御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒

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第6章 千尋の元カレ

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律さんは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。

けれどすぐに優しい笑顔を浮かべて、私の手を取った。

「ありがとう、千尋。」

その言葉に、こっちこそありがとうって思う。疑わないで、信じてくれて。

「俺、信じてるから。千尋が選んでくれるって。」

「……うん。」

温かい手に包まれながら、私は小さく頷いた。

心の中でそっと、10年分の過去に別れを告げた。

そして、二人で「いってらっしゃい」のキスを交わす。

今日こそ、けじめをつける。そう心に誓って、私は家を出た。

案の定、定時に仕事を終えてオフィスビルを出ると、そこに悠太がいた。

街灯の下、スーツ姿の彼が少しだけ不安そうに立っている。

「悠太。」私は自分から声をかけた。

彼は驚いたように私を見たが、すぐに優しく頷いた。

「ちょい飲みでも行くか。」

そんなふうに誘われて、私たちは昔よく行っていた立ち飲み屋へ向かった。

暖簾をくぐった瞬間、焼き鳥の匂いと懐かしい昭和歌謡が迎えてくれる。

私たちは自然と、あの頃いつも座っていたカウンターの隅に席を構えた。

「とりあえずビールで。」

悠太がそう言って、二人分のジョッキが置かれる。

私はほとんど無意識のまま、その冷たい泡をひと口で飲み干した。

グラスを置いて、私はまっすぐに彼を見た。

「悠太。私ね——」

一瞬、言葉が詰まりかけた。でも逃げなかった。もう、逃げたくなかった。

「律さんのことが、どうしようもなく好きなの。」

言った瞬間、胸の奥がひりついた。けれどそれは、痛みではなかった。

覚悟を決めたときの、あの、心に灯る小さな灯りのような。

悠太は黙っていた。口を開こうとして、また閉じて。やがて、小さく笑った。

「最初は、交際しないで結婚なんて、冗談もたいがいにしてよって思ったけれど。律さんの説明に納得したから、結婚したの。」

私がそう言うと、悠太は「ふーん」と静かに相槌を打った。

否定するでもなく、肯定するでもなく。ただ、少しだけ目を伏せた。

「結婚してから、恋愛しようって言われたの。それで、実際、恋愛してる。律さんと。」

悠太はその言葉に、少しだけ視線をあげた。

何か言いたげだったけど、代わりにビールのグラスに手を伸ばした。

ゆっくり、丁寧に喉を潤すように飲む。

その姿が、まるで——

この一杯で、私との時間が終わるのを知っている人のようだった。

ジョッキの底が見えると、彼は空を見つめたまま小さく笑った。

「そうか……ちゃんと恋してるんだな、千尋。」

私は頷いた。しっかりと、はっきりと。

悠太はグラスを置き、しばらく黙ってから言った。

「俺この前さ。千尋の旦那さんに会った時、奥さんが目の前で他の男とキスしようとしている時に、止めに入れるってすごいなって思った。」

「えっ?」

思わず問い返すと、悠太は目を細めて笑った。
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