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第一章
05 引退と婚約
しおりを挟む荷物を取って地下駐車場に行くと、すぐさま真横に黒いベンツがつけられた。運転席の窓から、銀フレームの眼鏡をかけた藍人が明るく声をかけてくる。
「保さん、こっち」
いつの間にか名前呼びになっている。いや、呼び捨てじゃないだけまだいいのか。
助手席を指さす藍人を見て、おずおずと車のドアをあけて助手席に収まる。ぎこちない手付きでシートベルトを締めると、ゆっくりと車が動き出した。
地下駐車場から出ると、左右を高層ビルに挟まれた道路を滑らかに走り出す。時刻はすでに夜の十時を過ぎているが、周囲には車も人も多かった。歩道では、若者が酒を飲んだり、動画を撮りながら踊ったりしている。
「仕事終わりで疲れているのに、ごめんね。咽喉が渇いたようなら、このペットボトルを飲んでもらっていいから。あまり時間はないけど、お腹がすいているようなら、どこかに寄って食事をしてもいいし」
運転しながら、藍人がドリンクホルダーを目線で指して言う。先ほどよりも、口調が砕けていることに安堵する。敬語で詰め寄られるよりかは、こっちの方がまだ気楽だ。
「いえ、咽喉も腹も大丈夫です。あの、それより時間がないなら、俺の方はまた今度でもいいんですが……」
ひとまずこの場から逃げたくてそう提案してみると、藍人は冗談でも聞いたかのようにハハッと楽しげな笑い声をあげた。
「保さんがいないと意味がないよ」
「お、俺がいないと?」
「だって、これから僕の引退と婚約の会見を開くんだから」
「へ……はぁ!?」
サラッと吐き出された爆弾発言に、とっさに素っ頓狂な声が溢れた。
「い、引退? こっ、婚約ぅ?」
「うん、そうだよ」
保が呆然と口を開いていると、藍人は顔を動かさぬまま視線だけを斜め後ろにチラと向けた。
「猿渡(さわたり)さん、会見の準備の方は大丈夫そう?」
「はい。あと一時間後に、会場の予約もお取りできました」
後方から少し幼さを感じる高めな声が聞こえて、保はギョッと目を見開いた。
慌てて後部座席を見遣ると、そこには先ほどスタジオで見た女性マネージャーが座っていた。目元には大きな丸眼鏡をかけており、肩まで伸びた黒髪をうなじの辺りで一つに結んでいる。体格も小柄で化粧も薄いので、芸能マネージャーというよりも就活中の大学生みたいに見えた。
保が女性を凝視していると、藍人が、あぁ、と小さく声を漏らした。
「彼女は猿渡(さわたり)昭子(あきこ)さん。僕の有能なマネージャー」
「はい、有能なマネージャーの猿渡です。以後よろしくお願いします」
猿渡が生真面目そうな声でハキハキと言う。保は目を丸くしたまま、ぎくしゃくとした動きで会釈をした。
「すいません、気付かなくて……」
「いえ、普通はタレントに運転させて、マネージャーが後部座席に座っているとは思わないですよね」
気まずそうに謝る保に対して、猿渡は謝罪不要とばかりに片手を上げた。注釈を入れるように、藍人が口を挟む。
「猿渡さんは仕事はものすごく優秀なんだけど、運転だけちょっと特殊なんだよね」
「運転が特殊?」
特殊というのは、どういう意味なのか。普通は『運転が苦手』って言わないか?
保が怪訝な表情をしていると、藍人は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
だが、すぐにそんなことを話している場合ではないことを思い出した。もっとヤバい発言を聞いていたのだった。
「それより、引退とか婚約ってどういうことですか?」
「あぁ、元々事務所とそういう契約をしていたんだよね。『運命』が見つかったら、すぐに僕はこの仕事を辞めるって。もちろん完全な引退は、今受けてる仕事を全部終わらせてからになるけど」
事もなげな藍人の説明に、あんぐりと口を開く。
いやいや、何を言っているんだ。七年間も人気を維持してきて、CMにもTVにも引っ張りだこなイケメン俳優が、呆気なく引退する? しかも、運命を見つけたという理由で?
