先生

藤谷 郁

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乾杯

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月曜日の朝――

駅のホームで電車を待っていると、秀一さんからメールが届いた。今日の退社後、教室に寄ってほしいとのメッセージだ。

もう一通着信した。今度は真琴からで、件名は『飲み会』になっている。


《おはよう! 知宏さんから水曜日はよろしくとの伝言です。時間は午後7時より。島先生にも伝えてね。すっごく張り切って準備しています。当日はサプライズがあるとか? ともかく楽しみにしてるね~》


「あっ、そういえば……」


マスターと飲み会の約束がしてあった。いろんなことがあり過ぎて、すっかり忘れていた。


「サプライズか。ふふ、楽しそう」


楽しげな文面から、真琴が秀一さんと私が喧嘩した件について何も知らないことが読み取れる。松山さんと連絡していないのか、それとも彼が黙っているだけなのか。


(松山さん、心配してるだろうな)


あとからきちんと報告しなければ。

また会おうぜと彼は言った。秀一さんも、今なら会うことを許してくれるかもしれない。でも……


(報告はメールにしよう)


松山さんも、そのほうがいいと言うだろう。やはりもう、会うべきではないのだ。

今日で八月が終わる。

私は寂しさを紛らすように、青空を見上げた。




職場に着くと、ミーティングが始まる直前だった。

特別な連絡があるらしく、今朝は随分と早く社員が集まっている。私も急いで皆の後ろに座った。


「え~、本日は人事について連絡があります。今月半ばに退職された小橋さんの補充で人員の募集をしたのですが、応募された三名の内一名の方を採用することにしました。今週の木曜日から来てもらうのですが、星野さんに教育係をお願いします」


隣にいる吉野さんがこっそりと耳打ちした。


「面接の時ちらっと見たけど、すごく若い子だよ。高校卒業後に就職した会社が倒産して、路頭に迷ってたみたい。面接はうちが5社目だって」

「そうなんですか」


不景気な世の中、再就職も大変な時代なのだと痛感する。


「小橋さんの急な退職により、他の社員に大変な負担が掛かりました。退職される場合はせめて2ヶ月前には知らせていただきたい。さて、次は……」


退職する場合――

私はふと、自分自身のこれからを考えた。

秀一さんの仕事を支えるために、私は会社を辞めるつもりでいる。ということは、所長が言うように2ヶ月前に退職の意向を伝えなければならない。

早い内にその時期を決めようと思った。


ミーティングが終了したあと、パソコンのファイルを開いた。


(小橋さんから引き継いだ仕事も、もうすぐ終わる……)


そう思った時、彼女が言い残した言葉が頭をよぎった。


――私のようにならないで。世間にも、仕事にも、男にも振り回されないで。
 

秀一さんが仕事を辞めてほしいと望むなら、そうすることに抵抗はない。全力で彼を助けたいと思う。周りには、それこそ振り回されているように見えるだろう。

でも、今の私は以前とは違う。

ベアトリスの一件で、自分の意思を確かめ、納得し、きちんと伝える大切さを知った。何もかも、ただ受け入れるだけではダメなのだ。


(大事なのは、自分が納得すること)


以前よりも、はるかに意思が強くなった気がする。こういう感覚を何と言うのだろう。


「うーん」


結局答えが出ないけれど、私は充実した気持ちで、ただひたすらに集中した。

やるべきことを、まっすぐに行えばいい。

仕事も人生も――





月曜日のアートスクールは小中学生の教室が夕方に開かれている。

終了するのは午後6時。私が退社したのは午後7時半。


(遅くなっちゃった)


急いで私服に着替えて教室に向かった。

画材を持たずに教室に行くのは妙な心地だ。肩の辺りが落ち着かない。でもそれは、照れているせいだと途中で気が付く。

ドアをノックすると、開錠する音が聞こえ、秀一さんが顔を出した。


「こんばんは。お疲れ様、薫」

「こ、こんばんは」


昨日会ったばかりなのに久しぶりのような気がして、やっぱり照れてしまう。


「どうかした?」

「ううん、別に……」


秀一さんも素敵だけれど、島先生も素敵。彼に恋してるから照れたり、ドキドキするのだ。


「少し、描いてたんだ」


キャンバスを載せたイーゼルが部屋の中央にある。見ると、モチーフは籠に盛られた秋の果物で、油絵だった。


「アラ・プリマ(早描き)だよ」

「完成してますね」

「うん。子どもたちの教室が終わってからすぐ始めて……ちょっと疲れたな」


ふうっと息をつく彼は、いつもより元気がないように見える。


「コーヒー、淹れましょうか」

「薫が?」


意外だったろうか。確かに、私は彼にコーヒーを淹れたことがない。

秀一さんは笑うと、


「君も仕事を終えたばかりだろう。僕にやらせてくれ」


作業着を脱いで、給湯室に入ってしまった。




「はい、薫。熱いから気を付けて」

「ありがとう」


コーヒーの香りを嗅ぐと、ほっとした。

秀一さんの淹れるコーヒーは香り高く、美味しい。インスタントなのに、淹れ方にコツでもあるのだろうか。

彼は黙ってカップを見つめている。

他ごとを考えているのかなと、気になった。


「秀一さん、どうかしたの」

「ん?」

「何だか、いつもと違うから」

「ああ……」


気まずそうに目を逸らすが、いきなり立ち上がると明るい声で言った。


「そうだ。今日は差し入れがあったんだ」


もう一度給湯室に入ると、紙袋を手に戻ってきた。


「昨日、商店街にベーカリーショップがオープンしたらしい。そこでパートを始めた生徒さんが差し入れてくれたんだ」

「そうなんですか」


袋から取り出されたのは数種類の惣菜パンだった。


「お腹が空いたろう。食べなさい」

「あ、はい。いただきます」


どれも美味しそうだが、私はその中のひとつに目を止めた。白いパンに丸いコロッケと野菜が挟まれ、ソースがかかっている。


「ベアトリスがごちそうしてくれた、ファラフェルに似てる」


何気なく口にしたつもりだが、秀一さんは「えっ」と驚き、手にしたツナサンドを取り落とした。


「おっ、しまった」


変にうろたえる秀一さん。今夜の彼は、どこかおかしい。


「何か、あったんですか?」

「……」


秀一さんは私と目を合わせず、唇を一文字に結ぶ。頑なな態度だが、私がじっと見ているとすぐに降参した。


「実は君に、頼みがあってね」


そう言って、まぶしそうに私を見つめた。
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