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プロローグ:別れの日
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日曜の夕方、優也の部屋。
段ボール箱に詰めた私の荷物が、床に並んでいた。2年間で少しずつ増えていった、歯ブラシ、パジャマ、化粧品、本。それらを返しに来ただけのはずだった。
「ありがとう。助かった」
優也は、いつもと変わらない声でそう言った。
でも、その目は私を見ていなかった。
「ねえ、本当にこれでいいの?」
私の問いかけに、彼は少しだけ躊躇してから、静かに頷いた。
「うん。これでいいと思う」
「どうして?」
声が震える。答えを聞くのが怖いのに、聞かずにはいられなかった。
優也は窓の外を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「嫌いになりたくないから」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「このまま続けたら、きっと俺、お前のこと嫌いになる。些細なことでイライラして、会うのが義務になって、最後には顔も見たくなくなる。そうなる前に、終わりにしたいんだ」
彼の声は穏やかで、まるで天気の話をしているみたいだった。
その冷静さが、かえって残酷だった。
「私は、そうなってもいいと思ってた」
嘘じゃない。喧嘩してもいい、嫌われてもいい。それでも一緒にいたかった。
「でも、俺は嫌なんだ。お前との思い出を、汚したくない」
優也は、ようやく私の方を向いた。その目には、申し訳なさと、でも揺るがない決意があった。
「ごめん」
その一言で、全てが終わった。
◇
彼の部屋を出て、駅へ向かう道。
足が、勝手に動いていた。頭の中は真っ白で、何も考えられない。
ホームに着いて、電車を待つ。日曜の夕方、帰宅ラッシュ前の静かな時間。
電車が滑り込んできて、私は空いている席に座った。
窓に映る自分の顔を見る。
泣いていなかった。
涙も出ない。ただ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
優也の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「嫌いになりたくないから」
それは、優しさなのか。それとも、残酷な逃げなのか。
電車が揺れるたび、段ボール箱を抱えた自分の姿が、窓ガラスに映る。
その時、ようやく涙が溢れてきた。
静かに、音もなく、頬を伝って落ちていく。
隣に座っていた女子高生が、気まずそうに視線を逸らした。
◇
最寄り駅に着いて、改札を出る。
家に帰りたくなかった。あの部屋には、まだ優也の痕跡が残っている。
ふらふらと、駅前のコンビニに入った。
何か食べなければ。そう思ったけれど、何も食べたくない。
アイスコーナーの前で、足が止まった。
チョコミント。優也の好きな味。
いつも一緒に食べていた。私は本当はそんなに好きじゃなかったけれど、優也が「これ美味しいよ」と嬉しそうに選ぶから、いつの間にか私も同じものを選ぶようになっていた。
手が伸びかけて、止まる。
その隣に、ストロベリーアイスが一つだけ残っていた。最後の一個。
私、本当はストロベリーが好きだったんじゃないか?
彼に合わせて、自分の好みを忘れていただけで。
でも、もう合わせなくていい。
ストロベリーを手に取る。
レジに向かう。店員さんは、若い女性だった。
「お疲れ様です」
その優しい声に、喉の奥が熱くなる。
泣いちゃダメだ。ここで泣いたら、止まらなくなる。
唇を噛んで、必死に堪える。
「ありがとうございます」
声が震えないように、慎重に言葉を選ぶ。
店員さんは何も言わず、袋にアイスを入れてくれた。
その何気ない優しさが、かえって胸に刺さった。
「ありがとうございます」
かろうじて、そう答えた。
◇
部屋に着いたのは、午後8時。
電気をつけると、テーブルの上に優也が忘れていったマグカップが置かれたままだった。
先週の日曜、ここで一緒にコーヒーを飲んだ。
あの時はまだ、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
カップを手に取る。まだ洗っていない。底に、コーヒーの跡が残っている。
嫌いになりたくない、と彼は言った。
でも、私はどうすればいい?
