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第4話 索引と回答 --あなたの番です--
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婚約までの手続きが終わると、ヴァルディス伯爵家の屋敷で過ごすことが多くなった。
王子妃教育と王子の公務の事実上の代行として、王宮で途轍もなく忙しかった日々がウソのように、静かな日々となった。
本当に穏やかな日常を過ごしている。
……穏やか、という言葉が、これほど心地よいものだとは思わなかった。
ノエル様――いいえ、エルは、驚くほど静かな人だった。
距離を詰めすぎることもなく、かといって放置するわけでもない。
「無理なことは、無理にしなくていいですよ」
口癖のように、優しく言ってくれる。
何事につけ、作法が王宮とは違う。早く伯爵家の流儀に慣れなくてはと、内心、焦る私に常に気遣ってくれた。
朝食の席でも、散歩の途中でも、私が何かに戸惑えば、必ず「無理しないで。ゆっくり」と言ってくれる。
貴族の婚約とは、もっと形式ばったものだと思っていた。
互いを値踏みし、役割を確認し合い、距離を測るものだと。
けれど、エルは違った。
私を「婚約者」という立場で見るのではなく「一人の人間」として、常に見ていてくれる。
――ただ。
彼には、一つだけ、どうしても目につく癖があった。
「……失礼ですが、どちら様でしたか?」
邸にやってきた訪問者はまだしも、二人で出かける折など「不意に会った知り合い」を、とても苦手にしているのだ。
先日、二人で観劇に出かけた時に声をかけられた中年の貴族に、エルがそう問いかけた瞬間、私は内心で息を呑んだ。
相手は、ヴァルディス家と長い付き合いのある子爵。しかもつい三日前に、面会していた。忘れるはずがないのだ。
一瞬、空気が凍る。
子爵は目を瞬かせ、次いで苦笑した。
「いやいや、これは失礼。最近は皆、忙しいですからな」
場を取り繕うような言葉だが、それで帳消しになる失点ではない。
エルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当にすみません。どうにも、人の顔を覚えるのが苦手で……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが腑に落ちた。
思い返せば、これまでにも何度かあった。
庭園で挨拶を受けた時も、街で声をかけられた時も、そうだ。
相手の名前どころか、立場すら思い出せず、エルが一瞬、困ったように黙り込む場面。
――そういうことだったのね。
帰りの馬車で二人きりになってから、馭者にすら聞こえない声で私はそっと切り出した。
「エル。もしかして……お顔とお名前を、結びつけるのが苦手なのですか?」
彼は、驚いたように目を見開いたあと、少しだけ困った笑みを浮かべた。
「……やっぱり、分かりますよね」
責められると思ったのだろうか。
声が、わずかに硬い。
「王立学園でも、ずっとでした。覚えようと努力はしているんですが……どうしても、抜け落ちるんです」
自嘲するような調子だった。
「貴族としては、致命的です。ご存知のとおり、長男なのに家督を継げなくなりそうなのは、この欠点のせいなんです。ごめんなさい。こんな『欠陥』がある男、軽蔑……しますよね? せっかく手に入れた新しい生活を壊したくないと…… あなたに見放されるのが怖くて話せませんでした」
その言葉に、私は首を横に振った。
「いいえ」
即答していた。
エルは、きょとんとした顔でこちらを見る。私は、彼の手を優しく包むようにして、自然に微笑んだ。
「名前は、私が伝えます」
私が自然に微笑むと、エルは弾かれたように瞬きをする。
「その代わり――その先は、あなたの番です」
「……私の、番?」
「ええ。名前という索引さえ付けば、あなたの頭脳は誰よりも速く、正解を導き出せるはず」
私は知っている。エルは人の「顔」こそ覚えられないけれど、話した内容や背景、問題点は驚くほど正確に記憶し、誰よりも優れた分析と解決策を持ってることを。
だから……
「私という『目』を使って、あなたは『言葉』を紡いでください。二人で一人に……なれると思いませんか?」
エルのとび色の瞳が、大きく揺れた。まるで、ずっと一人で耐えてきた呪いが、解けた瞬間のように。
「私が最初の一歩を補います。だから、その先を、お願いします」
沈黙。
やがて、エルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
小さな声だった。
「皆、そこができないと、途端に言うんです。直せ、努力しろ、貴族失格だ、と」
彼は視線を落とし、私の手の中で拳を握った。
「でも、できないものは……どうしても、できなくて」
私は、そっと言った。
「誰にでも、できないことはあります。でも、あなたは、できることはすべてなさっていらっしゃいます」
それは、かつて自分自身に言ってほしかった言葉でもあった。
