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Day 5:さよなら、「通知」に支配されていた私
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朝、目が覚めると同時に、私の右手は枕元のスマートフォンを探していた。
ほとんど脊髄反射に近い、身体に染み付いた習慣。
彼の「おはよう」で一日が始まり、「おやすみ」で終わっていた日々。その名残が、私の指先を条件反射のように動かしていた。
画面をタップすれば、そこには彼がいない現実が待っている。
わかっているのに、やめられない。
◇
でも、今朝は違った。
指先がスマホの冷たいガラスに触れる寸前で、私は意識的にその動きを止めた。
「やめよう」
声にならない声で、自分に言い聞かせた。
今日は、この小さな機械に一日を支配されるのを、やめてみよう。
それは、私にとってささやかな革命の始まりだった。
ベッドから出て、あえてスマートフォンには背を向ける。
キッチンへ向かい、昨日と同じようにコーヒーを淹れた。窓の外は曇り空で、光が部屋に均一に広がっている。影のない、平坦な明るさ。
静かだ。
◇
最初の30分は、拷問に近かった。
禁断症状のように、手が震える。ポケットやバッグの中を探したくなる衝動に駆られる。
世界から切り離されたような、ひどい孤独感。
彼からの連絡、という万に一つの可能性を自ら断っているのではないか。
友人からの緊急の連絡を見逃しているのではないか。
ありとあらゆる不安が、思考の隙間に黒いインクのように染み込んでくる。
でも、耐えた。腕時計の秒針だけを見つめ、時間が過ぎるのを待った。
1時間が経った。
まだ、胸のざわつきは収まらない。何かをしていなければ、すぐにでもスマホに手を伸ばしてしまいそうだった。
だから、本棚の奥から、ずっと読んでいなかった分厚い小説を取り出した。
彼が嫌いだったミステリー。ページをめくる音が、LINEの通知音を上書きしていく。
文字を追うことで、思考を強制的に別の場所へ飛ばす。
◇
午前中、私は一度もスマホを見なかった。
それは、私にとってエベレスト登頂にも匹敵する偉業だった。
窓の外を見ると、いつの間にか曇り空から太陽が顔を出していた。部屋に差し込む光の角度が、時間の経過を物語っている。
私がスマホを見ていない間にも、世界はちゃんと動いていた。
当たり前の事実に、なぜか少しだけ安堵した。
しかし、昼食を終えた午後、その決意はあっけなく崩れ去った。
小説の続きを読む気力もなくなり、ただソファに座っていると、あの黒い板が持つ引力が、抗い難い力で私を支配し始めた。
中身は空っぽだとわかっているのに、見なければならない。見ないと、息ができない。
結局、私はそれに手を伸ばした。
◇
画面をオンにする。指紋認証がロックを解除する。
ホーム画面に並ぶ、見慣れたアイコンたち。
新しいメッセージは、なかった。
LINEも、メッセンジャーも、不在着信も、ゼロ。
当たり前だ。
わかっていた。心のどこかで、いや、ほとんどの部分で、こうなることはわかっていた。
でも、その「当たり前」が、ナイフのように鋭く胸に突き刺さる。
ほんの少しだけ抱いていた、泡のような期待が、音を立てて弾けた。
午前中、必死に積み上げた心の壁が、砂の城のように崩れていく。
◇
その夜、私は静かな決意を固めた。
このままではいけない。この小さな機械に、私の感情をこれ以上支配させてはいけない。
ベッドの上で、アプリの整理を始めた。
SNSのアプリを削除する勇気は、まだなかった。彼の世界と完全に繋がらないことは、今の私には死を意味するような気がしたから。
だから、せめてもの抵抗として、LINE、Instagram、Xのアイコンを長押しし、ホーム画面から消去した。
フォルダの奥深く、二度と開かないような場所に隠した。
見えなければ、気にならないかもしれない。
物理的に距離を取ることで、心の距離も取れるかもしれない。
それは、ひどく幼稚で、気休めにしかならない行為だとわかっていた。でも、今の私には、それくらいしかできなかった。
電源を落とし、真っ暗になったスマートフォンを、ベッドから一番遠い机の上に置く。
部屋の明かりを消すと、完全な闇が訪れた。
通知ランプの点滅もない、静かな夜。
明日、目が覚めた時、私が一番最初に探すものが、スマートフォンでないことを。
