フローライト

藤谷 郁

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宇宙の中で

3

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朝から冷たい雨が降っている。

彩子は出かける準備をすると、玄関の上がり框に腰掛けて良樹を待った。

今日は2月14日。彼と映画を観に行く約束をしている。そして、初めてのバレンタインでもある。

彩子はこれまで男の子にチョコレートを渡した経験がない。

中学時代は学校にチョコレートを持って行くのを禁止されていて、それを素直に守っていた。佐伯の家まで直接行こうと考えたが、結局踏ん切りがつかず、ハート型のチョコレートは弟の真二に食べてもらった。


昔のことをつらつら考えていると、インターホンが鳴る。


「クラクションしてくれたら、車まで行くのに」


玄関ポーチまで来て傘を差しかける良樹の肩が、雨に濡れている。


「そんなわけにはいかないよ」


彼らしい返事だった。


「しかし、ひどい降りだな」


良樹が暗い空を見上げ、ふっと息をつく。フロントガラスに流れる雨をワイパーが拭うが、追いつかないほどだ。

郊外の大型ショッピングセンターに着くと、併設される映画館へと歩いた。


今日は北欧の伝説を元に制作されたアクションファンタジーを観る予定である。前評判が良く、ずっと気になっていた映画だ。


「良樹も本当にこの映画でいいの?」

「いいよ。アクション物は好きだ」


劇場に入り、椅子に並んで座る。客層は若者が多いようだ。


「映画なんて久しぶり」


彩子が笑うと、良樹も笑みを浮かべる。

ライトが落とされ、宣伝や予告編が終わると本編が始まった。

映画はダイナミックかつ凄惨で、残酷な表現が何度か挿まれていた。CG技術が向上するのはいいが、むごい場面もリアルなので驚いてしまう。

彩子は最初のうちは耐えたが、繰り返される残酷な場面に胸が苦しくなり、外に出たくなった。

良樹を見ると、シートにもたれ落ち着いて観ている。彩子は思わず彼の手を取り、ぎゅっと握りしめた。

良樹は少し驚いた顔で、心細そうな彩子の耳元に、


「平気か」


と、短く訊いた。

彩子は黙ってうんうんと頷き、それからすぐに手を離すと、まっすぐに座り直す。今度は別の理由で、胸が苦しくなっていた。

映画が終わると、観客が座席を立ち始める。


「あー、ハラハラした……っていうか、キモかったー!」

「リアルすぎだよねえ」


後ろを歩く女性が感想を言い合うのを聞き、彩子もこくこくと頷く。まったく同感だった。


「彩子、怖かったんだな」


良樹が覗き込み、少し嬉しそうな顔で話しかける。


「思ったより過激だったから。年齢制限がないし、大丈夫と思ったんだけど……良樹は平気なの?」

「CGって丸分かりだからね」


そうだったかなと、彩子は首を傾げる。良樹とは映像を見る目が違うのだろうか。

それにしても――

彩子は映画と関係のないところで、ひそかにため息をつく。

良樹とは既に男女の関係であるのに、手に触れたり耳元で囁かれたりするだけで、なぜこんなに動揺するのか。

彼に対して敏感すぎて、本当に困ってしまう。


昼には少し早いので、ベーカリーショップで軽く食べることにした。


「そういえば、話そうと思ってたんだ」


良樹は結婚指輪について、彩子に教えた。


「えっ、雪村が?」


わざわざ良樹に連絡を取ったと聞いて、彩子は驚く。


「あの子、私には何も言わなかったよ」

「俺は嬉しかったな。直接俺に言ってくれたことが」

「……そっか」


クールに笑う雪村を目に浮かべた。考えてみれば、彼女らしい申し出だと思う。


「今度、お礼を言わなきゃね」

「そうだな。美那子さんにも文治先生にも」


良樹は言いながら、彩子の口の横に付いたクリームをナフキンで拭う。


「あ、ごめんなさい」

「ふふ……」


良樹は時々、こんな風に子ども扱いをする。彩子は照れ隠しに話題を変えた。


「友達と言えば、智子が……」

「赤ちゃんができた」


良樹が先に言うので、彩子は目を丸くする。


「知ってたの?」


「後藤が昨夜、電話してきたんだ。酔っ払ってたから冗談かと思ったけど、本当なんだな」

「そう。二人はお父さんとお母さんになるの」

「子どもか」


良樹は腕組みをして、何か考えている。

それを彩子は推測し、なぜか全身が熱くなってきて困った。頬が赤くなるのが自分でもわかり、ハンカチで隠したが無駄である。

彩子の挙動不審に良樹が気付き、じっと見ている。


「どうしたんだ」

「あ、暑いですねここは」

「リトマス試験紙みたいだな」

「うう……」

「何、考えてたんだ」


良樹は察したのか、呆れたように笑う。

彩子はひと言もない。

ますます赤くなる顔を俯かせ、もうどうしようもないほど良樹が大好きなのだと自覚した。




「そういえば、もうすぐ試合だね」

小雨になった街を眺めながら、良樹に話しかけた。

ここはN駅前の交差点。彼は車のハンドルを操作しながら返事をする。


「ああ、草野球か」

「調子はどうですか」

「まあまあかな。相手のピッチャーがどんなものか気になるな」


彩子は試合を見に行かないつもりだ。その理由はもちろん、佐伯が来るから。


「さて、今日はもう帰ろう。あちこち出歩いて身体を冷やすと、また風邪を引く」

「うん」


今日はこれでお別れ。

彩子はがっかりするが、良樹の言葉は的を射ている。少し寒気がするのだ。


「あの、これ置いときますね」


彩子はバッグからチョコレートの包みを取り出すと、後ろの席に置いた。


「えっ? ああ……今日はそうか」

「手作りじゃないですよ。そのかわり、お店で厳選してきました」

「厳選か。それは期待できそうだ」


良樹は彩子の言い方が可笑しかったのか、楽しそうである。



山辺家に着くと、ちょうど雨が上がった。

良樹は助手席へ体を向けて、彩子をじっと見つめる。


「……どうしたの?」

「いや、何でもない。別れを惜しんでるだけ」

「そ、そう」


彩子は目を泳がせた。なんということもなく良樹が言うので、戸惑ってしまう。


「彩子も来るだろ? 22日」


どきりとする。それは草野球の日だ。


「わ、私?」

「ああ。妙な気を使わないで、来るといい」


良樹はすべて分かっているのだ。彩子は肩の力を抜いて、小さく頷いた。


「ん……少しだけ覗くかもしれない」

「よし、じゃあまたな」

「今日はありがとう」


彩子は車を降りて、良樹の車が角を曲がるまで見送る。

物足りない気持ちでいっぱいだった。
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