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第三話 肩書きのない私
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独立は、思っていたよりもあっけなかった。
「本当に出ていくのか?」
父は、低い声でそう言った。
オーレリアは頷く。
迷いはなかった。
前の人生では、三年を結婚生活に費やした。
今度は、その時間を夢に使う。
小さな店舗を借りた。
看板は簡素なもの。
――オーレリア・テイラーズ。
元公爵夫人ではない。
ただの仕立て屋の娘の店。
最初の数日は、驚くほど静かだった。
客は来ない。
通りを行き交う人々は、看板を一瞥するだけで通り過ぎていく。
前の人生では、元公爵夫人の店という肩書きがあった。
噂が広がり、好奇心が客を連れてきた。
今は違う。
何者でもない。
扉の鈴は鳴らない。
ようやく訪れた客は、年配の女性だった。
「裾直し、できるかい?」
「はい、もちろん」
新しい服ではない。
擦り切れたスカートの修繕。
小さな銀貨。
それでも丁寧に縫った。
その日から。
ボタン付け。
ほつれ直し。
穴の補修。
小さな仕事を、ひとつずつ。
夜になると売上を数え、ため息がこぼれる。
それでも。
(私はやる)
ある日、オーレリアは一着の上衣を店先に掛けた。
動きやすく、腕を上げても突っ張らない。
深く座っても皺にならない。
直線的で、それでいて優雅な裁断。
前の人生で何度も作った、夢の服だ。
「新しい女性の実務服です」
通りすがりの女性に声をかける。
「まあ、変わった形ね」
「男性服みたい」
「そんなの着て、どこへ行くの?」
笑われた。
「女がそんな格好してどうするのさ」
軽い言葉。
だが、胸に刺さる。
前の人生では肩書きがあった。
元公爵夫人の提案だから、興味を持たれた。
今は、ただの若い娘の空想。
誰も本気にしない。
上衣を外し、布を撫でる。
間違ってはいない。
これは必要な服だ。
未来には。
けれど。
今はまだ。
胸の奥がじわりと重くなる。
(……このままじゃ)
そのとき。
ふと、昨日した父との会話を思い出した。
レーゲンシュタイン公爵は、仮縫いの確認のために再訪すると。
確か数日後だった。
胸がわずかに強く打つ。
結婚はしない。
……けれど。
もし、縁を作れば、利用できるかもしれない。
貴族を紹介してもらえれば。
一度でも名を出してもらえれば、商売は動く。
ーーー
当日。
店内はいつもより整えられていた。
扉の鈴が鳴る。
黒い外套。
静かな足取り。
ルートヴィッヒ・レーゲンシュタイン。
変わらない、整った横顔。
「お待ちしておりました」
採寸が始まる。
肩幅。
袖丈。
胸囲。
淡々としたやり取り。
前の人生では、その横顔を見るだけで胸が高鳴った。
「公爵様」
オーレリアが声をかける。
銀の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「今、女性の実務服を考えております。動きやすく、公の場にも立てる服です。一度、ご意見をいただけませんか」
空気が、ぴんと張りつめる。
「計画書は」
「……ありません」
「収支予測は」
「まだ……」
視線が、わずかに冷える。
「商売の基本も知らないのか」
静かな声音。
だが鋭い。
頬が熱くなる。
「ですが、必要な服です。これからは女性も——」
「根拠は」
遮られ、言葉が詰まる。
「たわごとだな」
感情の揺れはない。
ただ事実を述べるように。
「子どもの理想論だ」
その声は低く、冷たくはないのに、逃げ場を与えない。
私は立ち尽くしていた。
利用しようとした。
甘かった。
夢は情熱だけでは動かない。
胸の奥に残るのは悔しさ。
けれど。
それはまだ消えていなかった。
折れたのではない。
私の覚悟が足りなかっただけだ。
「本当に出ていくのか?」
父は、低い声でそう言った。
オーレリアは頷く。
迷いはなかった。
前の人生では、三年を結婚生活に費やした。
今度は、その時間を夢に使う。
小さな店舗を借りた。
看板は簡素なもの。
――オーレリア・テイラーズ。
元公爵夫人ではない。
ただの仕立て屋の娘の店。
最初の数日は、驚くほど静かだった。
客は来ない。
通りを行き交う人々は、看板を一瞥するだけで通り過ぎていく。
前の人生では、元公爵夫人の店という肩書きがあった。
噂が広がり、好奇心が客を連れてきた。
今は違う。
何者でもない。
扉の鈴は鳴らない。
ようやく訪れた客は、年配の女性だった。
「裾直し、できるかい?」
「はい、もちろん」
新しい服ではない。
擦り切れたスカートの修繕。
小さな銀貨。
それでも丁寧に縫った。
その日から。
ボタン付け。
ほつれ直し。
穴の補修。
小さな仕事を、ひとつずつ。
夜になると売上を数え、ため息がこぼれる。
それでも。
(私はやる)
ある日、オーレリアは一着の上衣を店先に掛けた。
動きやすく、腕を上げても突っ張らない。
深く座っても皺にならない。
直線的で、それでいて優雅な裁断。
前の人生で何度も作った、夢の服だ。
「新しい女性の実務服です」
通りすがりの女性に声をかける。
「まあ、変わった形ね」
「男性服みたい」
「そんなの着て、どこへ行くの?」
笑われた。
「女がそんな格好してどうするのさ」
軽い言葉。
だが、胸に刺さる。
前の人生では肩書きがあった。
元公爵夫人の提案だから、興味を持たれた。
今は、ただの若い娘の空想。
誰も本気にしない。
上衣を外し、布を撫でる。
間違ってはいない。
これは必要な服だ。
未来には。
けれど。
今はまだ。
胸の奥がじわりと重くなる。
(……このままじゃ)
そのとき。
ふと、昨日した父との会話を思い出した。
レーゲンシュタイン公爵は、仮縫いの確認のために再訪すると。
確か数日後だった。
胸がわずかに強く打つ。
結婚はしない。
……けれど。
もし、縁を作れば、利用できるかもしれない。
貴族を紹介してもらえれば。
一度でも名を出してもらえれば、商売は動く。
ーーー
当日。
店内はいつもより整えられていた。
扉の鈴が鳴る。
黒い外套。
静かな足取り。
ルートヴィッヒ・レーゲンシュタイン。
変わらない、整った横顔。
「お待ちしておりました」
採寸が始まる。
肩幅。
袖丈。
胸囲。
淡々としたやり取り。
前の人生では、その横顔を見るだけで胸が高鳴った。
「公爵様」
オーレリアが声をかける。
銀の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「今、女性の実務服を考えております。動きやすく、公の場にも立てる服です。一度、ご意見をいただけませんか」
空気が、ぴんと張りつめる。
「計画書は」
「……ありません」
「収支予測は」
「まだ……」
視線が、わずかに冷える。
「商売の基本も知らないのか」
静かな声音。
だが鋭い。
頬が熱くなる。
「ですが、必要な服です。これからは女性も——」
「根拠は」
遮られ、言葉が詰まる。
「たわごとだな」
感情の揺れはない。
ただ事実を述べるように。
「子どもの理想論だ」
その声は低く、冷たくはないのに、逃げ場を与えない。
私は立ち尽くしていた。
利用しようとした。
甘かった。
夢は情熱だけでは動かない。
胸の奥に残るのは悔しさ。
けれど。
それはまだ消えていなかった。
折れたのではない。
私の覚悟が足りなかっただけだ。
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こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。
‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。
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