのない問いが、静かな部屋に虚しく響いた。

 ◇

 どれくらい泣いていただろう。

 涙が枯れて、ただ呼吸だけが荒くなった頃、窓の外を見た。

 街の灯りが、いつもと変わらず瞬いている。

 世界は、私が失恋したくらいでは何一つ変わらず、完璧な日曜の夜を続けている。

 その無関心さが、なぜか少しだけ、救いだった。

 明日は月曜日。仕事がある。

 どうやって、普通の顔をして出勤すればいいんだろう。

 でも、明日は来る。私が望もうと望むまいと、朝は来る。

 立ち上がって、冷凍庫を開ける。

 さっき買ったストロベリーアイスを、そっと置いた。

 30日後、このアイスを食べる時、私はどんな気持ちでいるんだろう。

 まだ優也のことを思い出して泣いているのか。

 それとも、笑って食べられるようになっているのか。

 わからない。

 でも、それを確かめるために、生きていこう。

 マグカップをシンクに置いて、ベッドに横になった。

 洗えない。まだ、洗いたくない。

 眠れないまま、天井を見つめる。

 これが、私の30日間の始まり。

 嫌いになれない人を忘れるための、長い旅の、最初の夜。
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