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第4章
その2
しおりを挟む隼は二日前、学問所には出掛けていなかった。学問所は元々毎日あるわけでない。月に六日か七日、開いていない日がある。通ってくる子供は商家の子息が多いので、繁忙期なども考慮した思いがけない休日もあった。
長屋の部屋で休息を取っていることもあったが、隼は紫音には休みだとは告げず、学問所に行くふりをして外出するのが常だった。二日前もそうだった。出かける先はいつも決まっている。隼のこの行動の理由は、一年前、佳乃が自死したその日に遡る。
「どうして……どうしてこんなことにっ!?」
既に人の温もりを無くした愛妻を胸に抱き、隼は泣き叫ぶ。何が何だがわからない。混乱する隼の元に、急ぎ廊下を駆ける足音が迫って来た。
「隼っ! 佳乃さんは……あ……」
聞き覚えのある声の方に隼は顔を向ける。そこには、城から駆け付けたであろう一条要の姿があった。
「おまえ……何の用だ。いや、なんでここに来た」
「それは……」
「要、何か知ってるのか? 佳乃と何かあったのかっ!?」
隼は我を忘れて立ち上がり、要の襟元を掴むと鬼気迫る勢いで捩じり上げる。
「待て、私はなにも……おまえが慌てて帰ったと聞いて……」
「嘘をつけ! そんなことでおまえがここまで来るものかっ! ホントのことを言えっ」
詰め寄る隼にぎりぎりと襟を捩じられるが、要はぐっと口を一文字にし歯を食いしばる。隼が血気ばって殴ってきても甘んじて受けるつもりのようにも見える。一触即発の場面だ。見かねた隼に仕える家人が割って入った。
「隼様。落ち着いてください。奥様の前でそのようなこと……」
「しかしっ! こいつは……」
後ろから引き離されそうになり踏ん張る隼。
――――はっ!
が、突然目を見張ると、力が抜けたようにされるがままになってしまった。
「隼君……」
要の背後に、見知った顔があった。佳乃の父、橘藤十郎その人だ。隼はその場で音を立てて膝を折った。そして、無言のまま頭を下げる。橘の登場に驚いた要も部屋の端に寄り、同じように膝を折って頭を下げた。
「一体、どういうことだ。これは……返答によっては、ここで貴様を切り捨てるっ」
愛娘が突然自らの命を絶ったのだ。その驚きと無念、憤りは想像に難くない。そして、この責任は夫である隼にあると考えて当然だろう。
「申し訳ございません……ですが……私には何も答えることは出来ません……」
隼は力なく応じるしかなかった。ここで切り捨ててもらっても構わないとすら思った。
「一条君、まさか君が関係しているのではないだろうな」
橘藤十郎は、婿の後頭部を一瞥し、隅にいた要の方に目を向けた。
「い……いえ、私は城で異変を耳にし、何事があったのかと……」
歯切れは悪いが、真っすぐに目を向け嘘を言ってるようでもない。藤十郎は無言で佳乃が寝かされている床へと近づき跪く。
「このようなこと……綾になんと伝えれば良いか……」
綾とは佳乃の母、藤十郎の妻の名だ。城内にいた藤十郎も、篠宮家の異変を聞き、ここに駆けつけたのだろう。変わり果てた娘の額に手をやり、乱れた髪を直す仕草をする。涙がこぼれそうになるのをぐっと我慢しているようだ。
襖の向こうで、子供のころから佳乃の世話をしてきた侍女が耐えきれず呻き声を漏らす。隼はただ、じっとその様子を体全体で捉えていた。寸分も動くことなく、土下座したまま。それでも両の眼から涙が流れるのを止めることが出来なかった。
「一度、屋敷に戻る」
そう一言告げると、そのまま廊下へと出て、音を立てずに去って行く。家老としての威厳を保つことも忘れて、とぼとぼと去って行く様子がここにいる全ての者の心を打つ。それは隼も同じだった。
隼は顔を上げ、佳乃の傍ににじり寄る。そしてもう一度、その手を握った。彼を襲った衝撃の嵐はまだ心の内で暴れまわっている。手の冷たさがさらにそれに拍車をかける。
――――なぜだ……何故、逝ってしまったんだ。佳乃……。
藤十郎と同様、人目を気にする余裕はどこにもなかった。要がいたのも忘れ、隼は嗚咽に塗れた。
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