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第二部
幸せはコーヒーの薫りとともにⅠ
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北のバルコニーから見えるのは北の宮。
通常ならほっそりと静まり返っているはずの宮では、行きかう人の声と工事の音が聞こえてきます。何年もの間手を入れられることのなかった宮でしたが、私達の新しい住まいとして改装することになったのです。
間取りの変更や設備、内装などを決めて、半年後の結婚に間に合うように急ピッチで工事が進んでいます。
それと一年後には王城の北の敷地に国立の研究室と研究者の寮が完成の予定。ゆくゆくは医学研究にも力を入れるということで、話し合いが始まっています。
王子妃になる私が研究のためとはいえ、頻繁に王城を出るのは安全の面でもどうなのかと議会から苦言が出たそうで、それならばと出た案が採用されて、それが城内に研究所を建設するに至った経緯です。
すぐに行き来できる方が時間の短縮にもなりますし、御者や護衛騎士など私のために動く人の数や手間などを考えると城内の方がよいに決まっています。
なんて、喜んでいたら、発案者がレイ様だと知ったのは何もかもが決まったあと。
『帰ってくるまで心配で気が気じゃないし仕事が手につかなくなるかもしれない。だから自分の目の届く範囲にいてほしかったんだ』とバレてしまった勢いで熱弁するレイ様。そんな私情に塗れた裏話があったとは思いませんでしたが。
何はともあれ、議会で承認されたあとは、こんなに至れり尽くせりでいいのかと思うほど、物事がとんとん拍子に進んでいきました。
「ローラ。おまたせ」
私の大好きな声がして振り返るとレイ様のにこやかな表情が瞳いっぱいに映ります。
「お疲れさまでした」
「うん。疲れちゃったから、休憩しよう」
「はい。ゆっくりしましょう」
自邸から帰ってきた私は別室でレイ様を待っているところだったのです。差し出された手を取りレイ様に導かれるまま部屋を移動しました。
♢♢♢
ガリガリッ。
ミルの取っ手を慣れた手つきで回す音が聞こえています。
レイ様がコーヒー豆を挽いている姿を見つめている私。
疲れたと言っていたのに、疲れはどこへやら。嬉々として作業に没頭しているレイ様。
やがて挽き終わると容器に移し替えてゆっくりとお湯を注ぎ始めました。ふんわりと香ばしい独特の薫りが立ち上りこちらにも漂ってきました。ポットに落ちる雫にしばし心を奪われて静かな時間が流れていきました。
ここはレイ様の私室。
本棚とコンソールテーブル、ソファセット。必要最小限度に置かれた家具。至ってシンプルな室内はレイ様らしい。そこに新たに加わったバーカウンター。レイ様お気に入りの場所となっています。
普段使いの応接室は最初に訪れた頃よりも家具や装飾品も増えて華やかになっていました。定期的に品物を入れ替えが行われているようで、目を楽しませてくれています。侍女達の心遣いに感謝です。
「おまたせ」
湯気の立ったコーヒーカップとお菓子をテーブルに置くと私の隣に腰を下ろしたレイ様。お菓子は私が作ったもの。クランベリーのマフィンとベーコンとアスパラガスのマフィン。
「ありがとうございます。レイ様にお手間をかけさせてしまい申し訳ございません」
「謝らなくていいんだよ。俺が好きでやっていることなんだし。いい気分転換にもなるしね。ローラからコーヒーを紹介してもらってよかったよ。こんなおいしい飲み物があったなんて知らなかったから」
「そういって頂けると嬉しいです」
カフェでも出しているコーヒーの評判は上々。初めは敬遠されるお客様もいらっしゃったのですが、コーヒー独特の薫りと苦味が癖になるとだんだんと注文が増えて、今では定番となりました。どちらかというと男性の方に人気があります。
宮でもセバス達男性に人気なのですよね。
応接室にもバーカウンターが設置されており、数種類の豆と道具や食器類が揃っています。何故かセバスとクリスがコーヒー担当となっていました。紅茶は侍女達の担当です。
男性ってコーヒーを淹れるのが好きなのでしょうか。これは男の仕事だと並々ならぬ意欲を漲らせているのです。
時間がある時には私室で手ずからコーヒーを淹れてくださいます。これは私にだけにしか味わえないもの。贅沢なひととき。
