80 / 236
妖怪と女
3
しおりを挟む
微かに膝が震えている。
ついに私は、古池店長と土屋さんを告発した。
これでもう、後には引けない。何か、とてつもなく大それたことをしたような怖さを感じる。たとえ彼らに非があるとしても、私が告発することで、彼らの今後の人生を変えてしまうのだから。
会社の不正を内部告発する人は、皆、こんな気持ちなのだろうか。すごく勇気のいる行為だと実感する。
でも私は後に引くつもりはない。特に店長は、相応の罰を受けるべきだ。どんな処分が下されても自業自得である。
「そうだ。山賀さんに電話しておこう」
告発したことを他者に漏らさないよう念を押すためだ。山賀さんはしっかり者だから、心配ないと思うが。
個人のスマートフォンに持ち替えて、彼女の番号をタップすると、
「あれっ?」
山賀さんの電話は話し中だった。
仕方ないので、《例の件無事に完了。他言無用でお願いします》と、メールを送る。詳しい話は、あらためて電話すればいい。
「これでよし」
スマートフォンをポケットに仕舞ってから、更衣室を出た。
今日の昼食はビルの六階にあるカフェ『フローライト』でとることにした。お弁当を持って来なかったし、休憩室を利用するであろう土屋さんと顔を合わせたくないから。
事務所にバッグを取りに行くと、古池店長がデスクのパソコンで作業していた。他に誰もおらず、カタカタとキーを打つ音だけがオフィスに響く。
「お疲れ様です。お先に休憩入ります」
「はい、お疲れ様」
いつもどおりの穏やかな口調。智哉さんのことを、まだ土屋さんから聞いていないらしい。もし知っていたら絡んでくるはずだ。
とぼけているのかもしれないが、いずれにしろ店長とは話をしたくない。私はバッグを持ち、さっさと事務所を出ようとした。
「一条さん、昨日はどうでしたか」
突然話しかけられて、ビクッとする。振り向くと、店長がパソコンの脇から顔を覗かせていた。
細い目が狡猾に光るのを見て、ぞっとする。
「どうでしたか」という質問の意味をわかりかね、黙っていると……
「お母さんの具合ですよ。昨日、お母さんが倒れて、入院されたんですよね」
「あ、ええ……はい」
我ながら迂闊だと思った。通常どおり振舞うよう横井さんに忠告されたのに、店長を前にすると、いろんな警戒心が働いて不自然になってしまう。
表情を変えないよう注意しながら、返事をした。
「母は、軽い脳梗塞でした。処置が早かったので後遺症もなく、数日で退院できそうです」
いつだったか、伯母が入院した時の状況を説明に使った。
「それは良かったですねえ。昨日はずいぶん深刻な様子だったので、心配しましたよ」
「ご心配をおかけして、申しわけありません」
よどみなく答える私を、店長が探るように見てくる。
私はもう、一刻も早く外に出たくて仕方なかった。店長への嫌悪感がすごくて、表情を保つのも辛い。
「では、休憩に入りますので、失礼します」
「ちょっと待ってください。今朝ほど、気になる噂を耳にしたのですが」
「……え?」
私の顔が強張るのを店長は見逃さず、にやりと笑った。世にもおぞましい不倫男が、デスクを離れ、ゆっくりと近付いてくる。
気になる噂――智哉さんのことだ。
店長のいやらしい顔つきから、それは明白である。
しかし私は、何を訊かれても絶対に余計なことは喋らないと決めている。土屋さんがどこまで伝えたのか知らないが、詮索はすべてシャットアウトだ。
平常心を保ち、プライバシーに干渉しようとする店長と対峙した。
「お付き合いされている男性がいらっしゃるとか。やはり、ただの『友人』ではなかったんですねえ。しかも、『ドゥマン』の店長さんと聞いてビックリしましたよ」
土屋さんは知り得た情報を、すべて喋ったらしい。本当に下世話な人達だ。
「『ドゥマン』の店長……水樹さんと言いましたっけ。彼と同居してるわけですよね。しかし不思議だなあ。一条さんは転勤して間もないのに、そんな深い関係に持ち込むなんて。一体、どんなご縁で知り合ったんです?」
まるでゴシップ誌のインタビューだ。
私はバッグを強く握りしめ、早く本部が不倫男を処分してくれることを願った。
「個人的なことなので、お答えできません」
自分でも驚くほどの、冷ややかな声が出た。店長はちょっと怯んだ様子だが、めげずに喋り続ける。
「水樹さんかあ。ビルのイベント説明会で、お見かけしたことがあります。すらっと背が高くて、いかにも女性にモテそうな美男子ですよねえ。うーん、大丈夫かなあ」
智哉さんを貶すつもりだろうか。私は、何を言われても無視するために身構える。
しかし……
「悪い男でなければ、いいのですが」
「はい?」
つい反応してしまった。でも今のは聞き捨てならない。
「どういう意味でしょうか」
「いえね、水樹さんほどの男性が、あの歳になるまで独身というのも妙ですし。あと、出会って間もない女性に手を出す速さというか、危ない人のような気がするんですよねえ」
身体中の血が沸騰した。
危ないのはあなたでしょうと、大声で叫びそうになる。
部下と不倫して、邪魔になったら追い払う。悪人の見本みたいな最低男のくせに!
「失礼なことを言わないでください。不愉快ですっ」
「ああ、すみません。悪気はないのですよ。ただ、上司として一条さんが心配なのです。変な男に騙されやしないかと」
「なっ」
騙される?
