【書籍化決定】カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子

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第三章

13 ボーナスの対価

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 インタビュー収録後に汗だくになりながら機材の片付けを行っていると、背後から聞き慣れた声が耳に入った。


「保さん、お疲れ様」


 しゃがみ込んだまま振り返ると、予想通りにこにこと微笑む藍人が立っていた。凄まじい量のライトを浴びて長時間のインタビューを受けていたのに、その額には汗一つ滲んでいない。


「お疲れ様です」


 この人、汗腺ぶっ壊れてるのか? と思いながら、首にかけているタオルで顔の汗を拭きながら挨拶を返す。

 いつもなら収録後に、藍人が「また後でね」などと声をかけて、保の仕事が終わるまで地下駐車場で待っているのが流れだった。藍人がこの局で仕事をする日は、彼の車で自宅まで送ってもらうことが馴染んでしまった。藍人と食事に行ったのも、もう両手では数え切れないほどだ。

 三月に出会ってからすでに四ヶ月が経過して、いつの間にか季節は真夏に移り変わっていた。その四ヶ月の間に、藍人がいる日々に慣れてしまっていることに、保はじんわりと危機感を覚えていた。透明な水に一滴藍染めの液を垂らすみたいに、藍人という存在が自分の生活にじわじわと染み込んでいっているような感覚だ。

 そのくせ、藍人は一向に保に手を出してこなかった。


『早く番になりたい』
『保さんと結婚したい』


 なんて甘ったるい言葉はしょっちゅう吐くくせに、無理やり家に誘ったり、ホテルに連れ込んだりするようなこともない。普段は強引なのに、最後の最後には保の気持ちを待つような藍人の思いやりが、保には堪らなく歯がゆかった。


 ――いっそ、ものすごくひどいことをして嫌いにならせてくれればいいのに。


 時々、そんな無責任で残酷なことを考えたりする。結局、突き放すだけの理由も見つけられず、ずるずると藍人との曖昧な関係は続いていた。

 挨拶を返したというのに、藍人は保の前から立ち去る気配はなかった。ただ、にまにまと子供っぽい笑みを浮かべて、保をじっと眺めている。


「何ですか、にやにや笑って」


 やや引き気味な声でそう訊ねると、藍人は保と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。そのまま、保の顔を覗き込んでくる。


