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Ⅰ 待ちわびた日
2 私の王子様
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「まったくもって、あり得ぬことです。婚儀前だというのに、皇女殿下のご尊名を口にするなど!」
侍従の言葉に、ソルの顔からサッと血の気が引く。
彼は、思わずといった様子で自分の腹に触れると、恐る恐る頭を下げた。
「も、申し訳ありません……皇女殿下」
「……いえ」
私がこの場で言えるのは、それだけだ。
属国の者は皇族の名を呼ばない──たしかにそうした慣習はある。
しかし、舞踏会の歓談などではその限りではない。
まして、私とソルは婚約者同士。
名を呼ばない方が礼を欠く。
ただ、私は側妃の子だ。
属国の貴族相手とはいえ、真正面から指摘すると角が立つ。
口をつぐむ私の前で、ソルが頭を上げ、侍従をうかがった。
その瞬間、彼らの関係性が伝わってきた。
侍従は片眉を上げ、馬鹿にするようにソルを見ている。
ソルはさらに青ざめ、唇を小刻みに震わせた。
「まったく……ソル殿下、しっかりなさってください。国王陛下に恥をかかせたいのですか?」
「す、すまない、マデック」
侍従マデックの無礼な言動に、ソルは言い返しもしない。
このやり取りは、二人にとって日常なのだろう。
私は、つい眉をひそめてしまった。
昔のことを思い出したからだ。
私は皇帝に実子として認められている。
それでも侮る者はいた。
私と母が暮らす新月宮に、石が投げ込まれたこともある。
窓が粉々に割れ、怯える私に、母は静かに言った。
『ルナティア、大丈夫よ。母様が守ってあげるから』
世界の守護神である母は、運命を操る力を使い、犯人へお灸を据えた。
まさか母の仕業だとは、誰も思わなかった。
とはいえ新月宮に手を出せば、ことごとく不運に見舞われるのだ。
私たちを害そうとする者は、すぐにいなくなった。
対して、ソルには力も後ろ盾もない。
徐々にマデックは図に乗り、今に至るのだろう。
「死んでくれ」とソルを罵ったのも、この男だろうか。
私の中で怒りの火が揺らめく。
それを笑顔の裏に隠して、一歩前へ出た。
「ソル殿下、お気になさらず。私の名を呼んでくださって嬉しいです。あなたにお会いする日を、とても楽しみにしておりましたから」
「は!?」
と叫んだマデックを、私の背後に立つ護衛兵オドマンが、鋭く睨んだ。
オドマンは四十年以上を戦場で過ごしてきた。
眼光は、もはや猛獣のそれである。
猛獣オドマンの怒気を受け、マデックは身を縮こめる。
やっと静かになってくれた。
……そうだ。ソルの“失態”が私を喜ばせたと知れば、もっと静かになるだろうか。
私は少し考えて、ソルの手を取った。
「えっ……」
ソルは目を丸くして後ずさったが、その分、私は彼に詰め寄る。
彼のかさついた手を、優しく両手で包み込む。
「もうすぐ夫婦になるんですもの。どうか仲良くしてくださいね」
「は、はい……いえ、あの」
「ですが、対外的には名呼びは控えた方が無難ですわね。今後は二人きりの時に、『ルナティア』と呼んでくださいませ」
「いえ、それは」
「呼んでくださらないのですか……?」
上目遣いで見つめてみせると、ソルの顔は瞬く間に赤くなった。
「……皇女殿下が、お望みでしたら」
ソルは横を向き、消え入りそうな声で答えた。
眉が下がり、目は潤んでいる。
口は、恥じらいを隠すように引き結ばれている。
彼の首筋まで、薄紅色に染まっていく。
その色が私に移ったのだろうか。
湯殿に入ったように体が火照り、ふるりと震えた。
この人は、なんて……
なんて……
なんて可愛いの!!
