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旅の終わり
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由比さんはキスのあと、私を強く抱きしめた。
他に誰もいない、二人きりの世界。この温もりも、ときめきも、夢じゃない。
王子様に愛を告げられ、初めてのキスをして、本当にもう、死んでもいいと思った。
『……奈々子』
耳元で、囁くように名前を呼ばれ、その瞬間、甘美な予感に包まれた。
昨日、初めて彼を見た時、妄想したこと。
一生に一度、ロマンス小説のような恋愛ができたら――例えば、彼のような人と。一夜限りでもいいから、忘れられない経験をこの身に刻んで――
胸の鼓動が激しくなる。
一夜限りでもいい。
もし、彼に求められたなら、私は……
『急がなければ』
『……?』
由比さんがつぶやき、私の体を、そっと離した。さっきまで赤かった彼の顔が、素の色に戻っている。
『こうしてはいられない。帰りましょう』
『えっ? ゆ、由比さん?』
私の手を取り、ゴンドラ乗り場に向かって歩き出した。わけが分からず、ものも言えずに付いて行くのみ。
それから二人は山を下りて、スキー場をあとにした。
車の中で、彼は黙っていた。私のことなど忘れたかのように前だけを見つめ、雪道を走る。
(由比さん……どうして?)
突然、夢から現実に連れ戻された。理由を訊きたくても、彼の横顔は怖いくらいに真剣で、声をかけられる雰囲気ではなく。
無言のうちに、車はホテルに到着。
ロータリーに入ると、すぐに玄関から関根さんと総支配人が出てくるのが見えた。帰ってくるのを、ずっと待っていたのだろうか。
『大月さん』
ビクッとして、由比さんを見る。整った目鼻立ちが、なぜかとても冷たいものに映った。
『大事な仕事ができた。あなたは降りてください』
彼の表情からは、山の上で見せたような、甘さも情熱も消えている。私はもう、降りるしかないのだ。
『分かりました。あの……今日は、ありがとうございました。楽しかったです』
『こちらこそ』
にこりと微笑む。しかしそれも一瞬で、助手席のドアが開いたとたん、厳しい表情にすりかわった。
『大月様、お帰りなさいませ。CEOも、お疲れ様でございます』
総支配人がドアを開けたのだ。横から関根さんが顔を覗かせ、『ご無事でなによりです』と、ホッとしたように言う。
もしかしたら、このままお別れなのだろうか。
あまりにも突然の、あまりにもあっさりとした幕引きに、気持ちがついていかない、唇には、まだ彼の温もりが残っている。
『車は私が移動させますので、CEOもホテルにお入りください』
私が降りると、総支配人が助手席のドアを閉めて運転席に回ろうとした。しかし由比さんは動かず、窓を下げて彼に告げた。
『いや、私はこのまま東京に戻る』
総支配人、そして関根さんも驚いた様子になるが、由比さんは構わずハンドルを握り、車を発進させた。
『ちよ、ちょっとお待ちください。明日は福岡に出張のご予定ですよ! スケジュール調整は……ああ、もう、おぼっちゃまあ~!!』
総支配人が叫びながら追いかけるが、車はクラクションを鳴らし、あっという間に、夜の中へ消えてしまった。
『まったくもう、勝手な振る舞いばかり……関根さん、大月様をお部屋にお送りして。私が本社チームに連絡します』
『分かりました』
総支配人がスマホを取り出すのを見て、関根さんが私に向き直った。
『慌ただしくて申しわけございません……大月様?』
私は、呆然としていた。
長い夢から目覚めたように、現実感がなくて、ふらふらする。
『だ、大丈夫ですか? しっかりなさってください』
関根さんに支えられて、玄関に入った。どこをどう通って部屋に辿り着いたのか覚えがない。
ただ、部屋で一人きりになった時、涙がこぼれた。由比さんが……王子様が去ってしまったのだと理解して。
『やっぱり、夢だったんだ』
自覚するよりずっと、私は消耗していた。ベッドに倒れ込むと、しばらく泣いていたけれど、じきに眠った。
