歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第5章

変わる環境

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「全然大丈夫やったやろ」
 大竹宗家からの帰り道、紋司郎が綾之助の肩をぽんと叩いていった。
「はい」
「兄さん、三也さんのこと、心配なんやろなあ」
「はあ…」
「ええなあ。あんたの襲名披露、すんごい豪華やで。大竹宗家と井筒宗家が出るねんで」
「胃が痛くなってきました」
 綾之助がそう言うと、紋司郎は声を上げて笑った。





 挨拶回りも大事だが、今月の芝居にも真剣に取り組まなければならない。しかし正直、今月は劇場に出勤するのがとても気が重かった。
 今月綾之助は他の名題役者と同室の四人部屋であり、うち三人がなんの因果か和泉屋の弟子である。
 絶対部屋割りがおかしい。

 いや、分かっている。人数の関係でこうなっただけで、別にこの部屋割り自体には悪意はない。多分。
「綾之助さん、ご襲名の内定、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 きれいな笑顔で彼らは口々にお祝いを言う。
「いいですねえ。専務に私のこともよろしく言っておいてくださいね」
 完全な嫌味だが、なんとも返事のしようがない。
「でも、綾之助さん、杜若さんとは縁が薄いから、立花屋さんの芸を継ぐっていうのは大変でしょう? 頑張ってくださいね」
 杜若の血筋でもなく弟子筋でもないくせに襲名しやがって、という意味である。
 言いたいことあったらはっきり言え、と本音を美徳とする奈良人の血が騒いだ。しかしそういうことが許される世界ではない。
「はい。ありがとうございます」
 白痴にでもなったつもりで、屈託なく笑ってみせるくらいがせいぜいの意趣返しだった。

「綾之助さん、ちょっと」
 部屋の入口の暖簾のあいだから顔を出したのは、綾之助とほぼ同時期に杜若に入門した井筒紋乃である。
 この部屋に長々といてもストレスが溜まるだけなので、綾之助はいそいそと紋乃に付いて部屋を出た。
「どないしたん」
 自販機でコーヒーを買って、あまり人が来ないスペースまで来た。紋乃はコーヒーをちびちび飲みながら、いつまでも黙り込んでいる。
「うちもそろそろ準備しなあかんねんけど……」
 時間を気にして綾之助がそわそわしだしたところで、紋乃が切り出した。
「綾之。お前には先に言うとこうと思って。俺な、お前の襲名披露が終わったら、役者辞める」
「え! なんで?」
「うーん。そろそろ潮時なんやろなと思て」
 そう言う紋乃の顔は穏やかだった。
「俺な、今年も旦那に名題昇進試験の推薦貰われへんかった」
「そうか……。でも、別にまだ、そう急ぐこともないんちゃうか。うちらの年で名題下なんてそう珍しいことでもないし」
「まあな。でもお前が言うとちょっと嫌味やで」
 言われて綾之助は押し黙った。
「さすがに十年以上やってきたら、自分の技倆も分かる。このまま続けても先はない。それは、ほんまはずっと前から分かってたことやけど、でも俺は芝居が好きやから。でもお前の幹部昇進が決まって思ったんや。俺はこれからお前を妬まんとやっていけるんかなって。腐らんとやってけるかなって。お前の実力はよう分かってるし、変な感情持ちたくない。でも、やっぱり、思うやろ……。なんでこんなに違うんやろって」
 綾之助は息が詰まって、喘ぐように小さな声で言った。
「うちは運が良かっただけで、紋乃かて、いつかは」
「ええねん。さっきも言ったけど自分の実力も、お前の実力も俺はよう分かってる。勘違いすんなや。俺はお前が芳沢杜若になるのうれしいねんで。ずっと一緒にやってきたんや。辛い修行を一緒に乗り越えてきた仲間が幹部になるんやから。ただ、そのきれいな気持ちを持ち続けたまま、役者を続けるのは無理や」
「なんで?」
 綾之助は、一人置いてかれるような気がして、すがってでも引き止めたくなった。
「分かってくれ」
 紋乃は微笑みさえ浮かべて綾之助に言った。
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