歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第4章

病室で

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 JRの駅を降りて、商店街の花屋で紋司郎から預かった花代でチューリップの花束を買った。そのまま公園を抜けて病院へと向かう。
 しばらく東京で緊急入院していた杜若だが、容態が安定してきたので、家のある大阪の病院へ移ってきたのだった。
 杜若には弟子がいない。奥さん一人で身の回りの世話をするのは大変だろうと、綾之助は早速お見舞いへ行くことにしたのだ。

「すまんなあ、綾之助さん。舞台見に行けんで」
 ベッドに横たわる杜若は、いつもの凛とした様子が消え失せて、年相応に老けて見えた。舌がもつれるようで、いつものはっきりした発声ではない。
「えらい評判良かったみたいやね」
「ありがとうございます。杜若さんの指導の賜物です」
「まあまあ、そりゃよかった」 
 にこにこと笑って杜若は言った。
「具合はいかがですか」
「そやねえ……まあ、あんまりええとは言えんわな」
「そうですか」
「今月は無理かなあ」
 ぽつり、と言ったことばがあまりに寂しそうで、綾之助は言葉もなかった。

 今月、杜若は文楽劇場で自主勉強会の公演を行う予定だった。この勉強会を準備するために杜若が数々の努力を重ねてきたことを綾之助もよく知っていた。特に大竹音右衛門を迎えての「梶原平三誉石切」は、現在全く演じられなくなった初代音右衛門の上方の型で行われる予定で、道具方から役者に至るまで、杜若は実現に向けて大変な折衝を重ねて来ていた。
「残念やなあ」
「本当に、残念です」
 気軽な慰めなどできなかった。また次がありますよ、などとも言えない。自主公演なんて、一度コケてしまえば、次の機会などないのだ。
「いろんな人に謝らなあかんのに、それもままならん。歯がゆいなあ」
 杜若はどの役者とも表立ったいざこざは起こさずやってきた、言うなれば気遣いの人だ。この状況がとても歯がゆいだろうことは綾之助にも分かる。
「……なにか、必要なものありませんか? うち、買うてきます」
 空気に耐え切れず、綾之助は話題を変えた。
「うーん」
 杜若はしばらく考えていた。
「あ! ラジオ! ラジオ買うてきて」
 杜若はにこにことして言った。
「今日、知八さんのラジオがあるでしょう。あれを聞かなあかん」
「ああ、あれ……」
 知八が真面目くさって様々な古典芸能を紹介する教養番組である。関係者やファンからすると、普段の茶目っ気ある知八とのギャップが非常に笑える。
「わかりました。待っててくださいね」
 
 病室を出て買い物に行く綾之助を、杜若の妻が病院のロビーまで見送ってくれた。
「ありがとうございます、綾之助さん」
「いえ、なにかお困りなことがあれば、なんでもおっしゃってください」
「お優しいわね、綾之助さんは」
「私は杜若さんに芸を教えていただいたのだから、身の回りのお世話をするくらいは当たり前のことですから」
「どうもありがとう」
「早く良くなるといいですね」
 綾之助がそう言うと、彼女はふと立ち止まり、綾之助の顔をじっと見ていった。
「杜若はもう、舞台には立てないかもしれません」
 もしかしたら、という思いもあったが、はっきりとそう言われて、綾之助はしばらく立ち尽くしていた。
 
 綾之助は電気屋に向かう道の途中で、紋司郎に電話した。
「杜若さんは、もう舞台に立てないかもしれないそうです」
 そう紋司郎に伝えながら、どこか綾之助は上の空だった。実感が湧かない。
 紋司郎は絶句していた。
「自主公演も中止されるようです」
「……そうか」
 紋司郎の声も落ち込んでいた。
「時間が空いたら私も見舞いに行かせてもらうから、くれぐれも杜若さんを頼んますで」
「はい」
 つい二ヶ月前に一緒に舞台に立っていた人が、もう舞台に立つことはないかもしれない。それはとても不思議な気持ちだった。
 
 その日から、綾之助は杜若の病室に日参した。
 杜若はよくしゃべった。芝居の話、昨日聞いたラジオの話。
 少し回りにくい口を一生懸命動かしてしゃべっているのは、もしかすると彼なりのリハビリだったのかもしれない。
 あんなに近寄りがたいと思っていた杜若だが、こうやってプライベートで話してみると、なかなか気さくな人だった。弟子でもないのに杜若の世話を焼く綾之助に、申し訳ないという気持ちもあるようだった。
「綾之助さん、そう毎日来んでええんよ。忙しいやろうに、申し訳ないわ」
「なにをおっしゃるんです。うちは杜若さんに芸を教えてもらったんやから、これくらいのことは当たり前です」
「やあ、ええ人に芸を教えといてよかったわあ」
 そう言って、杜若はにこにこと笑った。
「綾之助さんお借りしてるんやから、一度相模屋の旦那にはちゃんとご挨拶せなあかんねんけど」
「手が空いたらすぐにもお見舞いに来ると言うてはりました」
「そうかあ。それは申し訳ないなあ」
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