歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第4章

専務の一声

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「色々言われて困ってんねやろ」
 面白そうに言う専務がちょっぴりうらめしい。
 専務の執務室はなにわ筋に面した最上階にあり、広い道路から差し込む陽の光のおかげで開放的な雰囲気があった。しかし、綾之助の気分は晴れない。
「で、綾はもんしろはんと杜若さんのどっちにつくことにしたんや」
「決めかねております」
 正直に綾之助は言った。
 いきなり杜若の名を継いでやっていくのは相当しんどいやろうなと思う。しかし、杜若の言うことにも一理あった。こんなすごいチャンスが巡ってきたのに、みすみす逃してもいいものなのだろうか。
「決めかねておるんかー」
 うんうんと、専務は得心顔で頷いていた。
「ほんなら決まったな」
「…何がです?」
「井筒綾之助は、六代目として芳沢杜若を継ぐのや」
「え!」
 そんなことは一言も言っていない。
「綾ちゃん。考えてみ。普通はな、若い役者は『襲名なんてまだ無理です』て断るで。しかも自分の師が反対してんねや。絶対断る」
 厚かましさを咎められたと感じ、綾之助は恥じ入った。
「すみません」
「ちゃうちゃう! ええねん。つまり綾之助は、『うちやったら、芳沢杜若としてやってけるんちゃうかなー』という気持ちがあるんやろ。それはええことや。そのへんの役者にはなかなかない気概や。その気持ちがあればやっていける。心配いらん」
「しかし……」
「そんなしかし、とか言うてたら一生襲名できへんで」
「ほんまに、私が、芳沢杜若に……?」
「綾。これからもっと、いろんなことがある。今までも腹の立つことはなんぼでもあったやろけど、もしかしたら、そんなことがもっともっと増えるかもしれん。せやけど、拗ねずに精進してたら、見てる人は見てくれてはるから。俺が六代目芳沢杜若に求めるのはそれだけや。どうかまっすぐ、真面目に芸道に励んでください」
 強引な人やなあ、と綾之助は思った。しかし、それくらいしてもらわないと、思い切れないのも本当で、綾之助の気持ちをよく理解した上での行動なのかもしれなかった。

「あの人もほんまに困った人やわあ」
 紋司郎はまた怒っていた。
 専務は、自分が押し切った形で綾之助の芳沢杜若の襲名を決めたと紋司郎に説明してくれたらしく、綾之助が(結果的に)紋司郎の意向に背いたことはバレていなかった。
「苦労すんで、綾。かわいそうやわ」
 紋司郎ははぁっと大きく息をついた。
 苦労することは綾之助も理解しているのだが、まだあまり実感が湧かない。一つでも間違いがあれば後々まで口悪しく言われるだろうことも分かっているのだが、襲名の準備というのも、どこから手をつけたらいいか分からない。
 今の綾之助は完全に、紋司郎と杜若からの指示待ちだった。
「綾之助さん。葦嶋拓真さんに相談してみなさい」
「はあ……?」
 要領を得ないまま返事をしたら、紋司郎にため息を吐かれた。
「あの人に、芳沢杜若の後援会に入る気はないか聞いてみなはれ」
「え、ええ!」
 それはありえないことだ。普通ご贔屓さんというのは、ずっと同じ役者を贔屓にするものだ。役者側の代が代わっても、贔屓側の代が代わっても、葦嶋家はずっと相模屋の贔屓。拓真は相模屋の贔屓にならなければならない。
「あの人、喜ばはるんちゃうか」
「旦那。それはできません」
 紋司郎だけの問題じゃない。今後の相模屋にも関わる大問題だ。いくら師匠の命令といえども聞けるものではなかった。
「私がいいと言うてるんやからええんです」
 紋司郎の態度は頑なだった。
「襲名言うたらお金かかるんやで。それともあなた、お金のアテでもありますの」
「それは、ありませんが……」
「引き受けてくれはるかどうかは別として、襲名することはあなたの口から拓真さんに言うといた方がいい。一度お会いしなさい」
 綾之助は返事できなかった。綾之助にはとても拓真を呼び出すなんてことはできない。なぜなら、綾之助は拓真に「もう二人きりでは会いません」と断っているからだ。
 師匠にせっつかれてものらりくらりとかわしているうちに三月は終わり、紋司郎と綾之助は東京での公演のため大阪を旅立った。
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