【完結】またたく星空の下

mazecco

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3章

第34話 交差するペン

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 匡史が暮らすマンションは、侭白東駅から徒歩十五分ほどのとこにある、築三十年ほどの建物だった。
 玄関のドアを開けると、狭くて短い廊下の奥にリビングが見えた。そこにはローテーブルがあり、床に五枚の座布団がギチギチに並べられていた。

「狭くてごめんね」

 匡史が適当に座るよう合図したので、海茅はおそるおそる座布団の上に腰を下ろした。

 リビングいっぱいに、匡史の制服の匂いが敷き詰められている。
 カーテンのレールには匡史のカッターシャツが干されていた。
 太陽の光がシャツを通して部屋に差し込む。じんわりとした光を放つシャツと、リビングの床にくっきり映るシャツの影。
 匡史が窓を開けると、シャツと共に、年中飾りっぱなしであろう風鈴が涼しい音を鳴らして揺れた。
 匡史の後ろ姿は、この部屋によく馴染む。
 風と一緒に海茅の頬を撫でる爽やかな匂いと、明るいのに眩しすぎない柔らかい光、そしてところどころに落ちる物影。この部屋にあるもの全てが匡史そのもののように感じた。

 海茅の向かい側には茜と優紀が腰かけた。創は誕生日席にでんと構える。

(え、待って待って。じゃあ私の隣って……)

 予想した通り、お茶を載せたお盆を慣れない手つきで持って来た匡史が海茅の隣に座った。
 海茅が無言で優紀と茜に視線を送ると、二人は返事の代わりに眉を上げたり肩をすくめたりした。優紀と茜は「それがどうしたの?」という態度を取りたいようだったが、口元がニヤけるのを我慢できていない。
 みぞおちのあたりがシュワシュワする。そこにある小さな水たまりに、発砲入浴剤を投げ込まれたような感覚。泡が吹き出す様子は見ているだけでなんだか幸せな気持ちになるのに、投げ込まれた体は溢れる泡で膨らみ破裂しそうだ。

 匡史が足を崩した時、腕が海茅の肩にこつんと当たった。
 左利きの匡史と右利きの海茅がペンを握ると、二人のペンが交差する。
 匡史が困ったように笑った。

「ごめん、俺左利きなんだ。席交代してもらってもいい?」
「う、うんっ」

 海茅は慌ただしく荷物をまとめ、匡史と席を入れ替わった。
 不自然なほど左側に視線を向けられない。教科書に目を落としていても、視界のはしっこに匡史の姿がぼやけて映る。それが匡史を盗み見ているようで、悪いことをしている気持ちになる。
 匡史の静かな呼吸音が聞こえるほどなのだから、ティンパニロールくらい激しく鼓動している海茅の心臓の音なんて、匡史どころかメンバー全員の耳に届いているのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、海茅は簡単な問題すら解けなくなるほど頭が真っ白になった。
 手が止まっている海茅に気付き、匡史が声をかける。

「みっちゃん」
「ひぇっ」

 海茅の体が強張ったので、つられて匡史も固まった。
 顔は互いを向いているのに、視線は全く別のところを泳ぐ。

「えっと、分からないところあるかなって思って」
「あ、う、うん。も、もうちょっと自分で解いてみる……」
「そっか。つまずいたらいつでも声かけてね」

 ぎこちない会話をする二人を見て、向かいに座っている優紀と茜はテーブルの下で小突き合い、創はニヤける顔を教科書で隠していた。
 海茅の鼓動が落ち着き勉強スイッチが入り始めたのは、匡史の部屋におじゃまして約一時間が経ってからだった。
 海茅に好きな教科なんてものはなかったが、匡史に教えてもらううちに数学は楽しいと思えるようになった。公式に当てはめ、計算してどんどん答えに近づいていくのはパズル感覚で面白い。正解したら気持ち良くて、次の問題も解きたくなった。
 しかし、暗記系は未だに苦手意識が薄れなかった。英語は意味不明の暗号の解読をしている気分だし、社会なんて興味のないことをなぜ覚える必要があるのか理解できず腹が立った。
 国語なんてもっと苦手だ。授業中は、いつ音読を当てられるかばかりが気になって、先生の声が頭に入ってこない。それに作者の気持ちを述べよ、なんて問いには「知らねえよ」と答えてやりたい。作者の気持ちなんて、赤の他人の海茅に分かるわけがないだろう。

 海茅は虚ろな目で向かいの女子を見た。二人とも黙々とノートに何か書き込んでいる。創もなんだかんだ言って頭が良いので、滑るようにペンを走らせていた。
 隣で匡史がクスッと笑ったので、自分が笑われたと思った海茅は思わず彼に目をやった。
 しかし匡史は教科書に目を落としている。海茅の視線に気付いた彼は、頬を緩めたまま顔を向けた。

「ん? どうしたのみっちゃん」
「教科書読んで笑ったの?」
「あ、うん。面白くて」

 教科書が面白い。何を言っているのだろうこの人は。
 そんな気持ちがあからさまに表情に出ていたのか、匡史が海茅の顔を見て噴き出した。

「教科書って言っても国語だよ。小説読んでたんだ。みっちゃんも一緒に読む?」
「う、うん……。じゃあ、私も国語の勉強しようかな」
「あ、やば。勉強ってこと忘れてた。つい夢中で読んじゃってた」

 何を言っているんだこの人はと、海茅はもう一度思った。
 そこに優紀が会話に入ってくる。

「どの小説?」
「『俺のマブダチ』ってやつ」

 匡史が答えると、優紀の顔がパッと明るくなった。

「あっ! 私もそれ好き。続きが気になって小説買ったもん」
「まじで!? あれ結局どうなんの!?」
「えっとね、主人公が――」

 匡史は優紀の言葉を遮り、耳に手を当てる。

「あっ、やっぱやめて! ネタバレ禁止!!」
「あはは! じゃあ貸してあげる」
「まじ!? うわ、嬉しい。ありがとう!」

 海茅は盛り上がる二人をぼんやり眺めた。
 頭が良くて、可愛くて、同じ小説が好きな優紀は匡史とお似合いだ。少なくとも、海茅よりはずっと。
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