「大切なのは、それをどう補うか、というだけだと思います」
顔を上げたエルの瞳が、潤んでいるように見えた。緩んだ拳が、そっと私の手を握ってくれた。
とても、温かかった。
「……助かります」
その一言に、私の胸も熱くなった。
かつて「人形」と呼ばれ、自分自身の価値を見失いかけていた私を、彼は今、必要としてくれたのだ。
その日から、私たちは自然に役割を分けるようになった。
「北方伯、お久しぶりです」
名前を呼んで、私が先に挨拶をする。
夫婦なら「気の早い妻」が、夫よりも先に声をかけるくらいは、ギリギリ失礼には当たらない。
「これはこれは。ご婚約なさったそうで。甥のオイタが過ぎましたこと、お詫びいたします」
北の大人とされる北方伯は、王弟である。王子の婚約者時代は、何度もお目にかかった。
優しい方だ。
「ありがとうございます。でも、おかげで、今は幸せに過ごさせていただいてますわ」
「おやおや。聞いておりますぞ。婚約者殿は王立学園でとても優秀な成績だったそうですね」
話がエルに振られると、すぐさま、話に入れる。
名前さえわかれば、この瞬間も北方伯の領地で何が盛んで、何が足りないか。ひょっとしたら、「何を求めやすいか」くらいまで、もう頭に浮かんでいるはずだ。
エルの瞳の温度が変わっている。
困惑の色が消え、代わりに膨大な知識の海を泳ぐ、冷徹なまでの知性が宿っている。
……ああ、この人の思考は、なんて美しいのだろう。
私の視線に気付く間もなく、エルは「正解」へと切り込んでいった。
「ありがとうございます、北方伯閣下。私ごときは浅学非才の身ではございますが、おかげさまで、我が領地は……」
名前を告げるのは、私。
話を広げ、解決策を提示するのは、エル。
驚くほど、噛み合った。
周囲の貴族たちは、次第に目を見張るようになった。
「息が合っているな」
「まるで長年の夫婦のようだ」
そんな声が聞こえてくる。
エルは、少し照れたように私を見る。
「……頼りきりで、すみません。けれど、君が私の隣で名前を囁いてくれるだけで、世界が色鮮やかに見えるのは本当に幸せです。君という『索引』がなければ、私はずっと闇の中にいた」
「いいえ」
私は、はっきりと言った。
「私のほうこそ。あなたの“番”を任せてもらえて、嬉しいですから」
その瞬間、エルは、初めて心からの笑顔を見せてくれた。
欠点を責められないこと。
役に立てる場所があること。
それが、こんなにも人を救うのだと、私は知った。
政略婚約で始まった関係は、いつの間にか、確かな信頼へと変わっていた。
――きっと。
この人となら、どんな社交の場でも、怖くはない。
そう、思えた。
そして、私たちは初めての公式な夜会へと足を踏み入れた。
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本当に穏やかな日常を過ごしている。
……穏やか、という言葉が、これほど心地よいものだとは思わなかった。
ノエル様――いいえ、エルは、驚くほど静かな人だった。
距離を詰めすぎることもなく、かといって放置するわけでもない。
「無理なことは、無理にしなくていいですよ」
口癖のように、優しく言ってくれる。
何事につけ、作法が王宮とは違う。早く伯爵家の流儀に慣れなくてはと、内心、焦る私に常に気遣ってくれた。
朝食の席でも、散歩の途中でも、私が何かに戸惑えば、必ず「無理しないで。ゆっくり」と言ってくれる。
貴族の婚約とは、もっと形式ばったものだと思っていた。
互いを値踏みし、役割を確認し合い、距離を測るものだと。
けれど、エルは違った。
私を「婚約者」という立場で見るのではなく「一人の人間」として、常に見ていてくれる。
――ただ。
彼には、一つだけ、どうしても目につく癖があった。
「……失礼ですが、どちら様でしたか?」
邸にやってきた訪問者はまだしも、二人で出かける折など「不意に会った知り合い」を、とても苦手にしているのだ。
先日、二人で観劇に出かけた時に声をかけられた中年の貴族に、エルがそう問いかけた瞬間、私は内心で息を呑んだ。
相手は、ヴァルディス家と長い付き合いのある子爵。しかもつい三日前に、面会していた。忘れるはずがないのだ。
一瞬、空気が凍る。
子爵は目を瞬かせ、次いで苦笑した。
「いやいや、これは失礼。最近は皆、忙しいですからな」
場を取り繕うような言葉だが、それで帳消しになる失点ではない。
エルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当にすみません。どうにも、人の顔を覚えるのが苦手で……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが腑に落ちた。
思い返せば、これまでにも何度かあった。
庭園で挨拶を受けた時も、街で声をかけられた時も、そうだ。
相手の名前どころか、立場すら思い出せず、エルが一瞬、困ったように黙り込む場面。
――そういうことだったのね。