夢の中で、12時の鐘が聞こえた。
他に誰もいない、二人きりの世界。この温もりも、ときめきも、夢じゃない。
王子様に愛を告げられ、初めてのキスをして、本当にもう、死んでもいいと思った。
『……奈々子』
耳元で、囁くように名前を呼ばれ、その瞬間、甘美な予感に包まれた。
昨日、初めて彼を見た時、妄想したこと。
一生に一度、ロマンス小説のような恋愛ができたら――例えば、彼のような人と。一夜限りでもいいから、忘れられない経験をこの身に刻んで――
胸の鼓動が激しくなる。
一夜限りでもいい。
もし、彼に求められたなら、私は……
『急がなければ』
『……?』
由比さんがつぶやき、私の体を、そっと離した。さっきまで赤かった彼の顔が、素の色に戻っている。
『こうしてはいられない。帰りましょう』
『えっ? ゆ、由比さん?』
私の手を取り、ゴンドラ乗り場に向かって歩き出した。わけが分からず、ものも言えずに付いて行くのみ。
それから二人は山を下りて、スキー場をあとにした。
車の中で、彼は黙っていた。私のことなど忘れたかのように前だけを見つめ、雪道を走る。
(由比さん……どうして?)
突然、夢から現実に連れ戻された。理由を訊きたくても、彼の横顔は怖いくらいに真剣で、声をかけられる雰囲気ではなく。
無言のうちに、車はホテルに到着。
ロータリーに入ると、すぐに玄関から関根さんと総支配人が出てくるのが見えた。帰ってくるのを、ずっと待っていたのだろうか。
『大月さん』
ビクッとして、由比さんを見る。整った目鼻立ちが、なぜかとても冷たいものに映った。
『大事な仕事ができた。あなたは降りてください』
彼の表情からは、山の上で見せたような、甘さも情熱も消えている。私はもう、降りるしかないのだ。
『分かりました。あの……今日は、ありがとうございました。楽しかったです』
『こちらこそ』
にこりと微笑む。しかしそれも一瞬で、助手席のドアが開いたとたん、厳しい表情にすりかわった。
『大月様、お帰りなさいませ。CEOも、お疲れ様でございます』
総支配人がドアを開けたのだ。横から関根さんが顔を覗かせ、『ご無事でなによりです』と、ホッとしたように言う。
もしかしたら、このままお別れなのだろうか。
あまりにも突然の、あまりにもあっさりとした幕引きに、気持ちがついていかない、唇には、まだ彼の温もりが残っている。
『車は私が移動させますので、CEOもホテルにお入りください』
私が降りると、総支配人が助手席のドアを閉めて運転席に回ろうとした。しかし由比さんは動かず、窓を下げて彼に告げた。
『いや、私はこのまま東京に戻る』
総支配人、そして関根さんも驚いた様子になるが、由比さんは構わずハンドルを握り、車を発進させた。
『ちよ、ちょっとお待ちください。明日は福岡に出張のご予定ですよ! スケジュール調整は……ああ、もう、おぼっちゃまあ~!!』
総支配人が叫びながら追いかけるが、車はクラクションを鳴らし、あっという間に、夜の中へ消えてしまった。
『まったくもう、勝手な振る舞いばかり……関根さん、大月様をお部屋にお送りして。私が本社チームに連絡します』
『分かりました』
総支配人がスマホを取り出すのを見て、関根さんが私に向き直った。
『慌ただしくて申しわけございません……大月様?』
私は、呆然としていた。
長い夢から目覚めたように、現実感がなくて、ふらふらする。
『だ、大丈夫ですか? しっかりなさってください』
関根さんに支えられて、玄関に入った。どこをどう通って部屋に辿り着いたのか覚えがない。
ただ、部屋で一人きりになった時、涙がこぼれた。由比さんが……王子様が去ってしまったのだと理解して。
『やっぱり、夢だったんだ』
自覚するよりずっと、私は消耗していた。ベッドに倒れ込むと、しばらく泣いていたけれど、じきに眠った。
夢の中で、12時の鐘が聞こえた。
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