やわらかな布にくるんで、ずっと一緒にいてあげたい。
彼を抱きしめて、あらゆる敵から守ってあげたい。
この気持ちをどう言い表せばいいのだろう。
私の王子様の可愛らしい顔を、もっともっと見たい──
「お、皇女殿下!」
マデックが、もみ手をしながら私に近づいてきた。
「皇帝陛下がお待ちですので、謁見の間に向かわねば……」
「そうね、出立の挨拶に行きましょう」
私は微笑みながら、「うるさい邪魔者ね」と思った。
「ええ。それで、あの……ご結婚前に、男女が睦まじくするというのは、あまりよろしくないのでは……」
マデックが見ているのは、私の手。
まだソルの手を握ったままだ。
これを離せと言いたいらしい。
「その通りだわ、忠言ありがとう。父に恥をかかせるところだったわね」
私はしおらしく目を伏せ、ソルの手を離した。
心の中で「この侍従、馬に蹴られてしまえばいいのに」と毒を吐きながら。
「い、いえ、決して皇女殿下にそのような……」
「父が待っていますから、早く参りましょう」
私が客間を出ると、すぐに護衛兵のオドマンがついてきた。
彼は白いひげを少しなでると、しゃがれた声で囁いてきた。
「姫様、あの侍従に苛立っておられますな。ベリアへの道中で、密かに斬って捨ててやることもできますぞ」
侍従の言葉に、ソルの顔からサッと血の気が引く。
彼は、思わずといった様子で自分の腹に触れると、恐る恐る頭を下げた。
「も、申し訳ありません……皇女殿下」
「……いえ」
私がこの場で言えるのは、それだけだ。
属国の者は皇族の名を呼ばない──たしかにそうした慣習はある。
しかし、舞踏会の歓談などではその限りではない。
まして、私とソルは婚約者同士。
名を呼ばない方が礼を欠く。
ただ、私は側妃の子だ。
属国の貴族相手とはいえ、真正面から指摘すると角が立つ。
口をつぐむ私の前で、ソルが頭を上げ、侍従をうかがった。
その瞬間、彼らの関係性が伝わってきた。
侍従は片眉を上げ、馬鹿にするようにソルを見ている。
ソルはさらに青ざめ、唇を小刻みに震わせた。
「まったく……ソル殿下、しっかりなさってください。国王陛下に恥をかかせたいのですか?」
「す、すまない、マデック」
侍従マデックの無礼な言動に、ソルは言い返しもしない。
このやり取りは、二人にとって日常なのだろう。
私は、つい眉をひそめてしまった。
昔のことを思い出したからだ。
私は皇帝に実子として認められている。
それでも侮る者はいた。
私と母が暮らす新月宮に、石が投げ込まれたこともある。
窓が粉々に割れ、怯える私に、母は静かに言った。
『ルナティア、大丈夫よ。母様が守ってあげるから』
世界の守護神である母は、運命を操る力を使い、犯人へお灸を据えた。
まさか母の仕業だとは、誰も思わなかった。
とはいえ新月宮に手を出せば、ことごとく不運に見舞われるのだ。
私たちを害そうとする者は、すぐにいなくなった。
対して、ソルには力も後ろ盾もない。
徐々にマデックは図に乗り、今に至るのだろう。
「死んでくれ」とソルを罵ったのも、この男だろうか。
私の中で怒りの火が揺らめく。
それを笑顔の裏に隠して、一歩前へ出た。
「ソル殿下、お気になさらず。私の名を呼んでくださって嬉しいです。あなたにお会いする日を、とても楽しみにしておりましたから」
「は!?」
と叫んだマデックを、私の背後に立つ護衛兵オドマンが、鋭く睨んだ。
オドマンは四十年以上を戦場で過ごしてきた。
眼光は、もはや猛獣のそれである。
猛獣オドマンの怒気を受け、マデックは身を縮こめる。
やっと静かになってくれた。
……そうだ。ソルの“失態”が私を喜ばせたと知れば、もっと静かになるだろうか。
私は少し考えて、ソルの手を取った。
「えっ……」
ソルは目を丸くして後ずさったが、その分、私は彼に詰め寄る。
彼のかさついた手を、優しく両手で包み込む。
「もうすぐ夫婦になるんですもの。どうか仲良くしてくださいね」
「は、はい……いえ、あの」
「ですが、対外的には名呼びは控えた方が無難ですわね。今後は二人きりの時に、『ルナティア』と呼んでくださいませ」
「いえ、それは」
「呼んでくださらないのですか……?」
上目遣いで見つめてみせると、ソルの顔は瞬く間に赤くなった。
「……皇女殿下が、お望みでしたら」
ソルは横を向き、消え入りそうな声で答えた。
眉が下がり、目は潤んでいる。
口は、恥じらいを隠すように引き結ばれている。
彼の首筋まで、薄紅色に染まっていく。
その色が私に移ったのだろうか。
湯殿に入ったように体が火照り、ふるりと震えた。
この人は、なんて……
なんて……
なんて可愛いの!!
やわらかな布にくるんで、ずっと一緒にいてあげたい。
彼を抱きしめて、あらゆる敵から守ってあげたい。
この気持ちをどう言い表せばいいのだろう。
私の王子様の可愛らしい顔を、もっともっと見たい──
「お、皇女殿下!」
マデックが、もみ手をしながら私に近づいてきた。
「皇帝陛下がお待ちですので、謁見の間に向かわねば……」
「そうね、出立の挨拶に行きましょう」
私は微笑みながら、「うるさい邪魔者ね」と思った。
「ええ。それで、あの……ご結婚前に、男女が睦まじくするというのは、あまりよろしくないのでは……」
マデックが見ているのは、私の手。
まだソルの手を握ったままだ。
これを離せと言いたいらしい。
「その通りだわ、忠言ありがとう。父に恥をかかせるところだったわね」
私はしおらしく目を伏せ、ソルの手を離した。
心の中で「この侍従、馬に蹴られてしまえばいいのに」と毒を吐きながら。
「い、いえ、決して皇女殿下にそのような……」
「父が待っていますから、早く参りましょう」
私が客間を出ると、すぐに護衛兵のオドマンがついてきた。
彼は白いひげを少しなでると、しゃがれた声で囁いてきた。
「姫様、あの侍従に苛立っておられますな。ベリアへの道中で、密かに斬って捨ててやることもできますぞ」
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