恋の記録

藤谷 郁

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素足

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「……!」


驚きのあまり、椅子から跳び上がった。私の真後ろに、見知らぬ男がいる。


「あんたが一条春菜か」

「……は?」


中肉中背の中年男。ポロシャツに麻のジャケットを羽織り、首に見舞客用の札を提げている。ハンチング帽から覗く容貌は優しげだが、よく見ると顎の輪郭が厳つい。なにより、不気味な威圧感があった。


「だ、誰なんですか、あなたは……いつの間に」

「見舞客だ。あんたが来る前からここにいた」


そんなはずはない。部屋に入った時、山賀さんの他に誰もいなかった。
 

「じいさん、閉めてくれ」


男の声と同時に、老人がモップで病室のドアにつっかい棒をした。この男と老人が仲間であることがそれで分かった。

男はトイレに隠れていたのだ。


「山賀さん、どういうこと? この人は一体……」

「一条さん。彼は水樹さんの使いです」


わけが分からない。

山賀さんはさっき、智哉さんが迎えにきたようなことを言った。だから私は、まさかと思って振り向いたのだ。


「智哉さんの、使い?」


男が距離を詰める。私は反射的に窓際へと逃げた。


「驚かせて悪かった。だが、どうか落ち着いてほしい」

「近寄らないで。大声を出しますよ」


私は無理やり息をととのえ、とにかく考えろと自分に言い聞かせた。この男は智哉さんの『使い』。ということは、智哉さんの味方である。

指名手配犯の味方。共犯者。警察に通報すべき人物。

私は今、警察側の人間だ。でも彼は、その事情を知ってか知らずか、私を智哉さんのもとに連れて行こうとしている……?

それから、山賀さんもそれを承知しているようだ。清掃スタッフの老人も。

急転直下の展開である。こんなところで接触があるとは。しかも現れたのは智哉さん本人ではなく、見知らぬ人物。

いずれにしろ、この状況で警察に連絡するのは無理だ。話を聞くだけ聞いて、隙を見て逃げるしかない。


「状況を理解した顔だな」

「……」


私が黙っていると、男は山賀さんを目で指し、


「彼女の言うとおり、俺は水樹の使いだ。あんたを連れてくるようにと頼まれた」


山賀さんも、そして老人もうなずく。彼らはやはり、この状況を把握している。


「智哉さんは、今、どこに?」

「言えない。だが、とても安全な場所で、あんたを待っている」


なぜ言えない? 本当にこの人は智哉さんの使いなのか。私の疑問をよそに、男は続けた。


「今すぐ連れ出したいところだが、あんたには警察が張り付いている。明日の午後6時過ぎに、もう一度ここに来てくれ。今から言う方法で、脱出してもらう」

「脱出?」


この男は、警察の動きを掴んでいる? それなら、私の立場も承知の上だろう。素直に付いていくと思っているのだろうか。

相手の思惑は不明だが、智哉さんの情報を引き出すために、私は話を合わせる。


「どんな方法ですか。出入り口は警察が見張っているし、ここは6階ですよ?」

「その窓から、外に出るんだ」

「……な」


とんでもない指示に絶句する。窓を覗くと、地面まで20メートルほどの高さがあり、しかも垂直の壁だ。


「ロープを垂らして降りろとでも? 無理です。私にはできません」

「下まで降りる必要はない。一つ下の5階に移ってくれればいい

「ご、5階?」


うろたえるばかりの私に、男は淡々と説明した。


「段取りはこうだ。あんたは明日、再び彼女の見舞いにくる。時間は午後6時過ぎ。飯時は人の出入りがなくて都合がいいからな。脱出の準備が済んだら日没を待ち、窓から5階に降りろ。道具は揃えてある」


男が合図すると、老人がバケツの中からそれを取り出し、高く掲げた。


「ロープ梯子と、滑り止め付きのグローブとシューズだ。靴を履き替え、窓の外に梯子を掛けたら、下を見ないように一段一段確実に降りてくれ。5階でじいさんが待機してるから、あとは任せればいい。ちなみに、真下の部屋は清掃スタッフが出入りしても怪しまれない用具倉庫だ」


老人がうなずいてみせる。真摯な態度だが、やろうとしているのは犯罪行為だ。こんなに真面目そうなお年寄りが、なぜ加担するのだろう。

疑問が募るが、それを問う間もなく、男が次の段取りへと話を続ける。


「梯子を回収した後、じいさんがあんたをカートに乗せて、病棟裏に付けた車まで運ぶ。カートごとワンボックスに積み込むから、あんたは外に出なくてもいい。車が走りだしても、しばらく中でじっとしててくれ」

「私は5階に降りた後、カートで運ばれるんですね」

「そうだ」


掃除用具を載せたカートはシートで覆われていた。人が中にいても気づかれないだろう。ワンボックスに積み込むまでスムーズにいきそうだ。


「車はあなたが運転するのですか?」

「いや、じいさんがやる。俺は先回りして、途中で交代する」


客観的にとらえれば、かなりオーソドックスな脱出方法と言える。だけど、実際にやるとなったら、鳥肌ものの作戦だ。

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