レイ様はブラックで私はミルクを少し入れて、まずはコーヒーのかぐわしい薫りを楽しんでから口にしました。
「おいしい」
「うん。上出来だね」
レイ様は自分が淹れたコーヒーを飲むと満足げに頷いています。
クランベリーのマフィンを頂きながら隣に座るレイ様を盗み見る。美麗なな横顔にドキッと胸が高鳴って慌てて顔を逸らしてしまいました。
レイ様の美貌に未だに慣れなくてドキドキしてしまうわ。
「どうしたの?」
そんな私の気持ちなど知らないレイ様は暢気に話しかけます。
「いえ。なんでもありません」
「それならいいけれど。ところで荷造りは進んでる?」
「はい。ほとんど済んでおります」
「良かった。三日後には出発だからね。急なことでローラにも負担をかけてしまうことになってごめんね」
「いいえ。驚きはしましたけれど、負担だなんて思っていませんわ。チェント領は港町だと聞いていますので楽しみにしているんですよ。不謹慎かもしれませんが」
理由が理由だけに複雑な心境にもなります。
チェント領。
私達は三日後にかの地に向けて出発します。その理由は卒業パーティーでのリリア様の失態の責任を取ってチェント男爵が爵位を返上したためです。リリア様は男爵家から除籍されコンドール修道院行きとなったそう。
王家からは処罰が下されることはなかったようですが、衆人環視の中での王族への不敬で無礼な態度は目に余るものがありました。許される行為ではありません。
社交界が震撼しチェント男爵家への非難は大きくて看過できない状況に追い込まれてしまい、その責任を取る形での決断となったようです。
男爵も令息も良い方だっただけに遺憾としか言いようがありません。
幸いなことはチェスター貿易商会が支店として残しておいてくれたことです。レイ様お気に入りのコーヒーがこれからも飲めるのですから。このご縁を大事にしていきたいわ。
それから、何より驚いたのは、テンネル侯爵令息が平民になった事。爵位よりもリリア様との結婚を選んだということなのでしょう。
『これこそが真実の愛というものなのかもしれないわね』と教えてくれたディアナが言っていたわ。爵位を捨てるなんて相当の覚悟がないと出来ないと思うから、二人には幸せになってもらいたいわ。
そのような経緯を経て、王領となったチェント領を代理領主としてレイ様が治めることになりました。
青天の霹靂というべき王命に一驚してしまった私達。優良で貿易の要でもある領地ゆえに名のある領主を置く方がよいだろうとの国王陛下の判断でした。暫定的な処置で代理であっても権限は領主と同じ。責任は伴います。
視察も兼ねて引継ぎのために訪れるチェント領。領民に受け入れられるとよいのだけれど。男爵はとても敬愛され信頼されていたということで此度の事には領民は混乱と意気消沈しているかもしれないわ。
「ローラ。元気ないけど、具合でも悪いの?」
考え事をしているうちに黙り込んでしまったわ。
「いえ。至って元気です。ただ、ちょっと……」
「ちょっと?」
「チェント領の領民に受け入れてもらえるか、不安になりまして」
レイ様には失礼な言葉だったかもしれない。レイ様は王族。領民が受け入れるのは当然としても私はどうなのかしら? と思ったらつい口に出てしまっていました。
「ローラ」
私の名前を呼んだレイ様は私の手に手を重ねました。温かな温もりが手に伝わります。それはやがて胸の奥まで届いて火が灯ったように温かさで満たされていきました。
「領民にとって今回の事はショッキングな出来事だったと思う。チェント男爵は領主としても優秀だったそうだから。その代わりをするとなるとプレッシャーはかかる。領地経営は初めての経験だしね。最初から上手くいくなんて思っていないよ。反発する者だっているかもしれない。でも、誠実に真摯に向き合っていけば受け入れてくれると思うんだ。だから、ローラも頑張ってくれるかい?」
「はい」
レイ様の手が微かに震えているのが分かりました。不安なのは私だけではない。レイ様も同じなのね。
「それに領地の管理者が残ってくれることになっているから、彼らと協力していけば上手くいくと思っている。ローラは研究もあるし、あまり負担をかけないようにするからね」
「ありがとうございます。レイ様も公務がありますが、大丈夫なのですか?」
「うん。管理者もいるし連絡も密に取るつもりでいるしね。計画的に領地に足を運ぶことも考えている」
