一億円の花嫁

藤谷 郁

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十億円の花嫁

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「本当はあなたも分かってるはずです。悪いのは綾華。彼女は友達なんかじゃない。あなたを支配しているだけ。そうでしょう?」
「……」

 私を変えてくれたのは織人さん。自分を責めて、クヨクヨしてばかりの私に勇気を与えてくれた。
 どんなに嬉しかったか、わからない。

「私なんか……って、あなたは言うけれど、それは違います。私を支えてくれる温かな手、清潔なハンカチ、細やかな気遣い……何気ない所作から、たくさんの思いやりと優しさが伝わってきた。優しさというのは、高度な精神性の表れなんです。それはまぎれもなく、あなたの美点。自分の良さを見失わないで」
「そんな、私は……」

 自信なさげに首を振る。だけど、響くのが感じられた。彼女の心に。

「あなたにとって本当に大切な人たちを、思い出してください」

 声に熱がこもり、吐く息が白い。
 痩せた背中に、かつての自分が重なり、胸が締めつけられる。
 私は願った。届いて、届いてと、必死で。

「……の」
「えっ?」

 エミさんがゆっくりとこちらを向き、私を見つめた。

「私の一番大切な人は、父です。男手一つで、私を育ててくれました」
「……お父さん?」

 彼女はうなずき、しぼりだすように告白した。
 
「父はニシノ製薬の社員で、ここの工場長でした。取り立ててくれたのは西野社長です」
「……!」

 西野社長。綾華の父親である。
 私はもう、皆まで聞かずとも理解できた。
 なぜエミさんが綾華の言いなりになってきたのか。

「今は役員をしています。父は西野社長のおかげで出世し、だからこそ私も志望大学に行けたし、ずっと夢見ていた研究者になれたんです。私は……」

 よろめく彼女を、しっかりと支える。抱きしめたのは、無意識かつ自然な行為だった。
 か細く、消えてしまいそうな声が、耳に聞こえる。

「でも、ずっと苦しかった……父が工場長になったのは私が小学校低学年の頃で、自宅から遠かったけど、西野社長の推薦で綾華と同じ小学校に転校しました。クラスも同じで……4年生の春に父の海外赴任で引っ越すまで、ずっと……それからも、たびたび連絡が来て」
「エミさん、もういいの。あの子のやり方は知ってる」

 そう、綾華のやり方はいつも同じ。相手の弱みにつけ込み支配する。父親の威を借り、恩を売るのも常套手段だ。
 夏樹も莉央も、そうやって苦しめられた。

「エミさん、聞いて」

 まっすぐに目を合わせた。怯える瞳が、すがるように私を見つめる。

「お父さんに、ありのままを話すの。綾華にされたこと、どれだけ傷ついてきたのか、ぜんぶ」
「……あ、ありのまま」
「あなた自身のためにも、勇気を出して」

 大丈夫、分かってくれる。伝わる。
 夏樹も、莉央も、私だって変われた。

「綾華は普通の状態じゃない。この仕事が終わったらあなたを処分すると言ってた」
「えっ……」

 エミさんがますます青ざめる。

「だから、きっぱりと縁を切って、大切な人と向き合……」
「おい、何モタモタしてんだよっ!!」

 ドアを叩く音に驚き、エミさんが跳び上がった。そして、私からパッと離れる。

「ごめんなさい。私、どうかしていました」
「エミさん?」
「無理です。綾華に逆らうなんて、私にはできない……たとえ殺されても、父のためにもそんなこと」
「エミさん、違います。お父さんを思えばこそ……」
「やめて、お願い」

 私の手を振り払い、ドアを開けた。

「ったく、遅えんだよ。ボケが!」

 ニット帽がイライラした様子で立っていた。冷たい廊下に、怒鳴り声が反響する。

「す、すみません。あの、私もついでに用を足してたので」
「もういいよ、とにかく寒くてしょうがねえ。早く行くぞコラ!」

 ニット帽に急かされ、建物を出た。
 さっきと同じように、私とエミさんが並んで歩く。
 雪が降り続いている。
 彼女はもう、私の手を取らなかった。
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