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20.恋人
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腕の中で心地よさそうに寝ている凛香の目元をそっと撫でる。泣いていたので少し赤くなってしまったが、強く擦ってはいなかったからその内に元通りになるだろう。柔らかな髪に鼻を埋めれば、ホテルに備え付けてあるシャンプーの香りがした。彼女から自分と同じ香りがすると安心できる。早く前世の自分たちのように一緒に住めたらいいのに。そのためにはもう少し収入を増やさなければ。その点は、あの頃と違い周囲のお膳立てでなんとかならないのだから。
凛香はレベッカたちのその後について詳しく聞いてはこなかった。もちろん聞かれれば言うつもりではいたが、全てを曝け出すのは戸惑われる。なんせクライヴは目を覚ましてからのレベッカの誤解を利用して夫の座を手に入れただけでなく、彼女を苦しめてしまったのだから。それを知ってもなお、一緒にいてくれる保証はない。
* * *
「あの……いつも良くして頂いてありがとうございます」
「どうしたの? 突然。ほら、零れちゃうよ」
野菜や豆をじっくりと煮込んだスープを口元に持っていけば、小さな唇でスプーンを向かい入れる。モグモグと咀嚼している姿は小動物のようでとても可愛らしい。
「どれだけ思い出そうとしても、今までのことが全然分からないのが心苦しくて……」
「そんなこと気にしなくていいんだよ。何度も言ったけれど、僕たちは恋人同士なんだから。それにもうすぐ夫婦になる」
「わ、分かっています! だからあんまり見つめないでください!」
顔を覆ってしまった手の甲に、キスをすれば、奥から「はわ……」と小さく聞こえてきて、クライヴは喉で小さく笑った。
クライヴだって頬が赤くなっている自覚はあるが、レベッカは顔を隠しているから気付かないだろう。あまりにも愛しくて、幸せで。美しさは変わらないけれど、淑女教育が始まってからのレベッカは凛としいて気高さが全面に出ていたが、今は可愛いらしい面がよく見られた。幼い頃の彼女は後者だったのを思い出し、懐かしさを感じた。こちらがレベッカの自然なのだ。クライヴにとっては、どちらもレベッカであり等しく愛しているけれども。
「もう一口。あーん、して?」
「じ、自分で食べられますよ」
レベッカは困ったように眉尻を下げると、それでも観念したのか僅かに戸惑いを見せながらも口を開けた。小さな口から赤い舌が覗いて、背筋がぞくりと震えたが気付かないふりをしてスプーンを丁寧に差し込む。唇を閉じて静かに咀嚼をしているだけでにじみ出る上品さは、身体が覚えているのだろう。ありがたいことに令嬢として培った仕草を目の当たりにするたび、クライヴの理性に歯止めがかかる。
今までも頼りにされてはいたが、何もかもを覚えていないレベッカは、彼女を知っていて且つて世話を焼いてくれるクライヴに遠慮しつつも甘えてくれる。嬉しさのあまり過剰に手助けをして、結果接触が増えてしまい悶々とすることが多くなった。けれどなんて幸せな悩みだろう。
「ベッキー。何度も言っているけど、毎日こうしていたんだから、そんなに恥ずかしがることはないよ」
毎日、というのはクライヴの嘘だ。それでも何としてでも構いたい気持ちには勝てない。まだ公爵家にいたときには侍女がいたのでクライヴの出る幕はなかったし、この家に移り住んでから高熱だったり、気分の優れないときに手伝ったことはあるだけだ。その時だって、世話をされることに慣れているレベッカだったから、クライヴの介助をすんなりと受け入れていた。それなのに今の恥ずかしがっている様子は新鮮で、あまりにも可愛くて、あれこれと口実を探しては構いたくなるというもの。
目が覚めてからレベッカという名前を教えたが、分からないと首を横に振られた。もちろんクライヴのことも。『レベッカ』という名にいい思い出がないかもしれないと、幼い頃、彼女が両親から呼ばれていた『ベッキー』という、幼いクライヴが口にすることは許されなかった愛称で呼ぶことにした。クライヴ自身『レベッカ』と言ってしまうと、つい『様』をつけそうになるのを防ぐためでもある。一緒に過ごした日々も否定されてしまったようで秘かに落ち込んだが、目覚めてくれただけでも有難い上に、暫くは夢現でまともに会話すらできない状態だったことを思い出し、なんとか気持ちを切り替えた。