嫌いになれない。嫌いになりたいのに、なれない。
カップを握りしめたまま、ソファに座り込む。
そして、ようやく声を出して泣いた。
わんわんと、子供みたいに。
「嫌いになりたくないから」って、一体何なの。
私は、嫌われてもよかったのに。
喧嘩してもよかったのに。
それでも、一緒にいたかったのに。
答えのない問いが、静かな部屋に虚しく響いた。
◇
どれくらい泣いていただろう。
涙が枯れて、ただ呼吸だけが荒くなった頃、窓の外を見た。
街の灯りが、いつもと変わらず瞬いている。
世界は、私が失恋したくらいでは何一つ変わらず、完璧な日曜の夜を続けている。
その無関心さが、なぜか少しだけ、救いだった。
明日は月曜日。仕事がある。
どうやって、普通の顔をして出勤すればいいんだろう。
でも、明日は来る。私が望もうと望むまいと、朝は来る。
立ち上がって、冷凍庫を開ける。
さっき買ったストロベリーアイスを、そっと置いた。
30日後、このアイスを食べる時、私はどんな気持ちでいるんだろう。
まだ優也のことを思い出して泣いているのか。
それとも、笑って食べられるようになっているのか。
わからない。
でも、それを確かめるために、生きていこう。
マグカップをシンクに置いて、ベッドに横になった。
洗えない。まだ、洗いたくない。
眠れないまま、天井を見つめる。
これが、私の30日間の始まり。
嫌いになれない人を忘れるための、長い旅の、最初の夜。
段ボール箱に詰めた私の荷物が、床に並んでいた。2年間で少しずつ増えていった、歯ブラシ、パジャマ、化粧品、本。それらを返しに来ただけのはずだった。
「ありがとう。助かった」
優也は、いつもと変わらない声でそう言った。
でも、その目は私を見ていなかった。
「ねえ、本当にこれでいいの?」
私の問いかけに、彼は少しだけ躊躇してから、静かに頷いた。
「うん。これでいいと思う」
「どうして?」
声が震える。答えを聞くのが怖いのに、聞かずにはいられなかった。
優也は窓の外を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「嫌いになりたくないから」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「このまま続けたら、きっと俺、お前のこと嫌いになる。些細なことでイライラして、会うのが義務になって、最後には顔も見たくなくなる。そうなる前に、終わりにしたいんだ」
彼の声は穏やかで、まるで天気の話をしているみたいだった。
その冷静さが、かえって残酷だった。
「私は、そうなってもいいと思ってた」
嘘じゃない。喧嘩してもいい、嫌われてもいい。それでも一緒にいたかった。
「でも、俺は嫌なんだ。お前との思い出を、汚したくない」
優也は、ようやく私の方を向いた。その目には、申し訳なさと、でも揺るがない決意があった。
「ごめん」
その一言で、全てが終わった。
◇
彼の部屋を出て、駅へ向かう道。
足が、勝手に動いていた。頭の中は真っ白で、何も考えられない。
ホームに着いて、電車を待つ。日曜の夕方、帰宅ラッシュ前の静かな時間。
電車が滑り込んできて、私は空いている席に座った。
窓に映る自分の顔を見る。
泣いていなかった。
涙も出ない。ただ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
優也の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「嫌いになりたくないから」
それは、優しさなのか。それとも、残酷な逃げなのか。
電車が揺れるたび、段ボール箱を抱えた自分の姿が、窓ガラスに映る。
その時、ようやく涙が溢れてきた。
静かに、音もなく、頬を伝って落ちていく。
隣に座っていた女子高生が、気まずそうに視線を逸らした。
◇
最寄り駅に着いて、改札を出る。
家に帰りたくなかった。あの部屋には、まだ優也の痕跡が残っている。
ふらふらと、駅前のコンビニに入った。
何か食べなければ。そう思ったけれど、何も食べたくない。
アイスコーナーの前で、足が止まった。
チョコミント。優也の好きな味。
いつも一緒に食べていた。私は本当はそんなに好きじゃなかったけれど、優也が「これ美味しいよ」と嬉しそうに選ぶから、いつの間にか私も同じものを選ぶようになっていた。
手が伸びかけて、止まる。
その隣に、ストロベリーアイスが一つだけ残っていた。最後の一個。
私、本当はストロベリーが好きだったんじゃないか?
彼に合わせて、自分の好みを忘れていただけで。
でも、もう合わせなくていい。
ストロベリーを手に取る。
レジに向かう。店員さんは、若い女性だった。
「お疲れ様です」
その優しい声に、喉の奥が熱くなる。
泣いちゃダメだ。ここで泣いたら、止まらなくなる。
唇を噛んで、必死に堪える。
「ありがとうございます」
声が震えないように、慎重に言葉を選ぶ。
店員さんは何も言わず、袋にアイスを入れてくれた。
その何気ない優しさが、かえって胸に刺さった。
「ありがとうございます」
かろうじて、そう答えた。
◇
部屋に着いたのは、午後8時。
電気をつけると、テーブルの上に優也が忘れていったマグカップが置かれたままだった。
先週の日曜、ここで一緒にコーヒーを飲んだ。
あの時はまだ、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
カップを手に取る。まだ洗っていない。底に、コーヒーの跡が残っている。
嫌いになりたくない、と彼は言った。
でも、私はどうすればいい?
嫌いになれない。嫌いになりたいのに、なれない。
カップを握りしめたまま、ソファに座り込む。
そして、ようやく声を出して泣いた。
わんわんと、子供みたいに。
「嫌いになりたくないから」って、一体何なの。
私は、嫌われてもよかったのに。
喧嘩してもよかったのに。
それでも、一緒にいたかったのに。
答えのない問いが、静かな部屋に虚しく響いた。
◇
どれくらい泣いていただろう。
涙が枯れて、ただ呼吸だけが荒くなった頃、窓の外を見た。
街の灯りが、いつもと変わらず瞬いている。
世界は、私が失恋したくらいでは何一つ変わらず、完璧な日曜の夜を続けている。
その無関心さが、なぜか少しだけ、救いだった。
明日は月曜日。仕事がある。
どうやって、普通の顔をして出勤すればいいんだろう。
でも、明日は来る。私が望もうと望むまいと、朝は来る。
立ち上がって、冷凍庫を開ける。
さっき買ったストロベリーアイスを、そっと置いた。
30日後、このアイスを食べる時、私はどんな気持ちでいるんだろう。
まだ優也のことを思い出して泣いているのか。
それとも、笑って食べられるようになっているのか。
わからない。
でも、それを確かめるために、生きていこう。
マグカップをシンクに置いて、ベッドに横になった。
洗えない。まだ、洗いたくない。
眠れないまま、天井を見つめる。
これが、私の30日間の始まり。
嫌いになれない人を忘れるための、長い旅の、最初の夜。
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2021/05/29 公開
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