目線だけで軽く振り返った藍人が、猿渡に問い掛ける。
「そうだよね、猿渡さん?」
「はい、その通りです。契約書にもその旨がはっきり記載されています」
「社長はどう? 納得してくれそう?」
「先ほどから私へのメッセージが止まらないのと、現時点で三十件ほど留守電が入っています」
言いながら、猿渡がスマホの画面をこちらへと向けてくる。画面を見ると、メッセージ通知が百件を軽く超えているのが見えて、保は、ぅひえっ、と妙な声をあげてしまった。
更に猿渡が留守電の再生ボタンを押すと、スピーカーから絶叫が溢れ出してきた。
『藍人ぉおぉお、思い直してくれえええぇ!! 藍人が辞めたら、うちの会社潰れちゃうぅううぅ!!』
ビブラートのきいた断末魔が、ブツッと猿渡の指によって無情に切られる。そうして、猿渡は落ち着いた声で言った。
「この通り、まったく問題ありません」
「問題しかねぇじゃん!!」
耐え切れず、素のままツッコミを入れてしまった。すると、運転席の藍人が、ふはっ、と小さく噴き出すのが聞こえた。笑いが止まらないのか、片手の甲を口元に当てて、肩を小さく震わせている。
テレビでは見たことのない屈託のない表情に、保は一瞬状況を忘れて見入ってしまった。暗い車内だというのに、また藍人の姿がチカチカと煌めいて見える。
「社長は大袈裟に言ってるけど、僕が辞めたぐらいじゃ会社は潰れないよ」
「はい、八十五度に傾くくらいです」
笑い混じりの藍人の言葉に、猿渡が冷静な口調で続ける。自分の会社が傾くというのに、ひどく淡々とした口調だ。
いやいや、ピサの斜塔だって四度ぐらいしか傾いてないのに、八十五度ってほぼ倒れてるじゃん。むしろ倒壊って言ってもいいぐらいじゃん。
そうツッコミたくても、もう呆然としすぎて言葉が出てこなかった。
だが、もう一つ確認しないといけないことを思い出すと、保は強張った咽喉から必死に声を漏らした。
「そ……それに、婚約っていうのは……?」
怯えた口調で問い掛けると、藍人の口角が薄く吊り上がるのが見えた。その愉しげな表情に、またぞわっと背筋が震えそうになる。
「僕と保さんの婚約って意味だけど」
「は……?」
「本当は今日中に婚姻届を出して結婚したいぐらいなんだけど、それは僕の仕事が完全に片付くまで待って欲しい。でも、指輪は明日にでも一緒に買いに行こうか。保さんは、どこのブランドが好きとかある? あ、家もとりあえずうちに引っ越してもらってもいいかな? 新居を一戸建てにするかマンションにするかは、二人でゆっくり決めていけばいいと思うんだけど――」
「ちょっ……ちょちょ、ちょっと待ったーーーッ!!」
一方的に語られていく未来予想図を、保は大声で遮った。ピタリと口を止めた藍人を凝視したまま、唇をぎこちなく動かす。
「な……何言ってんすか……?」
自分の口から途方に暮れた声が漏れる。藍人は不思議そうに首を小さく傾げると、静かな声で問い掛けてきた。
「だって、僕らは『運命』なんだから結ばれるのが当然だろう?」
空は青い、カラスは黒い、と子供が呟くみたいな、至極当然と言わんばかりの口調だった。自分の台詞に欠片の疑問も抱いていない藍人の姿に、保はかすかに寒気が走るのを感じた。
同時に、初めて運命というものが恐ろしいと思った。初めてテレビで藍人を見たときは、運命を見つけたことに胸が高鳴ったし、途方もない幸福感も覚えた。だが、今は運命が『見えない鎖』になって自分や藍人を縛り付けているように思える。
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