「私もお力になれることがあればサポートしますので、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「それは心強いな。一緒にチェント領を盛り立てていこう」
「はい」
握られた手に更に力が籠り私達は目を合わせて微笑み合いました。
通常ならほっそりと静まり返っているはずの宮では、行きかう人の声と工事の音が聞こえてきます。何年もの間手を入れられることのなかった宮でしたが、私達の新しい住まいとして改装することになったのです。
間取りの変更や設備、内装などを決めて、半年後の結婚に間に合うように急ピッチで工事が進んでいます。
それと一年後には王城の北の敷地に国立の研究室と研究者の寮が完成の予定。ゆくゆくは医学研究にも力を入れるということで、話し合いが始まっています。
王子妃になる私が研究のためとはいえ、頻繁に王城を出るのは安全の面でもどうなのかと議会から苦言が出たそうで、それならばと出た案が採用されて、それが城内に研究所を建設するに至った経緯です。
すぐに行き来できる方が時間の短縮にもなりますし、御者や護衛騎士など私のために動く人の数や手間などを考えると城内の方がよいに決まっています。
なんて、喜んでいたら、発案者がレイ様だと知ったのは何もかもが決まったあと。
『帰ってくるまで心配で気が気じゃないし仕事が手につかなくなるかもしれない。だから自分の目の届く範囲にいてほしかったんだ』とバレてしまった勢いで熱弁するレイ様。そんな私情に塗れた裏話があったとは思いませんでしたが。
何はともあれ、議会で承認されたあとは、こんなに至れり尽くせりでいいのかと思うほど、物事がとんとん拍子に進んでいきました。
「ローラ。おまたせ」
私の大好きな声がして振り返るとレイ様のにこやかな表情が瞳いっぱいに映ります。
「お疲れさまでした」
「うん。疲れちゃったから、休憩しよう」
「はい。ゆっくりしましょう」
自邸から帰ってきた私は別室でレイ様を待っているところだったのです。差し出された手を取りレイ様に導かれるまま部屋を移動しました。
♢♢♢
ガリガリッ。
ミルの取っ手を慣れた手つきで回す音が聞こえています。
レイ様がコーヒー豆を挽いている姿を見つめている私。
疲れたと言っていたのに、疲れはどこへやら。嬉々として作業に没頭しているレイ様。
やがて挽き終わると容器に移し替えてゆっくりとお湯を注ぎ始めました。ふんわりと香ばしい独特の薫りが立ち上りこちらにも漂ってきました。ポットに落ちる雫にしばし心を奪われて静かな時間が流れていきました。
ここはレイ様の私室。
本棚とコンソールテーブル、ソファセット。必要最小限度に置かれた家具。至ってシンプルな室内はレイ様らしい。そこに新たに加わったバーカウンター。レイ様お気に入りの場所となっています。
普段使いの応接室は最初に訪れた頃よりも家具や装飾品も増えて華やかになっていました。定期的に品物を入れ替えが行われているようで、目を楽しませてくれています。侍女達の心遣いに感謝です。
「おまたせ」
湯気の立ったコーヒーカップとお菓子をテーブルに置くと私の隣に腰を下ろしたレイ様。お菓子は私が作ったもの。クランベリーのマフィンとベーコンとアスパラガスのマフィン。
「ありがとうございます。レイ様にお手間をかけさせてしまい申し訳ございません」
「謝らなくていいんだよ。俺が好きでやっていることなんだし。いい気分転換にもなるしね。ローラからコーヒーを紹介してもらってよかったよ。こんなおいしい飲み物があったなんて知らなかったから」
「そういって頂けると嬉しいです」
カフェでも出しているコーヒーの評判は上々。初めは敬遠されるお客様もいらっしゃったのですが、コーヒー独特の薫りと苦味が癖になるとだんだんと注文が増えて、今では定番となりました。どちらかというと男性の方に人気があります。
宮でもセバス達男性に人気なのですよね。
応接室にもバーカウンターが設置されており、数種類の豆と道具や食器類が揃っています。何故かセバスとクリスがコーヒー担当となっていました。紅茶は侍女達の担当です。
男性ってコーヒーを淹れるのが好きなのでしょうか。これは男の仕事だと並々ならぬ意欲を漲らせているのです。
時間がある時には私室で手ずからコーヒーを淹れてくださいます。これは私にだけにしか味わえないもの。贅沢なひととき。
レイ様はブラックで私はミルクを少し入れて、まずはコーヒーのかぐわしい薫りを楽しんでから口にしました。
「おいしい」
「うん。上出来だね」
