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Day 10:さよなら、「一人で座れなかった」私
しおりを挟む部屋の空気を変えたことで、私は少しだけ外の世界へ出る勇気を持つことができた。
目的地は決めていた。彼とよく行った、近所のカフェ。
二人のお気に入りの場所だった。
あえてその場所へ一人で行くことは、私にとって次のステージへ進むための、避けては通れない試練のように思えた。
◇
店のドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。
コーヒー豆の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。店内は午後の光で満たされている。
何も変わっていない。マスターの「いらっしゃい」という低い声も、壁にかかった古い時計の音も、すべてが記憶のままだった。
違うのは、私の隣に彼がいない、ということだけ。
「いつもの席、空いてますよ」
マスターが、カウンターの奥から優しく声をかけてくれた。
二人でいつも座っていた、窓際の二人掛けのテーブル席。
そこだけ、スポットライトが当たっているように見えた。
一瞬、ためらった。別の席にしようか。
でも、それでは意味がない。私は小さく頷き、その席へと向かった。
◇
椅子を引く。向かい合わせの席。
いつも彼が座っていた側に、今は誰もいない。
窓の外を歩く人々の姿が、空っぽの椅子に反射して映っている。
メニューを開く。彼はいつもブレンドで、私はカフェラテだった。
今日は、ブラックコーヒーを頼んでみよう、と思った。
「ブラック、お願いします」
甘いミルクに逃げるのは、もうやめだ。
運ばれてきた黒い液体が、湯気と共に豊かな香りを立てている。
カップを口に運ぶ。
苦い。でも、それは別れたばかりに感じたような、世界を拒絶する味ではなかった。
豆本来の持つ、深いコクと酸味。それを、ちゃんと味わうことができた。
◇
一人で飲むコーヒーは、不思議な味がした。
会話がない分、自分の思考がクリアになる。
窓の外を眺め、道行く人々を観察する。
カップを持つ指先の感触、コーヒーの香り、店内のBGM、自分の五感が研ぎ澄まされていくのがわかった。
二人でいた時は、彼の話を聞き、彼の表情を見ることに夢中で、周りの景色なんてほとんど目に入っていなかった。
同じ席に座っているのに、見える景色が、全く違う。
私は今まで、彼というフィルターを通してしか、世界を見ていなかったのかもしれない。
◇
コーヒーを飲み終え、本を少しだけ読んだ。
驚くほど、穏やかな時間だった。
思い出の場所がもたらす痛みは、確かにあった。でも、その痛みを、今の私は正面から受け止めることができていた。
「大丈夫だ」と、誰に言うでもなく心の中で呟く。
昨日よりも、ほんの少しだけ、強くなれた気がした。
会計を済ませて店を出る。「またどうぞ」というマスターの声に、今度は笑顔で会釈を返すことができた。
帰り道、夕日が私の影を長く伸ばしていた。
一人の影が、くっきりと地面に映っていた。
それはもう、誰かの隣にある影ではなく、私だけの影だった。
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2021/05/29 公開
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