クライヴを気遣ってくれたレベッカからの最後の手紙は何度も何度も読み返してから燃やすことに決めた。新しい人生をスタートするというのに、また嫌な過去を思い出すきっかけになり得るし、レベッカを忘れて自由に生きていってほしいと書かれたとおりにするつもりなんて更々なかったからだ。
目覚めて二日ほど経ち、レベッカが起き上がれるようになると、
「貴方の側にずっといたから怪しい者ではない。一番の味方だから安心して欲しい」
と、伝えた。記憶がないのは高熱で生死の境をさまよったためだとも。
クライヴを覚えていないはずなのに、起きてすぐ傍にいて身の回りの世話をしている男に警戒するでもなく、あっさりと受け入れられたのは幸運だった。今までと違い、クライヴに対して敬語を使うので少しだけ調子が狂うが、随分と長い間見ることができなかったレベッカの笑顔が見れて、それだけでクライヴは満足していたし、この選択が間違いではなかったのだと思うことができた。今までの彼女の人生での出来事は、クライヴが覚えていればいい。レベッカから消えてしまった過去よりも、これから先を幸せに過ごせたら。
数日もすれば、レベッカは家の周囲を散歩できるほどに回復した。透き通るような青空を眩しそうに見上げている口角が上がっているのを見て嬉しくなる。ようやく彼女は解放されたのだ。クライヴ以外からは、だけども。
「今日は雲ひとつなくて、とてもいい天気だね」
「なんだか嬉しいです。こんなにも空気が美味しいなんて今まで知らなかった気がして」
「……寝込んでいたからね。でも元気になって良かった」
「色々と迷惑をかけてすみません」
「気にすることはないよ。好きでやっていることだから。寧ろベッキーにはもっと迷惑をかけて欲しいくらいだ」
ここ最近の彼女とのやり取りで、クライヴが敬語を使うと萎縮してしまうらしく、なるべく普通の言葉づかいを心掛けている。十何年も使ってきたから時折戻ってしまうこともあるが、レベッカのほうも主人然としていないので、なんとか慣れてきたところだ。それとレベッカの弱った足腰のために介助から始まった手を繋ぐことにもようやく慣れた。手を添えることやエスコートすることは今までもあった。けれどこんなふうにしっかりと手を繋いだことなどなかったから。
柔らかくて小さな手の感触に浸っていると、微かに力が込められた。あれ?と思った瞬間、レベッカが歩みを止めたので、クライヴは踏み出そうとした足を元の位置に戻した。
「どうかした?」
「あの、間違っていたらごめんなさい。貴方は私の恋人なのですか……?」
凛香はレベッカたちのその後について詳しく聞いてはこなかった。もちろん聞かれれば言うつもりではいたが、全てを曝け出すのは戸惑われる。なんせクライヴは目を覚ましてからのレベッカの誤解を利用して夫の座を手に入れただけでなく、彼女を苦しめてしまったのだから。それを知ってもなお、一緒にいてくれる保証はない。
* * *
「あの……いつも良くして頂いてありがとうございます」
「どうしたの? 突然。ほら、零れちゃうよ」
野菜や豆をじっくりと煮込んだスープを口元に持っていけば、小さな唇でスプーンを向かい入れる。モグモグと咀嚼している姿は小動物のようでとても可愛らしい。
「どれだけ思い出そうとしても、今までのことが全然分からないのが心苦しくて……」
「そんなこと気にしなくていいんだよ。何度も言ったけれど、僕たちは恋人同士なんだから。それにもうすぐ夫婦になる」
「わ、分かっています! だからあんまり見つめないでください!」
顔を覆ってしまった手の甲に、キスをすれば、奥から「はわ……」と小さく聞こえてきて、クライヴは喉で小さく笑った。
クライヴだって頬が赤くなっている自覚はあるが、レベッカは顔を隠しているから気付かないだろう。あまりにも愛しくて、幸せで。美しさは変わらないけれど、淑女教育が始まってからのレベッカは凛としいて気高さが全面に出ていたが、今は可愛いらしい面がよく見られた。幼い頃の彼女は後者だったのを思い出し、懐かしさを感じた。こちらがレベッカの自然なのだ。クライヴにとっては、どちらもレベッカであり等しく愛しているけれども。
「もう一口。あーん、して?」
「じ、自分で食べられますよ」
レベッカは困ったように眉尻を下げると、それでも観念したのか僅かに戸惑いを見せながらも口を開けた。小さな口から赤い舌が覗いて、背筋がぞくりと震えたが気付かないふりをしてスプーンを丁寧に差し込む。唇を閉じて静かに咀嚼をしているだけでにじみ出る上品さは、身体が覚えているのだろう。ありがたいことに令嬢として培った仕草を目の当たりにするたび、クライヴの理性に歯止めがかかる。
