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Day 16:さよなら、「呼吸さえ忘れていた」私
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「ねえ、こころ。今度の日曜、ヨガ行かない?」
美咲からのLINEは、以前のような遠慮がちなものではなく、いつもの彼女らしい、カラッとした明るさに満ちていた。
Day6のカフェでの一件以来、彼女は私をそっとしておいてくれた。その気遣いが、ありがたかった。
以前の私なら、「ちょっと考えさせて」と返信して、結局行かなかっただろう。
でも、今の私は違った。
『行く!』
即答だった。新しいことを始めるのに、躊躇はもういらなかった。
◇
日曜日、初めて足を踏み入れたヨガスタジオは、木の香りと静かな音楽に満ちていた。
窓から差し込む柔らかい光が、床に敷かれたマットを照らしている。光の粒子が、ゆっくりと空間を漂っている。
そこにいる人たちは皆、穏やかな表情をしていた。
インストラクターの、鈴を転がすような声が、静かに響く。
「まずは、自分の呼吸に意識を向けていきましょう。吸って、吐いて……」
言われるがままに、あぐらをかいて目を閉じる。
「呼吸に意識を向ける」。言葉にするのは簡単だが、やってみると驚くほど難しかった。
吸い込んだ空気が鼻を通り、喉を抜け、肺いっぱいに広がっていく感覚。
そして、その空気がゆっくりと身体から抜けていく感覚。
◇
これまで、呼吸なんて無意識にするものだと思っていた。
でも、意識をしてみると、自分の呼吸がいかに浅く、速かったかに気づかされた。
常に何かに追われ、心がざわついていた証拠だ。
「吐く息と共に、身体の中の要らないものを、すべて外に出していくイメージで」
インストラクターの声に導かれ、長く、細く、息を吐き出す。
頭の中を占領していた、優也の記憶。将来への不安。自分への不甲斐なさ。
そういった黒いモヤのような感情が、息と共に、ふーっと身体の外へ出ていくような気がした。
そして、新鮮な空気を吸い込むと、空っぽになったその場所に、クリーンなエネルギーが満たされていく。
◇
様々なポーズを取る。
身体の硬さに悪戦苦闘しながらも、自分の身体の感覚に、ただひたすら集中した。
筋肉が伸びる微かな痛み。バランスを保とうとする足の裏の感触。額を伝う汗。
それは、思考から解放される時間だった。
過去も未来もなく、ただ「今、ここ」にある自分の身体と心だけに、向き合う。
こんなにも穏やかな気持ちになったのは、いつぶりだろう。
レッスンの終わり、シャバーサナ(亡骸のポーズ)で仰向けに横たわる。
全身の力を抜き、すべてを床に預ける。
瞼の裏に、温かい光を感じた。
涙が出そうになった。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
自分の身体が、心が、まだちゃんとここにある、という安堵感からくる、温かい涙だった。
◇
スタジオを出ると、空は美しい紫色に染まっていた。
「どうだった?」と美咲が笑う。
「すごく、良かった。また来たい」
心からの言葉だった。
自分の心を変えるのは難しい。でも、呼吸を変えることならできる。
身体を動かすことならできる。
外側から、少しずつ自分を整えていく。そんな方法もあるのだと、初めて知った。
帰り道、深呼吸をする。
空気が、こんなに美味しいものだったなんて。
今日は、いい天気だ。
美咲からのLINEは、以前のような遠慮がちなものではなく、いつもの彼女らしい、カラッとした明るさに満ちていた。
Day6のカフェでの一件以来、彼女は私をそっとしておいてくれた。その気遣いが、ありがたかった。
以前の私なら、「ちょっと考えさせて」と返信して、結局行かなかっただろう。
でも、今の私は違った。
『行く!』
即答だった。新しいことを始めるのに、躊躇はもういらなかった。
◇
日曜日、初めて足を踏み入れたヨガスタジオは、木の香りと静かな音楽に満ちていた。
窓から差し込む柔らかい光が、床に敷かれたマットを照らしている。光の粒子が、ゆっくりと空間を漂っている。
そこにいる人たちは皆、穏やかな表情をしていた。
インストラクターの、鈴を転がすような声が、静かに響く。
「まずは、自分の呼吸に意識を向けていきましょう。吸って、吐いて……」
言われるがままに、あぐらをかいて目を閉じる。
「呼吸に意識を向ける」。言葉にするのは簡単だが、やってみると驚くほど難しかった。
吸い込んだ空気が鼻を通り、喉を抜け、肺いっぱいに広がっていく感覚。
そして、その空気がゆっくりと身体から抜けていく感覚。
◇
これまで、呼吸なんて無意識にするものだと思っていた。
でも、意識をしてみると、自分の呼吸がいかに浅く、速かったかに気づかされた。
常に何かに追われ、心がざわついていた証拠だ。
「吐く息と共に、身体の中の要らないものを、すべて外に出していくイメージで」
インストラクターの声に導かれ、長く、細く、息を吐き出す。
頭の中を占領していた、優也の記憶。将来への不安。自分への不甲斐なさ。
そういった黒いモヤのような感情が、息と共に、ふーっと身体の外へ出ていくような気がした。
そして、新鮮な空気を吸い込むと、空っぽになったその場所に、クリーンなエネルギーが満たされていく。
◇
様々なポーズを取る。
身体の硬さに悪戦苦闘しながらも、自分の身体の感覚に、ただひたすら集中した。
筋肉が伸びる微かな痛み。バランスを保とうとする足の裏の感触。額を伝う汗。
それは、思考から解放される時間だった。
過去も未来もなく、ただ「今、ここ」にある自分の身体と心だけに、向き合う。
こんなにも穏やかな気持ちになったのは、いつぶりだろう。
レッスンの終わり、シャバーサナ(亡骸のポーズ)で仰向けに横たわる。
全身の力を抜き、すべてを床に預ける。
瞼の裏に、温かい光を感じた。
涙が出そうになった。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
自分の身体が、心が、まだちゃんとここにある、という安堵感からくる、温かい涙だった。
◇
スタジオを出ると、空は美しい紫色に染まっていた。
「どうだった?」と美咲が笑う。
「すごく、良かった。また来たい」
心からの言葉だった。
自分の心を変えるのは難しい。でも、呼吸を変えることならできる。
身体を動かすことならできる。
外側から、少しずつ自分を整えていく。そんな方法もあるのだと、初めて知った。
帰り道、深呼吸をする。
空気が、こんなに美味しいものだったなんて。
今日は、いい天気だ。
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