一億円の花嫁

藤谷 郁

文字の大きさ
26 / 198
旅の終わり

しおりを挟む
 由比さんはキスのあと、私を強く抱きしめた。
 他に誰もいない、二人きりの世界。この温もりも、ときめきも、夢じゃない。

 王子様に愛を告げられ、初めてのキスをして、本当にもう、死んでもいいと思った。

『……奈々子』

 耳元で、囁くように名前を呼ばれ、その瞬間、甘美な予感に包まれた。
 昨日、初めて彼を見た時、妄想したこと。
 

 一生に一度、ロマンス小説のような恋愛ができたら――例えば、彼のような人と。一夜限りでもいいから、忘れられない経験をこの身に刻んで――


 胸の鼓動が激しくなる。
 一夜限りでもいい。
 もし、彼に求められたなら、私は……

『急がなければ』
『……?』

 由比さんがつぶやき、私の体を、そっと離した。さっきまで赤かった彼の顔が、素の色に戻っている。

『こうしてはいられない。帰りましょう』
『えっ? ゆ、由比さん?』

 私の手を取り、ゴンドラ乗り場に向かって歩き出した。わけが分からず、ものも言えずに付いて行くのみ。

 それから二人は山を下りて、スキー場をあとにした。




 車の中で、彼は黙っていた。私のことなど忘れたかのように前だけを見つめ、雪道を走る。

(由比さん……どうして?)

 突然、夢から現実に連れ戻された。理由を訊きたくても、彼の横顔は怖いくらいに真剣で、声をかけられる雰囲気ではなく。

 無言のうちに、車はホテルに到着。

 ロータリーに入ると、すぐに玄関から関根さんと総支配人が出てくるのが見えた。帰ってくるのを、ずっと待っていたのだろうか。

『大月さん』

 ビクッとして、由比さんを見る。整った目鼻立ちが、なぜかとても冷たいものに映った。

『大事な仕事ができた。あなたは降りてください』

 彼の表情からは、山の上で見せたような、甘さも情熱も消えている。私はもう、降りるしかないのだ。

『分かりました。あの……今日は、ありがとうございました。楽しかったです』
『こちらこそ』

 にこりと微笑む。しかしそれも一瞬で、助手席のドアが開いたとたん、厳しい表情にすりかわった。

『大月様、お帰りなさいませ。CEOも、お疲れ様でございます』

 総支配人がドアを開けたのだ。横から関根さんが顔を覗かせ、『ご無事でなによりです』と、ホッとしたように言う。

 もしかしたら、このままお別れなのだろうか。

 あまりにも突然の、あまりにもあっさりとした幕引きに、気持ちがついていかない、唇には、まだ彼の温もりが残っている。

『車は私が移動させますので、CEOもホテルにお入りください』

 私が降りると、総支配人が助手席のドアを閉めて運転席に回ろうとした。しかし由比さんは動かず、窓を下げて彼に告げた。

『いや、私はこのまま東京に戻る』

 総支配人、そして関根さんも驚いた様子になるが、由比さんは構わずハンドルを握り、車を発進させた。

『ちよ、ちょっとお待ちください。明日は福岡に出張のご予定ですよ! スケジュール調整は……ああ、もう、おぼっちゃまあ~!!』

 総支配人が叫びながら追いかけるが、車はクラクションを鳴らし、あっという間に、夜の中へ消えてしまった。

『まったくもう、勝手な振る舞いばかり……関根さん、大月様をお部屋にお送りして。私が本社チームに連絡します』
『分かりました』

 総支配人がスマホを取り出すのを見て、関根さんが私に向き直った。

『慌ただしくて申しわけございません……大月様?』

 私は、呆然としていた。
 長い夢から目覚めたように、現実感がなくて、ふらふらする。

『だ、大丈夫ですか? しっかりなさってください』

 関根さんに支えられて、玄関に入った。どこをどう通って部屋に辿り着いたのか覚えがない。

 ただ、部屋で一人きりになった時、涙がこぼれた。由比さんが……王子様が去ってしまったのだと理解して。

『やっぱり、夢だったんだ』

 自覚するよりずっと、私は消耗していた。ベッドに倒れ込むと、しばらく泣いていたけれど、じきに眠った。

 夢の中で、12時の鐘が聞こえた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

わたしの愉快な旦那さん

川上桃園
恋愛
 あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。  あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。 「何かお探しですか」  その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。  店員のお兄さんを前にてんぱった私は。 「旦那さんが欲しいです……」  と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。 「どんな旦那さんをお望みですか」 「え、えっと……愉快な、旦那さん?」  そしてお兄さんは自分を指差した。 「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」  そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの

【完】ソレは、脱がさないで

Bu-cha
恋愛
エブリスタにて恋愛トレンドランキング2位 パッとしない私を少しだけ特別にしてくれるランジェリー。 ランジェリー会社で今日も私の胸を狙ってくる男がいる。 関連物語 『経理部の女王様が落ちた先には』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高4位 ベリーズカフェさんにて総合ランキング最高4位 2022年上半期ベリーズカフェ総合ランキング53位 2022年下半期ベリーズカフェ総合ランキング44位 『FUJIメゾン・ビビ~インターフォンを鳴らして~』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高11位 『わたしを見て 触って キスをして 恋をして』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高25位 『大きなアナタと小さなわたしのちっぽけなプライド』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高13位 『ムラムラムラモヤモヤモヤ今日も秘書は止まらない』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高32位 『“こだま”の森~FUJIメゾン・ビビ』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 17位 私の物語は全てがシリーズになっておりますが、どれを先に読んでも楽しめるかと思います。 伏線のようなものを回収していく物語ばかりなので、途中まではよく分からない内容となっております。 物語が進むにつれてその意味が分かっていくかと思います。

思い出のチョコレートエッグ

ライヒェル
恋愛
失恋傷心旅行に出た花音は、思い出の地、オランダでの出会いをきっかけに、ワーキングホリデー制度を利用し、ドイツの首都、ベルリンに1年限定で住むことを決意する。 慣れない海外生活に戸惑い、異国ならではの苦労もするが、やがて、日々の生活がリズムに乗り始めたころ、とてつもなく魅力的な男性と出会う。 秘密の多い彼との恋愛、彼を取り巻く複雑な人間関係、初めて経験するセレブの世界。 主人公、花音の人生パズルが、紆余曲折を経て、ついに最後のピースがぴったりはまり完成するまでを追う、胸キュン&溺愛系ラブストーリーです。 * ドイツ在住の作者がお届けする、ヨーロッパを舞台にした、喜怒哀楽満載のラブストーリー。 * 外国での生活や、外国人との恋愛の様子をリアルに感じて、主人公の日々を間近に見ているような気分になれる内容となっています。 * 実在する場所と人物を一部モデルにした、リアリティ感の溢れる長編小説です。

隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される

永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】 「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。 しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――? 肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛

ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。 そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う これが桂木廉也との出会いである。 廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。 みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。 以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。 二人の恋の行方は……

Destiny

藤谷 郁
恋愛
夏目梨乃は入社2年目の会社員。密かに想いを寄せる人がいる。 親切で優しい彼に癒される毎日だけど、不器用で自信もない梨乃には、気持ちを伝えるなんて夢のまた夢。 そんなある日、まさに夢のような出来事が起きて… ※他サイトにも掲載

You Could Be Mine ぱーとに【改訂版】

てらだりょう
恋愛
高身長・イケメン・優しくてあたしを溺愛する彼氏はなんだかんだ優しいだんなさまへ進化。 変態度も進化して一筋縄ではいかない新婚生活は甘く・・・はない! 恋人から夫婦になった尊とあたし、そして未来の家族。あたしたちを待つ未来の家族とはいったい?? You Could Be Mine【改訂版】の第2部です。 ↑後半戦になりますので前半戦からご覧いただけるとよりニヤニヤ出来るので是非どうぞ! ※ぱーといちに引き続き昔の作品のため、現在の状況にそぐわない表現などございますが、設定等そのまま使用しているためご理解の上お読みいただけますと幸いです。

処理中です...