自分の行いを棚に上げて智哉さんを貶める店長に、カッとなった。
ついに私は、古池店長と土屋さんを告発した。
これでもう、後には引けない。何か、とてつもなく大それたことをしたような怖さを感じる。たとえ彼らに非があるとしても、私が告発することで、彼らの今後の人生を変えてしまうのだから。
会社の不正を内部告発する人は、皆、こんな気持ちなのだろうか。すごく勇気のいる行為だと実感する。
でも私は後に引くつもりはない。特に店長は、相応の罰を受けるべきだ。どんな処分が下されても自業自得である。
「そうだ。山賀さんに電話しておこう」
告発したことを他者に漏らさないよう念を押すためだ。山賀さんはしっかり者だから、心配ないと思うが。
個人のスマートフォンに持ち替えて、彼女の番号をタップすると、
「あれっ?」
山賀さんの電話は話し中だった。
仕方ないので、《例の件無事に完了。他言無用でお願いします》と、メールを送る。詳しい話は、あらためて電話すればいい。
「これでよし」
スマートフォンをポケットに仕舞ってから、更衣室を出た。
今日の昼食はビルの六階にあるカフェ『フローライト』でとることにした。お弁当を持って来なかったし、休憩室を利用するであろう土屋さんと顔を合わせたくないから。
事務所にバッグを取りに行くと、古池店長がデスクのパソコンで作業していた。他に誰もおらず、カタカタとキーを打つ音だけがオフィスに響く。
「お疲れ様です。お先に休憩入ります」
「はい、お疲れ様」
いつもどおりの穏やかな口調。智哉さんのことを、まだ土屋さんから聞いていないらしい。もし知っていたら絡んでくるはずだ。
とぼけているのかもしれないが、いずれにしろ店長とは話をしたくない。私はバッグを持ち、さっさと事務所を出ようとした。
「一条さん、昨日はどうでしたか」
突然話しかけられて、ビクッとする。振り向くと、店長がパソコンの脇から顔を覗かせていた。
細い目が狡猾に光るのを見て、ぞっとする。
「どうでしたか」という質問の意味をわかりかね、黙っていると……
「お母さんの具合ですよ。昨日、お母さんが倒れて、入院されたんですよね」
「あ、ええ……はい」
我ながら迂闊だと思った。通常どおり振舞うよう横井さんに忠告されたのに、店長を前にすると、いろんな警戒心が働いて不自然になってしまう。
表情を変えないよう注意しながら、返事をした。
「母は、軽い脳梗塞でした。処置が早かったので後遺症もなく、数日で退院できそうです」
いつだったか、伯母が入院した時の状況を説明に使った。
「それは良かったですねえ。昨日はずいぶん深刻な様子だったので、心配しましたよ」
「ご心配をおかけして、申しわけありません」
よどみなく答える私を、店長が探るように見てくる。
私はもう、一刻も早く外に出たくて仕方なかった。店長への嫌悪感がすごくて、表情を保つのも辛い。
「では、休憩に入りますので、失礼します」
「ちょっと待ってください。今朝ほど、気になる噂を耳にしたのですが」
「……え?」
私の顔が強張るのを店長は見逃さず、にやりと笑った。世にもおぞましい不倫男が、デスクを離れ、ゆっくりと近付いてくる。
気になる噂――智哉さんのことだ。
店長のいやらしい顔つきから、それは明白である。
しかし私は、何を訊かれても絶対に余計なことは喋らないと決めている。土屋さんがどこまで伝えたのか知らないが、詮索はすべてシャットアウトだ。
平常心を保ち、プライバシーに干渉しようとする店長と対峙した。
「お付き合いされている男性がいらっしゃるとか。やはり、ただの『友人』ではなかったんですねえ。しかも、『ドゥマン』の店長さんと聞いてビックリしましたよ」
土屋さんは知り得た情報を、すべて喋ったらしい。本当に下世話な人達だ。
「『ドゥマン』の店長……水樹さんと言いましたっけ。彼と同居してるわけですよね。しかし不思議だなあ。一条さんは転勤して間もないのに、そんな深い関係に持ち込むなんて。一体、どんなご縁で知り合ったんです?」
まるでゴシップ誌のインタビューだ。
私はバッグを強く握りしめ、早く本部が不倫男を処分してくれることを願った。
「個人的なことなので、お答えできません」
自分でも驚くほどの、冷ややかな声が出た。店長はちょっと怯んだ様子だが、めげずに喋り続ける。
「水樹さんかあ。ビルのイベント説明会で、お見かけしたことがあります。すらっと背が高くて、いかにも女性にモテそうな美男子ですよねえ。うーん、大丈夫かなあ」
智哉さんを貶すつもりだろうか。私は、何を言われても無視するために身構える。
しかし……
「悪い男でなければ、いいのですが」
「はい?」
つい反応してしまった。でも今のは聞き捨てならない。
「どういう意味でしょうか」
「いえね、水樹さんほどの男性が、あの歳になるまで独身というのも妙ですし。あと、出会って間もない女性に手を出す速さというか、危ない人のような気がするんですよねえ」
身体中の血が沸騰した。
危ないのはあなたでしょうと、大声で叫びそうになる。
部下と不倫して、邪魔になったら追い払う。悪人の見本みたいな最低男のくせに!
「失礼なことを言わないでください。不愉快ですっ」
「ああ、すみません。悪気はないのですよ。ただ、上司として一条さんが心配なのです。変な男に騙されやしないかと」
「なっ」
騙される?
自分の行いを棚に上げて智哉さんを貶める店長に、カッとなった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
私の優しいお父さん
有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。
少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。
昔、私に何があったんだろう。
お母さんは、どうしちゃったんだろう。
お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。
いつか、思い出す日が来るのかな。
思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
フローライト
藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。
ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。
結婚するのか、それとも独身で過ごすのか?
「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」
そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。
写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。
「趣味はこうぶつ?」
釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった…
※他サイトにも掲載
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる