夫のつとめ

藤谷 郁

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夢と現実

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 翌朝。
 希美は朝食の席で、南村社長の申し入れを受けると、利希に告げた。
 麗子は声も出せず、青い顔で見守っている。

「条件を呑む代わりに、買収に関する約束をきっちり守ってくださるよう、私が直接お願いしてきます」
「な、何だって」

 さすがの利希も、娘の決意に圧倒され、声をうわずらせた。

「グラットンの社長に、お前が返事をしに行くと言うのか」
「はい。手紙ではらちがあかないので、ご挨拶かたがた伺うことにしました」

 希美はナフキンで口もとを拭うと、椅子を立った。昨夜泣きはらした目が赤くなっている。

「それと、お父様」

 ダイニングを出る前に、希美は振り返って父にそれを頼んだ。

「壮二のご両親には、私が後ほどお詫びに参りますが、先にお父様から事情を伝えておいてください。次の日曜日に予定していた結納式はもちろん中止。結婚式場も私がキャンセルしておきます」
「あ……ああ。だが希美、肝心の壮二は……」
「旦那様、会社の人事部の方からお電話でございます」

 武子が電話機を運んできた。利希は、入れ違いに出て行こうとする希美を引き止めてから応答した。

「ああ、人事部長か。朝早くどうしたんだ……えっ?」

 電話を切ったあと、利希は大きなため息をついた。希美には、どんな用件だったのか聞かなくてもわかる気がした。

「南村壮二が、退職届を出したそうだ」
「ええっ!?」

 麗子が声を上げ、信じられないという顔で娘を見た。

「承知しました。では、本日の秘書業務は、第二秘書の臼井さんに引継ぎしておきます」

 事務的に答えると、希美はさっさとダイニングをあとにする。
 一つ所に留まっていると、気が変になりそうだった。



「お嬢様、お気を付けて行ってらっしゃいませ」

 身支度を整えた希美を、武子が玄関まで送り出した。
 利希は迎えに来た臼井の車に乗り、一足先に家を出ている。

「お母様は?」
「それが……お部屋にこもられてしまって」

 繊細な母にはこの状況は受け入れがたく、耐えられないのだ。娘が会社のために政略結婚。しかも相手は、親子ほど年の離れたコワモテ男である。

「しょうがないわね。あとでアップルティーでも入れてあげて」
「そういたします」

 パンプスを穿くと、希美は姿見に全身を映した。
 腫れぼったい目はメイクでカバーした。髪はきっちりと結い上げ、服装もいつもどおりグレイのスーツ。ハゲ親父に会うために、お洒落する必要などない。

「じゃあ、行ってきます」
「あの、お嬢様」

 武子が呼び止めるが、希美は後ろを向かなかった。

「ねえ、武子さん……今日はとっても疲れると思う。帰ったら、またあのラーメン作ってくれる?」
「もっ、もちろんでございます」
「ありがとう」

 前を向いたまま片手を振り、希美は歩き出す。
 呼んでおいたタクシーに乗ると、シートに身体を預けて目を閉じた。


「さてと……」

 気持ちが少し落ち着くと、希美はスマホを取り出し、グラットン本社に電話した。
 秘書室直通の電話番号を前もって知らされている。対応したのは社長秘書の男性だった。
 午前9時にアポが取れた。急な訪問にも関わらず朝一で予定を空けるとは、向こうも気合いが入っている。
 
 グラットン本社ビルへと車を走らせながら、今度は臼井秘書に電話してスケジュールの打ち合わせをした。
 通話を切った希美は、少しうつむきかげんになる。
 臼井の背後で、朝の仕事に追われる秘書課員たちの声や、電話の音がしていた。

 今のところ、社内では一部の人間しか政略結婚のことを知らない。壮二の退職が伝わるのも、まだこれからだ。
 皆、驚くだろう。
 とてつもなく大きな変化と、ありえない展開に。

「感傷的になってはダメ。しっかりしなくちゃ」
 
 ここからは独りの闘いだ。付き添う者は誰もいない。いつも傍で支えてくれた彼は、もういないのだから――

 深呼吸を一つして、顔を上げた。
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