レイ様は自分が淹れたコーヒーを飲むと満足げに頷いています。
クランベリーのマフィンを頂きながら隣に座るレイ様を盗み見る。美麗なな横顔にドキッと胸が高鳴って慌てて顔を逸らしてしまいました。
レイ様の美貌に未だに慣れなくてドキドキしてしまうわ。
「どうしたの?」
そんな私の気持ちなど知らないレイ様は暢気に話しかけます。
「いえ。なんでもありません」
「それならいいけれど。ところで荷造りは進んでる?」
「はい。ほとんど済んでおります」
「良かった。三日後には出発だからね。急なことでローラにも負担をかけてしまうことになってごめんね」
「いいえ。驚きはしましたけれど、負担だなんて思っていませんわ。チェント領は港町だと聞いていますので楽しみにしているんですよ。不謹慎かもしれませんが」
理由が理由だけに複雑な心境にもなります。
チェント領。
私達は三日後にかの地に向けて出発します。その理由は卒業パーティーでのリリア様の失態の責任を取ってチェント男爵が爵位を返上したためです。リリア様は男爵家から除籍されコンドール修道院行きとなったそう。
王家からは処罰が下されることはなかったようですが、衆人環視の中での王族への不敬で無礼な態度は目に余るものがありました。許される行為ではありません。
社交界が震撼しチェント男爵家への非難は大きくて看過できない状況に追い込まれてしまい、その責任を取る形での決断となったようです。
男爵も令息も良い方だっただけに遺憾としか言いようがありません。
幸いなことはチェスター貿易商会が支店として残しておいてくれたことです。レイ様お気に入りのコーヒーがこれからも飲めるのですから。このご縁を大事にしていきたいわ。
それから、何より驚いたのは、テンネル侯爵令息が平民になった事。爵位よりもリリア様との結婚を選んだということなのでしょう。
『これこそが真実の愛というものなのかもしれないわね』と教えてくれたディアナが言っていたわ。爵位を捨てるなんて相当の覚悟がないと出来ないと思うから、二人には幸せになってもらいたいわ。
そのような経緯を経て、王領となったチェント領を代理領主としてレイ様が治めることになりました。
青天の霹靂というべき王命に一驚してしまった私達。優良で貿易の要でもある領地ゆえに名のある領主を置く方がよいだろうとの国王陛下の判断でした。暫定的な処置で代理であっても権限は領主と同じ。責任は伴います。
視察も兼ねて引継ぎのために訪れるチェント領。領民に受け入れられるとよいのだけれど。男爵はとても敬愛され信頼されていたということで此度の事には領民は混乱と意気消沈しているかもしれないわ。
「ローラ。元気ないけど、具合でも悪いの?」
考え事をしているうちに黙り込んでしまったわ。
「いえ。至って元気です。ただ、ちょっと……」
「ちょっと?」
「チェント領の領民に受け入れてもらえるか、不安になりまして」
レイ様には失礼な言葉だったかもしれない。レイ様は王族。領民が受け入れるのは当然としても私はどうなのかしら? と思ったらつい口に出てしまっていました。
「ローラ」
私の名前を呼んだレイ様は私の手に手を重ねました。温かな温もりが手に伝わります。それはやがて胸の奥まで届いて火が灯ったように温かさで満たされていきました。
「領民にとって今回の事はショッキングな出来事だったと思う。チェント男爵は領主としても優秀だったそうだから。その代わりをするとなるとプレッシャーはかかる。領地経営は初めての経験だしね。最初から上手くいくなんて思っていないよ。反発する者だっているかもしれない。でも、誠実に真摯に向き合っていけば受け入れてくれると思うんだ。だから、ローラも頑張ってくれるかい?」
「はい」
レイ様の手が微かに震えているのが分かりました。不安なのは私だけではない。レイ様も同じなのね。
「それに領地の管理者が残ってくれることになっているから、彼らと協力していけば上手くいくと思っている。ローラは研究もあるし、あまり負担をかけないようにするからね」
「ありがとうございます。レイ様も公務がありますが、大丈夫なのですか?」
「うん。管理者もいるし連絡も密に取るつもりでいるしね。計画的に領地に足を運ぶことも考えている」
「私もお力になれることがあればサポートしますので、遠慮なくおっしゃってくださいね」
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