夫のつとめ

藤谷 郁

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先に帰った壮二

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「でも、今そんなことを考えても仕方ないわ。それぞれがやるべき仕事を、まっとうするだけ」

 社長室に行くと、利希が帰り支度をしていた。

「ん?」

 退社時間には社長室にいるはずの壮二が見当たらない。

「壮二なら先に帰ったぞ」
「えっ、先に?」

 希美が驚くと、利希は肩をすくめた。

「あいつだって、たまには用事があるだろう」
「でも、何も言わずに帰るなんて」

 壮二が無断で帰ることなど、これまでなかった。

「さっきまでお前を待ってたんだがな、時間を気にしてたから俺が帰したんだ」
「そ、そうなんだ」

(でも、会議の前に顔を合わせた時、なにも言わなかった。用事があるなんて……)

 希美はふと、この前感じた不安を思い出す。
 政略結婚の申し入れを知った時、壮二はおかしかった。目を逸らし、何も言ってくれず、感情を失ったようにすら見えた。

 あれ以来、彼は黙々と仕事をし、プライベートでもグラットンのグの字も出ない。
 社長が申し入れを断れば、もう済んだことになるのだろうか。
 何を考えているのか、よく、分からない。まるで、知らない男になってしまったように感じる。

(一体、どうしちゃったの……って、追及したいけど)

 わざわざ嫌な話題を持ち出して困らせたくない。婚約者が他の男からプロポーズされるなんて、男にとって屈辱だ。
 しかも、相手は大企業の社長。壮二がわだかまりを持つ、南村壮太である。



「これから先、忙しくなるぞ。人のことは言えんが、お前も体調管理はしっかりやっとけよ」

 車の中で、利希が話しかけてきた。希美は「はい」と短く返事をし、少しためらってから、気になっていることを尋ねた。

「あの、お父様。私と壮二の結婚だけど、延期したほうがいいのかしら」
「なんでだ?」
「会社がこんな時に結婚なんて、のんきな気がして」

 利希はきょとんとし、そして笑った。

「お前らしくもないことを。会社がこんな時だからこそ、めでたい気分になりたいじゃないか」
「お父様……」

 街明りが車内を照らす。利希が目尻に皺を浮かべ、希美を見つめた。

「お前と壮二は結婚して夫婦になるんだ。オッサン社長なんぞ入り込む隙はないんだぞって、見せつけてやれ」
「ま……」

 利希の言い草に、希美は思わず噴き出す。

「そうね。ふふ……私としたことが、弱気になってるわ」
「まったくだ。プライドが高くて、気が強くて、怖いもんなし。いつものお前でいてくれよ。ノルテフーズの後継者なんだから」

 父親らしいエールが嬉しくて、泣きそうになる。希美は思わず目を伏せ、左手薬指に光るペアリングを見つめた。
 ダイヤモンドの婚約指輪は宝飾店にオーダー済みである。結納式で贈られる予定だが、早くあの指輪を着けたいと切実に思った。

「壮二はお前を幸せにする。俺とお母さんは意地を張って喧嘩ばかりだったが、お前たちは素直に気持ちを伝えろ。お互いを信じて……」
「はい、お父様」

 希美は指輪をそっと撫でた。
 でも、相手の気持ちを思うからこそ、素直に伝えられない。

 彼を信じてるけど……

 これまでと違う壮二の態度が、女王様だったはずの希美を萎縮させていた。
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