ただ、それだけを願って、目を閉じた。
ほとんど脊髄反射に近い、身体に染み付いた習慣。
彼の「おはよう」で一日が始まり、「おやすみ」で終わっていた日々。その名残が、私の指先を条件反射のように動かしていた。
画面をタップすれば、そこには彼がいない現実が待っている。
わかっているのに、やめられない。
◇
でも、今朝は違った。
指先がスマホの冷たいガラスに触れる寸前で、私は意識的にその動きを止めた。
「やめよう」
声にならない声で、自分に言い聞かせた。
今日は、この小さな機械に一日を支配されるのを、やめてみよう。
それは、私にとってささやかな革命の始まりだった。
ベッドから出て、あえてスマートフォンには背を向ける。
キッチンへ向かい、昨日と同じようにコーヒーを淹れた。窓の外は曇り空で、光が部屋に均一に広がっている。影のない、平坦な明るさ。
静かだ。
◇
最初の30分は、拷問に近かった。
禁断症状のように、手が震える。ポケットやバッグの中を探したくなる衝動に駆られる。
世界から切り離されたような、ひどい孤独感。
彼からの連絡、という万に一つの可能性を自ら断っているのではないか。
友人からの緊急の連絡を見逃しているのではないか。
ありとあらゆる不安が、思考の隙間に黒いインクのように染み込んでくる。
でも、耐えた。腕時計の秒針だけを見つめ、時間が過ぎるのを待った。
1時間が経った。
まだ、胸のざわつきは収まらない。何かをしていなければ、すぐにでもスマホに手を伸ばしてしまいそうだった。
だから、本棚の奥から、ずっと読んでいなかった分厚い小説を取り出した。
彼が嫌いだったミステリー。ページをめくる音が、LINEの通知音を上書きしていく。
文字を追うことで、思考を強制的に別の場所へ飛ばす。
◇
午前中、私は一度もスマホを見なかった。
それは、私にとってエベレスト登頂にも匹敵する偉業だった。
窓の外を見ると、いつの間にか曇り空から太陽が顔を出していた。部屋に差し込む光の角度が、時間の経過を物語っている。
私がスマホを見ていない間にも、世界はちゃんと動いていた。
当たり前の事実に、なぜか少しだけ安堵した。
しかし、昼食を終えた午後、その決意はあっけなく崩れ去った。
小説の続きを読む気力もなくなり、ただソファに座っていると、あの黒い板が持つ引力が、抗い難い力で私を支配し始めた。
中身は空っぽだとわかっているのに、見なければならない。見ないと、息ができない。
結局、私はそれに手を伸ばした。
◇
画面をオンにする。指紋認証がロックを解除する。
ホーム画面に並ぶ、見慣れたアイコンたち。
新しいメッセージは、なかった。
LINEも、メッセンジャーも、不在着信も、ゼロ。
当たり前だ。
わかっていた。心のどこかで、いや、ほとんどの部分で、こうなることはわかっていた。
でも、その「当たり前」が、ナイフのように鋭く胸に突き刺さる。
ほんの少しだけ抱いていた、泡のような期待が、音を立てて弾けた。
午前中、必死に積み上げた心の壁が、砂の城のように崩れていく。
◇
その夜、私は静かな決意を固めた。
このままではいけない。この小さな機械に、私の感情をこれ以上支配させてはいけない。
ベッドの上で、アプリの整理を始めた。
SNSのアプリを削除する勇気は、まだなかった。彼の世界と完全に繋がらないことは、今の私には死を意味するような気がしたから。
だから、せめてもの抵抗として、LINE、Instagram、Xのアイコンを長押しし、ホーム画面から消去した。
フォルダの奥深く、二度と開かないような場所に隠した。
見えなければ、気にならないかもしれない。
物理的に距離を取ることで、心の距離も取れるかもしれない。
それは、ひどく幼稚で、気休めにしかならない行為だとわかっていた。でも、今の私には、それくらいしかできなかった。
電源を落とし、真っ暗になったスマートフォンを、ベッドから一番遠い机の上に置く。
部屋の明かりを消すと、完全な闇が訪れた。
通知ランプの点滅もない、静かな夜。
明日、目が覚めた時、私が一番最初に探すものが、スマートフォンでないことを。
ただ、それだけを願って、目を閉じた。
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2021/05/29 公開
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