恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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「私、引越そうと思ってるんです」

『ああ、そのほうがいい。君のアパートはいまや事故物件だ。住み続けるのは精神衛生上、よろしくないね』


智哉さんと話しながら、コンビニで買った賃貸情報誌をぱらぱらとめくる。職場に近くて、家賃がここと同じくらいの物件はないかしら……

いや、そんな条件よりも大事なことがある。

次の部屋を決める時、前の住人がなぜ引越したのか、今度は不動産屋に確かめようと思う。隣人トラブルで出て行ったとか、もしもそんな理由なら最初から除外したい。


『もしもし、ハル、聞いてる?』

「あ、ごめんなさい」


いけない、いけない。せっかく智哉さんが相談に乗ってくれているのに。

賃貸情報誌を閉じて、電話の声に集中した。


『だから、すぐにそこを引き払って、僕のところに来ないか』

「……え」


言葉の意味がよくわからず、ぽかんとする。


「僕のところ……って、あの、智哉さんのマンションにってことですか?」

『そう。部屋は余ってるし、じゅうぶん二人で暮らせるよ』


ええーっ!?

と、思わず叫びそうになった。驚きと戸惑いと嬉しさがごっちゃになり、パニックを起こしそうになる。


『僕のマンションなら通勤に便利だろ。建物もプライバシーに配慮した設計で、セキュリティも万全だ。安心して暮らせると思う』

「そ、そうですよね」


思いも寄らぬ提案だが、説得力のある誘いに気持ちが大きく傾く。安心して暮らせるという要素を、私は今、なによりも欲している。

だけど、私と智哉さんは付き合い始めたばかりの、まだまだ浅い関係だ。なのに、いきなり同居というのは、飛ばしすぎな気がする。

もちろん、とても嬉しいけれど。


「ありがとうございます。でも……ご迷惑では」

『迷惑だったら、こんな提案はしない。ハルさえよければ、いつでも歓迎するよ』


どうやら智哉さんは本気だ。声音から気持ちが伝わってくるが、それでも私は決められなかった。長いこと恋愛から遠ざかっていたので、恋人に甘えたり頼ったりする、かげんがわからず……


『それに、この辺りのスーパーは、夜遅くまで開いてるぞ』

「あ……」


智哉さんのユーモラスな口調に、つい顔がほころぶ。


「覚えていてくれたんですね」

『うん』


不安で堪らなかった夜、智哉さんに電話をかけた。あの時の何気ない会話と彼の優しさに、どれだけ励まされたことか。

智哉さんはいつも、私に寄り添ってくれる。

付き合いが浅いとか、そんなの関係なく甘えればいい。恋人として、誰よりも信頼できる男性なのだから。


「ありがとう、智哉さん。いつか必ず、恩返ししますね」


真面目に言ったのだが、電話口の彼は楽しそうに笑う。その明るさに、またしても励まされる。


『いいね、君は。そんなところが僕は好きなんだ』

「……!」


どうしてこう、さらりと言えるのかな。

ストレートな言葉に胸を射貫かれ、私は返事もできない。火照り始める頬を手で押さえながら、ぎこちない動きで窓辺に寄った。カーテンを開けると、雨がまだ降り続いていた。


「えっと……じゃあ、なるべく早く退去の手続きをしますね。引越しの準備を整えて、日にちが決まったら智哉さんに連絡を」

『いや、すぐにでもおいで。細かい段取りはあとでいい』

「え? でも」

『本当は、今から迎えに行きたいくらいなんだ。怖がりな君が、その部屋で一晩過ごすことを考えたら、かわいそうで』


智哉さんの口調は真剣だ。不安な環境に置かれた私のことを、心から案じてくれるのがわかる。

だけど、少しだけ過保護な気がした。

彼は前にも私について「神経質で怖がり」だと言った。間違ってはいないけれど、意外とのんきな面もあるし、そこまで弱くないと思う。かわいそうというのは大げさである。


「大丈夫ですよ。一晩や二晩、耐えられます」

『ハル』


低い呼びかけとともに、ためいきが聞こえた。


『昼間、きちんと話をすればよかったな。失敗した……』


いかにも残念そうに言うので、何だか悪い気がした。これでも甘えてるつもりだけど、もっともっと、いっそ図々しいくらい甘えたほうが、彼は安心するのかしら――

私は焦燥感にかられ、黙り込む電話を耳に押しあてた。


「もしもし、智哉さん。私のことをそんなふうに心配してくれて、本当にありがとう。でも、失敗したなんて言わないで」

『うん……』


元気のない声。私はカーテンを閉めて部屋に向き直り、壁時計を見上げた。


「今から荷造りします。迎えに来てくれますか?」


私は智哉さんの恋人。

彼の想いに応えるのが幸せなのだと自覚した。

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