襲われていた美男子を助けたら溺愛されました

茜菫

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 それからノアとラーゼル侯爵が話をしている間も、イライザは黙ってうつむいているだけであった。万事休す、たった一日延びただけの猶予もイライザにとっては苦しむだけの時間でしかない。

「……それでは、失礼します」

 イライザは青い顔でうつむき、建前の挨拶すらすることができずに黙り込んでいた。ノアに連れられ、震える両手を握りしめて去るイライザの胸は絶望しかなかった。



 一方、兄妹がでていった部屋の中で、ラーゼル侯爵はほくそ笑んでいた。

(私としては、あの生意気な女で愉しめればよいのですが)

 女の身で騎士となったイライザは有名であり、ラーゼル侯爵はそれを生意気だと嘲笑っていた。今回の縁談は生意気な女を手折り、わからせてやろうというラーゼル侯爵の嗜虐心を満たす愉しみのためだけだ。

「さて、どうなることやら」

 明日までに金を用意しなければならない、ラーゼル侯爵はこの状況下でノアが取る行動に予測がついている。

(あの女で愉しめないことは、実に惜しい)

 イライザの見目が想像していたよりもずっと美しく、ラーゼル侯爵はたいそう彼女を気に入り長く愉しみたいと考えていた。予想するノアの行動によってはそれが叶わない、ならばそれを阻止するところだが。

「……まあ、どちらでもよいでしょう」

 そうなったとしても、ラーゼル侯爵には利があった。イライザが手に入れば欲望は満たされるし、そうでなかったとしても別の欲望が満たされる。すべてが思うがままだとラーゼル侯爵は信じ切っていた。



 帰りの馬車の中、イライザもノアも一言もしゃべらなかった。ただ車輪の転がる音だけが響き、二人ともうつむいて顔も合わせない。

 馬車がイライザが利用している宿の前に留まる。御者が声をかけるまで、二人はずっとそのままであった。

「……兄さま」

 馬車を降りたイライザは隣に立つノアに声をかける。その声は弱々しく、これまでどのようなことがあっても挫けなかったイライザからは想像もつかないものであった。

「……リズっ」

 ノアがたまらずイライザを抱きしめる。イライザも不安げに兄の胸に顔をうずめた。

「私が……あの男に嫁ぐしか……」

「大丈夫だ、リズ」

「でも、もう……どうしようもないじゃない……」

「そんなことはない! ……大丈夫、大丈夫だから」

 ノアはそっとイライザを離し、暗い顔で見上げるイライザの額に軽く口づけると、安心させるように笑った。

「……兄さま、なにをするつもり?」

「考えがあるって言っただろう?」

 ノアの笑顔に別の不安を感じたイライザは眉をひそめる。ノアをじっと見つめると、彼は少し気まずそうに目をそらした。

「考えって、危ないことじゃ……」

「ないない」

「……まさか、賭博を考えて」

「いやいや、それは絶対にない!」

 ノアは賭博という単語に反応し、顔に嫌悪を表す。どれほど過酷な状況になったとしても、賭博だけは選択しないだろう。

 祖父の賭博のせいでこうなったのだ。伯爵夫婦はもちろんのこと、兄妹も賭博を毛嫌いしていた。

(兄さまは、いったいなにを……)

 イライザにはノアの考えがわからなかった。

「気にしなくていい。リズには……心に決めた相手がいるのだろう?」

「そっ、ミケルはそういう……」

「みなまで言うな……わかっているから!」

 ノアはイライザの言葉を遮り、首を横に振る。

「ちょっと、兄さま……っ」

 イライザは顔を真っ赤に染め、うつむいた。純潔ではないと言ったことで、ノアの中では確信にいたっているようだ。

「大丈夫。リズは、幸せになるんだ」

「兄さま……」

 まるで言い聞かせるかのような兄の言葉にイライザは黙る。イライザも不幸せになりたくはなかった。

 このまま縁談がまとまってしまえば、少なくともイライザ自身が望む幸せは失われるだろう。だが、縁談を拒めば家族は更なる苦境に立たされ、イライザも幸せとは言えなくなる。

