『さよなら、彼に依存していた私―30日間の失恋回復ストーリー』

月下花音

文字の大きさ
17 / 31

Day 16:さよなら、「呼吸さえ忘れていた」私

しおりを挟む
「ねえ、こころ。今度の日曜、ヨガ行かない?」

 美咲からのLINEは、以前のような遠慮がちなものではなく、いつもの彼女らしい、カラッとした明るさに満ちていた。

 Day6のカフェでの一件以来、彼女は私をそっとしておいてくれた。その気遣いが、ありがたかった。

 以前の私なら、「ちょっと考えさせて」と返信して、結局行かなかっただろう。

 でも、今の私は違った。

『行く!』

 即答だった。新しいことを始めるのに、躊躇はもういらなかった。

 ◇

 日曜日、初めて足を踏み入れたヨガスタジオは、木の香りと静かな音楽に満ちていた。

 窓から差し込む柔らかい光が、床に敷かれたマットを照らしている。光の粒子が、ゆっくりと空間を漂っている。

 そこにいる人たちは皆、穏やかな表情をしていた。

 インストラクターの、鈴を転がすような声が、静かに響く。

「まずは、自分の呼吸に意識を向けていきましょう。吸って、吐いて……」

 言われるがままに、あぐらをかいて目を閉じる。

「呼吸に意識を向ける」。言葉にするのは簡単だが、やってみると驚くほど難しかった。

 吸い込んだ空気が鼻を通り、喉を抜け、肺いっぱいに広がっていく感覚。

 そして、その空気がゆっくりと身体から抜けていく感覚。

 ◇

 これまで、呼吸なんて無意識にするものだと思っていた。

 でも、意識をしてみると、自分の呼吸がいかに浅く、速かったかに気づかされた。

 常に何かに追われ、心がざわついていた証拠だ。

「吐く息と共に、身体の中の要らないものを、すべて外に出していくイメージで」

 インストラクターの声に導かれ、長く、細く、息を吐き出す。

 頭の中を占領していた、優也の記憶。将来への不安。自分への不甲斐なさ。

 そういった黒いモヤのような感情が、息と共に、ふーっと身体の外へ出ていくような気がした。

 そして、新鮮な空気を吸い込むと、空っぽになったその場所に、クリーンなエネルギーが満たされていく。

 ◇

 様々なポーズを取る。

 身体の硬さに悪戦苦闘しながらも、自分の身体の感覚に、ただひたすら集中した。

 筋肉が伸びる微かな痛み。バランスを保とうとする足の裏の感触。額を伝う汗。

 それは、思考から解放される時間だった。

 過去も未来もなく、ただ「今、ここ」にある自分の身体と心だけに、向き合う。

 こんなにも穏やかな気持ちになったのは、いつぶりだろう。

 レッスンの終わり、シャバーサナ(亡骸のポーズ)で仰向けに横たわる。

 全身の力を抜き、すべてを床に預ける。

 瞼の裏に、温かい光を感じた。

 涙が出そうになった。でも、それは悲しみの涙ではなかった。

 自分の身体が、心が、まだちゃんとここにある、という安堵感からくる、温かい涙だった。

 ◇

 スタジオを出ると、空は美しい紫色に染まっていた。

「どうだった?」と美咲が笑う。

「すごく、良かった。また来たい」

 心からの言葉だった。

 自分の心を変えるのは難しい。でも、呼吸を変えることならできる。

 身体を動かすことならできる。

 外側から、少しずつ自分を整えていく。そんな方法もあるのだと、初めて知った。

 帰り道、深呼吸をする。

 空気が、こんなに美味しいものだったなんて。

 今日は、いい天気だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。 まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。 今日は同期飲み会だった。 後輩のミスで行けたのは本当に最後。 飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。 彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。 きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。 けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。 でも、あれから変わった私なら……。 ****** 2021/05/29 公開 ****** 表紙 いもこは妹pixivID:11163077

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

さようなら、初恋

芙月みひろ
恋愛
彼が選んだのは姉だった *表紙写真はガーリードロップ様からお借りしています

処理中です...