先生

藤谷 郁

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乾杯

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「前にも頼んだことだけど……君を、描かせてほしいんだ」

「ああ……」


何ごとかと思い、身構えてしまった。

別段驚くことではない。一旦立ち消えになったモデル話を、再度依頼されただけだ。


「はい。もちろん、いいですよ」


秀一さんのほっとした様子が少し気になるけれど、断る理由はない。


「そうか、いいのか」

「はい」

「本当に?」


何度も念を押されて、さすがに疑問が湧く。


「あの……何かあったんですか?」

「う、うん」


彼は椅子の上できちっと座り直した。


「実は、前回君を描くのをやめた理由は、完成した絵をベアが買い取るつもりだと聞いたからなんだ」

「えっ、ベアが?」

「ああ。道彦さんから聞き出した。だから描くのを止めてしまったんだよ」


なるほどと納得する。

再び描くことにしたのは、秀一さんがベアトリスと和解したからだ。


――ノエルに依頼する最初の仕事は、君にも関係があるらしい。


マルセルの言葉の意味が、これではっきりとした。


「私の肖像画が、エトワール画廊との取引第一作目になるのですね」


秀一さんはうなずくが、冴えない顔になった。


「うん、確かにそのとおりだ。ベアと約束はしたが……」

「?」


どうしたんだろう。何か問題があるのだろうか。

心配になって顔を覗き込むと、秀一さんはふうっと息をついた。



「黙っていても仕方ない。はっきり言おう」

「えっ、何がですか?」

「そのほうがいい。たとえ断られてもスッキリする」


何を言っているのかさっぱりわからない。絵のモデルなら、先ほど快諾したのに。


「薫」

「はい」

「実は、君に頼みたいのはヌードモデルだ。裸婦を描くつもりでいる」


(ヌード……)


私の脳裡に、いつか教室で行ったヌードデッサンの光景が浮かび上がる。モデル事務所から派遣されたプロの女性モデルで、しっかりとした体格の人だった。

「いいモデルだ」と、秀一さんが満足していた。


「あ、あの……秀一さん。私は」

「やっぱり駄目かい?」


そういう問題ではない。プロのモデルに比べたら私の身体は貧相で、裸婦画のモデルが務まるとは思えない。

急に消極的になった私に、秀一さんがあからさまに落胆の表情を浮かべた。


「駄目と言うか、私にはちょっと……」
 
「君を描きたいんだ。ベアも、君をモデルにした裸婦画を是非にと望んでいる。僕としても、絶対に後悔させない自信がある」


いや違う。自信が無いのは私なのだ。どう言えばいいのだろう。


「君のきれいな身体を表現したいんだ。誰よりもきれいな僕の薫を」

「しゅ、秀一さん」


かあっと、全身が熱くなる。恥ずかし過ぎて逃げ出したい。この人は、どうかしている……

秀一さんはしかし大真面目に私を口説いている。


「本気だよ」


ああ、この人に私は元々弱いのだろう。だけどよく考えて、自分が納得しなければ。


「少し、考えさせてください」

「薫……」


私は立ち上がると、彼から離れてふわふわと歩き回った。熱い視線が背中に痛いほど突き刺さってくる。


(裸婦画のモデル……)


画家の恋人や妻がモデルになるのは珍しくない。

ただ、私は自信が無い。

それだけなのだ。

窓から商店街を見下ろした。遅い時間であり、ほとんどのシャッターが下りている。


(秀一さんに告白したのも、こんな夜だった。教室で二人きり、向かい合って座った。どきどきして、彼のことを何も知らないままに胸をときめかせ、彼が淹れてくれたコーヒーを飲んだっけ)