「今日はもう、ゆっくり休むんだ」

「……でも」

「大丈夫、明日には解決するさ。かならずね」

 イライザはノアの言葉に安心よりも不安しか覚えなかった。

 追い詰められたこの現状で、兄がなぜこのように笑ってみせるのか。まるで死地に向かう者の笑顔のように思えてならず、イライザはうつむく。

「私は、私だけではなく兄さまにも……父さまにも母さまにも、幸せになってほしい」

「……リズ」

 ノアは妹の言葉に困ったように眉尻を下げて笑う。それがどれほど難しいことかは二人とも理解しているだろう。イライザの目には、だれもが幸せになれる道は見えない。

「兄さま……」

「……私には、金を借りるあてがある」

「え?」

 イライザは驚きの声をもらした。借金のために借金をする、なんて考えは思いもつかなかったのだ。

「無利息で、金を借りられるんだ。それでラーゼル侯爵の借金を返せば、父上も、母上も……リズも、幸せになれる」

 無利息で金を借りる、それもいまある借金をすべて返しきれるだけの金額を。そんなうまい話になんの裏もないはずがないとはイライザにもわかる。

「兄さま、それは……」

 不安はさらに大きくなり、イライザは兄を引き止めようと手を伸ばした。

「あ……っ」

 だが、その手が届く前にノアは背を向け、足早にその場を走り去る。イライザは追いかけようとしたが、走ることに適さない靴に足を取られ、その場に転がりそうになる。

 その間にノアの姿は見えなくなり、イライザは唇を引き締めてうつむいた。広がったドレスの裾は足元を隠し、イライザの不安を助長させた。

(兄さま……)

 仮にイライザがラーゼル侯爵に嫁いでも、借金が消えるわけではない。ただ返済が先延ばしになるだけで、長引けば長引くほど利息分は増えていく。

 一方、ノアが無利息で金を借りることができるのならば、借金が消えるわけではないものの、それ以上に増えることはなくなるだろう。そう考えれば、最善のように思えた。

(でも、兄さまが……)

 だが、ノアは犠牲になる。無利息で金を借りるなんて、裏があるに違いない。

 イライザはノアが犠牲になる道など選びたくない。それがどんな仕打ちなのかわからないことが、イライザの不安をさらに大きくさせた。

「う……っ」

 イライザは息苦しさに胸をおさえ、目をきつくつむってその場に立ち尽くす。

(私は、どうしたら……)

 どうしょうもない無力感と絶望に、イライザは足を動かせなかった。イライザがそのまま立ち尽くしていると、ふと、足元に影が差す。

「……?」

 慌てて顔を上げたイライザの目に映ったのは、思ってもみない人物の顔だ。

「ミケル?」

「リズ」

 名を呼ばれたミケルは小さく笑う。だが、その直前に見えた表情から、ミケルが少し不機嫌なことが察せられた。

「ミケル、どうしてここに」

「リズの姿が見えたから、声をかけようと思って待っていたんだけれど……ねえ、リズはさっきの男の人とは、どんな仲なの?」

「えっ?」

 借金のこと、兄の懸念な様子、突然現れたミケルのこと。さまざまなことにいっぱいいっぱいなイライザは頭が回らず、気の抜けた声をもらした。

 それをどのように受け取ったのか、ミケルは矢継ぎ早に言葉を続ける。

「リズはあの人と、とても親密な仲みたいだね。あっ、僕、立ち聞きなんて失礼なことはしていないよ? 隙あらば声をかけようと思って、遠くから様子を見ていただけで」

「っ、どうして」

「もちろん、少しでもリズと一緒にいたいからだよ」

「そっ、……そう……」

 勢いにのまれながらイライザは頬を赤らめる。イライザの暗く沈んだ心は、ミケルの言葉によってわずかに浮上した。
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