帰りの馬車で二人きりになってから、馭者にすら聞こえない声で私はそっと切り出した。
「エル。もしかして……お顔とお名前を、結びつけるのが苦手なのですか?」
彼は、驚いたように目を見開いたあと、少しだけ困った笑みを浮かべた。
「……やっぱり、分かりますよね」
責められると思ったのだろうか。
声が、わずかに硬い。
「王立学園でも、ずっとでした。覚えようと努力はしているんですが……どうしても、抜け落ちるんです」
自嘲するような調子だった。
「貴族としては、致命的です。ご存知のとおり、長男なのに家督を継げなくなりそうなのは、この欠点のせいなんです。ごめんなさい。こんな『欠陥』がある男、軽蔑……しますよね? せっかく手に入れた新しい生活を壊したくないと…… あなたに見放されるのが怖くて話せませんでした」
その言葉に、私は首を横に振った。
「いいえ」
即答していた。
エルは、きょとんとした顔でこちらを見る。私は、彼の手を優しく包むようにして、自然に微笑んだ。
「名前は、私が伝えます」
私が自然に微笑むと、エルは弾かれたように瞬きをする。
「その代わり――その先は、あなたの番です」
「……私の、番?」
「ええ。名前という索引さえ付けば、あなたの頭脳は誰よりも速く、正解を導き出せるはず」
私は知っている。エルは人の「顔」こそ覚えられないけれど、話した内容や背景、問題点は驚くほど正確に記憶し、誰よりも優れた分析と解決策を持ってることを。
だから……
「私という『目』を使って、あなたは『言葉』を紡いでください。二人で一人に……なれると思いませんか?」
エルのとび色の瞳が、大きく揺れた。まるで、ずっと一人で耐えてきた呪いが、解けた瞬間のように。
「私が最初の一歩を補います。だから、その先を、お願いします」
沈黙。
やがて、エルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
小さな声だった。
「皆、そこができないと、途端に言うんです。直せ、努力しろ、貴族失格だ、と」
彼は視線を落とし、私の手の中で拳を握った。
「でも、できないものは……どうしても、できなくて」
私は、そっと言った。
「誰にでも、できないことはあります。でも、あなたは、できることはすべてなさっていらっしゃいます」
それは、かつて自分自身に言ってほしかった言葉でもあった。
「大切なのは、それをどう補うか、というだけだと思います」
顔を上げたエルの瞳が、潤んでいるように見えた。緩んだ拳が、そっと私の手を握ってくれた。
とても、温かかった。
「……助かります」
その一言に、私の胸も熱くなった。
かつて「人形」と呼ばれ、自分自身の価値を見失いかけていた私を、彼は今、必要としてくれたのだ。
その日から、私たちは自然に役割を分けるようになった。
「北方伯、お久しぶりです」
名前を呼んで、私が先に挨拶をする。
夫婦なら「気の早い妻」が、夫よりも先に声をかけるくらいは、ギリギリ失礼には当たらない。
「これはこれは。ご婚約なさったそうで。甥のオイタが過ぎましたこと、お詫びいたします」
北の大人とされる北方伯は、王弟である。王子の婚約者時代は、何度もお目にかかった。
優しい方だ。
「ありがとうございます。でも、おかげで、今は幸せに過ごさせていただいてますわ」
「おやおや。聞いておりますぞ。婚約者殿は王立学園でとても優秀な成績だったそうですね」
話がエルに振られると、すぐさま、話に入れる。
名前さえわかれば、この瞬間も北方伯の領地で何が盛んで、何が足りないか。ひょっとしたら、「何を求めやすいか」くらいまで、もう頭に浮かんでいるはずだ。
エルの瞳の温度が変わっている。
困惑の色が消え、代わりに膨大な知識の海を泳ぐ、冷徹なまでの知性が宿っている。
……ああ、この人の思考は、なんて美しいのだろう。
私の視線に気付く間もなく、エルは「正解」へと切り込んでいった。
「ありがとうございます、北方伯閣下。私ごときは浅学非才の身ではございますが、おかげさまで、我が領地は……」
名前を告げるのは、私。
話を広げ、解決策を提示するのは、エル。
驚くほど、噛み合った。
周囲の貴族たちは、次第に目を見張るようになった。
「息が合っているな」
「まるで長年の夫婦のようだ」
そんな声が聞こえてくる。
エルは、少し照れたように私を見る。
「……頼りきりで、すみません。けれど、君が私の隣で名前を囁いてくれるだけで、世界が色鮮やかに見えるのは本当に幸せです。君という『索引』がなければ、私はずっと闇の中にいた」
「いいえ」
私は、はっきりと言った。
「私のほうこそ。あなたの“番”を任せてもらえて、嬉しいですから」
その瞬間、エルは、初めて心からの笑顔を見せてくれた。
欠点を責められないこと。
役に立てる場所があること。
それが、こんなにも人を救うのだと、私は知った。
政略婚約で始まった関係は、いつの間にか、確かな信頼へと変わっていた。
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