「先生……私の、島先生」


あなたのために、どうしてこんなに勇気が湧いてくるのだろう。

はっきりとした意思が持てるのだろう。

この感覚はきっと、言葉にするなら――

振り返ると、すぐ傍に彼がいた。私の顔を、心配そうに覗き込んでくる。


「秀一さん」

「うん」

「私、モデルになります」


予期せぬ答えだったのか、彼はきょとんとした。

だけどやがて、みるみる笑顔が広がっていく。瞳が輝きはじめる。


「やったー!」


私の身体に抱きつくと、力任せに持ち上げ、グルグルと回転した。


「きゃああっ」


少年のように屈託のない、世界で一番大好きな男性ひと


私の秀一さん。

あなたに対するこの感覚は、無償の愛。無限の愛情なのです。




 ◇ ◇ ◇




秀一さんは車で家まで送ってくれた。

当然のように車に載せてくれる彼に、私は一つ相談してみる。


「私、車通勤にするつもりなんです」

「えっ、運転できるのかい?」

「はい、一応運転免許を持っているので」

「へえ」


心外な反応だが、一度も運転するところを見せていないのだから無理もない。


「時々父の車を動かすくらいで、ほとんど運転経験がないのですが」


秀一さんは呆れ顔になった。


「それは無茶だな。やめたほうがいい」

「でも」

「君も危険だが、周りのドライバーにも迷惑になる。この通りは車も多いし、朝なんてすごい渋滞で、モタモタしてたら動けなくなるよ」


ひと言もなかった。朝の渋滞については、会社の同僚から聞かされている。


「電車でいいじゃないか。もしかして、もう車を用意したとか?」

「ううん、車はこれからです」

「そうか……しかし、どうして急にそんなことを。誰かに言われたのか」

「そうじゃないけど」


送ってもらうのが心苦しいからなんて答えたら、この人は笑うだろう。そして、これからも送るのを止めないだろう。私が何も言えずにいると……


「君を送るのは僕の楽しみだからね。取り上げないでくれよ」


さらりと先手を打った。


「だけど」

「誰も迷惑なんてしてない。ただ、君が遅い時間に歩いて帰るのを心配してるんだ。今の世の中、昼間でも何があるか分からないからね」

「う、うん」


通りから住宅街に入れば、じきに家の前だ。一度も危ないと感じたことのない道のりである。


「何なら、毎日僕が送って帰りたいくらいだよ」

「ええっ」


(それは……あまりにも過保護では?)


「可笑しいか?」

「いえ、ありがたいです……」

「だったら、車通勤はやめたほうがいい」

「はあ」


結局、車通勤を反対されてしまった。

情けないが、確かに10年間ペーパードライバーの自分には、無謀なチャレンジかもしれない。

秀一さんは運転しながら、何か思案している。

気が付けば、間もなく松山さんの運送会社が見えてくる辺りだ。


(松山さんも、私を家まで送ってくれたよね。何度も、何度も……)


もしかしたら彼も、秀一さんと同じ気持ちだったのかもしれない。今さら何を考えても、遅いけれど。

明るい照明のもと、きれいに並んだトラックが車窓を流れていく。

ふいに、秀一さんが口を開いた。


「松山君はもうすぐ釧路に行くのか」


はっとして秀一さんを見る。この人から松山さんの話題が出るなんて。


「10月に、引っ越すそうです」

「10月……」


明日から9月。松山さんがこの町を去るまで、どれほども無い。

住宅街への道を曲がると直ぐに私の家だ。秀一さんは車をとめるとエンジンを切り、こちらに身体を向けた。


「君はもう、彼に会わないのか」

「え……」


意外すぎる質問だった。答えがすぐに出てこない。


「会わない……つもりです」


実際、何の約束もない。松山さんだって、また会おうと言ってくれたが、本当に会うことはないだろう。彼はそういう男性だ。


「でも、彼は遠くに行ってしまう。このまま別れて、それでいいのかい」

「秀一さん……」

「僕は、思ったんだ」


シートにもたれ、深く息をついた。フロントガラス越しに夜空を見上げている。


「ベアに何年ぶりかで再会して、ああ、どうしてあんなに意地を張っていたのかと」

「……」

「彼女に会う前には分からなかった。だが、あのホテルの展望階で、独りぽつんと僕を待っていた彼女を見た途端、懐かしさと後悔と、何よりも、さよならも言わず離れた寂しさが一気に押し寄せてきた。15年の歳月を思い、苦しくて堪らなかった」


秀一さんは、夜空にひときわ輝く金星を見つめている。


「君に、同じ後悔をしてほしくない。僕のために彼と会わないのなら考え直してくれ。彼は君にとって大事な人だ。僕にとって、ベアトリスが特別な存在であるように」


私へと視線を移す。その瞳はどこまでも澄んでいる。


「お願いだ、薫」

「ありがとう、秀一さん!」


たまらなくなり、彼の胸にもたれた。

最後に残ったひと欠片の氷が、今、融ける音を聞いた。
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