今までも頼りにされてはいたが、何もかもを覚えていないレベッカは、彼女を知っていて且つて世話を焼いてくれるクライヴに遠慮しつつも甘えてくれる。嬉しさのあまり過剰に手助けをして、結果接触が増えてしまい悶々とすることが多くなった。けれどなんて幸せな悩みだろう。
「ベッキー。何度も言っているけど、毎日こうしていたんだから、そんなに恥ずかしがることはないよ」
毎日、というのはクライヴの嘘だ。それでも何としてでも構いたい気持ちには勝てない。まだ公爵家にいたときには侍女がいたのでクライヴの出る幕はなかったし、この家に移り住んでから高熱だったり、気分の優れないときに手伝ったことはあるだけだ。その時だって、世話をされることに慣れているレベッカだったから、クライヴの介助をすんなりと受け入れていた。それなのに今の恥ずかしがっている様子は新鮮で、あまりにも可愛くて、あれこれと口実を探しては構いたくなるというもの。
目が覚めてからレベッカという名前を教えたが、分からないと首を横に振られた。もちろんクライヴのことも。『レベッカ』という名にいい思い出がないかもしれないと、幼い頃、彼女が両親から呼ばれていた『ベッキー』という、幼いクライヴが口にすることは許されなかった愛称で呼ぶことにした。クライヴ自身『レベッカ』と言ってしまうと、つい『様』をつけそうになるのを防ぐためでもある。一緒に過ごした日々も否定されてしまったようで秘かに落ち込んだが、目覚めてくれただけでも有難い上に、暫くは夢現でまともに会話すらできない状態だったことを思い出し、なんとか気持ちを切り替えた。
クライヴを気遣ってくれたレベッカからの最後の手紙は何度も何度も読み返してから燃やすことに決めた。新しい人生をスタートするというのに、また嫌な過去を思い出すきっかけになり得るし、レベッカを忘れて自由に生きていってほしいと書かれたとおりにするつもりなんて更々なかったからだ。
目覚めて二日ほど経ち、レベッカが起き上がれるようになると、
「貴方の側にずっといたから怪しい者ではない。一番の味方だから安心して欲しい」
と、伝えた。記憶がないのは高熱で生死の境をさまよったためだとも。
クライヴを覚えていないはずなのに、起きてすぐ傍にいて身の回りの世話をしている男に警戒するでもなく、あっさりと受け入れられたのは幸運だった。今までと違い、クライヴに対して敬語を使うので少しだけ調子が狂うが、随分と長い間見ることができなかったレベッカの笑顔が見れて、それだけでクライヴは満足していたし、この選択が間違いではなかったのだと思うことができた。今までの彼女の人生での出来事は、クライヴが覚えていればいい。レベッカから消えてしまった過去よりも、これから先を幸せに過ごせたら。
数日もすれば、レベッカは家の周囲を散歩できるほどに回復した。透き通るような青空を眩しそうに見上げている口角が上がっているのを見て嬉しくなる。ようやく彼女は解放されたのだ。クライヴ以外からは、だけども。
「今日は雲ひとつなくて、とてもいい天気だね」
「なんだか嬉しいです。こんなにも空気が美味しいなんて今まで知らなかった気がして」
「……寝込んでいたからね。でも元気になって良かった」
「色々と迷惑をかけてすみません」
「気にすることはないよ。好きでやっていることだから。寧ろベッキーにはもっと迷惑をかけて欲しいくらいだ」
ここ最近の彼女とのやり取りで、クライヴが敬語を使うと萎縮してしまうらしく、なるべく普通の言葉づかいを心掛けている。十何年も使ってきたから時折戻ってしまうこともあるが、レベッカのほうも主人然としていないので、なんとか慣れてきたところだ。それとレベッカの弱った足腰のために介助から始まった手を繋ぐことにもようやく慣れた。手を添えることやエスコートすることは今までもあった。けれどこんなふうにしっかりと手を繋いだことなどなかったから。
柔らかくて小さな手の感触に浸っていると、微かに力が込められた。あれ?と思った瞬間、レベッカが歩みを止めたので、クライヴは踏み出そうとした足を元の位置に戻した。
「どうかした?」
「あの、間違っていたらごめんなさい。貴方は私の恋人なのですか……?」
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