「保さんはお盆休みは取るの?」


 完全不定休な局職員ではあるが、長期連休の際には連休前後に二、三日程度の休暇を取らせてもらっていた。藍人が言っているのは、その休みのことだろう。


「一応、お盆明けぐらいに休みをもらう予定ですけど……」


 機材を箱に収めながら、何でそんなことを聞いてくるんだ、という眼差しで藍人を見やる。保の返答を聞くと、藍人はにまーっと笑みを深めた。その笑みに、嫌な予感が走る。


「ご実家に帰る予定?」
「……帰る、予定ではありますけど……」


 地元から出て、初めての休暇だ。親も心配しているだろうし、流石に実家に顔を出さないわけにもいかまい。

 保がおずおずとした声で答えると、藍人は可愛い子ぶるみたいにコテンと首を傾げた。


「僕も一緒に――」
「あ、すいません、ちょっと鬼村さんに呼ばれた気がするんで」


 最後まで聞く前に、保は立ち上がって、藍人に背を向けて歩き出した。一刻も早くこの場から立ち去ろうと、股が千切れそうなぐらい大股で進む。

 だが、数歩進んだところで、藍人ののどかな声が聞こえてきた。


「保さん、夏のボーナス額は聞いた?」


 藍人らしくない不躾な問い掛けに、ピタリと足を止める。ギギッと軋んだ動きで振り返ると、藍人が貼り付いたような笑みを浮かべていた。


「額は予想よりも多かった?」


 すべてを理解しているような藍人の質問に、保は口角を引き攣らせた。

 先日、上長から夏のボーナス額を聞いたが、それは転職時に提示されていた額よりもずっと多かった。だが、額が跳ね上がった理由は、保にも察しがついた。


「お……多かったです……」
「それはどうして?」


 片手を腰に当てて、藍人が悠々と訊ねてくる。保はガックリと肩を落としながら、弱々しい声で答えた。


「藍人さんのミラクルショットを撮ったからですかね……」


 保の返答を聞くと、藍人は満面の笑みを浮かべた。まるで『よくできました』と生徒を褒める教師のような表情だ。

 藍人がウキウキとした声音で言う。


「新潟って、イタリアンっていうご当地グルメがあるんだよね」
「……」
「それに日本酒もすごく美味しいみたいだし」
「……」
「現地で飲んでみたいなぁ」


 これは誘導尋問というか、ほぼ脅迫に近くないか? 『ボーナスがあがった理由が分かったなら、これからどうすればいいか分かってるよな?』って言ってるのと同じだよな?

 そう思いながらも、保はグッと反論の言葉を呑んで、鈍い声を漏らした。


「俺で良げれば……ご案内じますうぅ……」


 腹に力を込めすぎたせいで、声が濁音混じりになってしまった。途端、藍人がパッと表情を明るくする。


「嬉しいなぁ。保さんはご実家に泊まるんだよね。僕はどうしようかなぁ」
「狭い家ですが……うちで良げれば、是非お泊まりぐだざい……」


 苦渋という苦渋を嘗めまくったガラガラ声で言うと、藍人は「ええっ」と白々しい声をあげた。


「いいのかな。家族団欒の邪魔にならない?」
「大丈夫です……」
「うわぁ、有り難う。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。保さんのご両親や妹さんへのお土産は何がいいかな。妹さんは、保さんの四つ下だから今二十一歳だよね。好きな食べ物とかあったりする? それか好きなタレントさんがいるなら、事前にサインをお願いしておくけど」
「どうか、お気遣いなく……」


 というか、妹が好きな俳優は貴方なので、貴方が目の前に現れたらたぶん発狂すると思いますよ。そう伝えるだけの気力も湧かず、保は蚊の鳴くような声を返した。

 しょぼしょぼな顔をする保に対して、藍人は見るからにはしゃいだ様子だった。その頬が、まるで無邪気な子供みたいに淡い薔薇色に染まっている。


「また、保さんの休みが決まったら連絡して。何が何でも休暇をもぎ取るから」
「無茶なこと言ったら、猿渡さんに怒られますよ……」
「お詫びにピエール・エルメのマカロンを渡しておくよ。彼女は無類の甘党だから」


 果たしてマカロンぐらいで、超困難なスケジュール調整を許容してくれるものなのか。

 保が首を傾げていると、不意に藍人が寂しげに眉尻を下げた。


「それに、もう少ししたら映画撮影が始まって、保さんにもなかなか会えなくなると思うから、たぶん猿渡さんも分かってくれると思う」


 藍人の言葉に、保はわずかに心臓が跳ねるのを感じた。だが、よくよく考えてみればそうだ。先ほどのインタビューで話していたように、藍人はまもなく沖永監督の映画撮影に入るのだ。こうやって局に現れたり、仕事終わりに気軽に食事に行ったりすることも難しくなるだろう。

 生活に馴染みかけていた藍人が突然消えてしまうのかと思うと、胸の奥にポッカリと穴が空いたような喪失感を覚えた。藍人に離れてほしいと思いながら、実際離れていくと分かったら寂しいと思ってしまうなんて現金なものだと思う。

 保が黙り込んでいると、藍人は視線を伏せたまま唇を開いた。


「保さんに会えないのは寂しいけど、少しだけ楽しみでもあるんだ」
「楽しみ?」
「これまではお決まりの表情や役柄しか求められなかったけど、沖永監督はもっと新しい自分を出せって、もっと腹の底をさらけ出せって言ってくれるから、どんな風に演じようか考えてるだけでワクワクしてくるんだ。七年この仕事をやってきて、今が一番楽しいって思えてるかもしれない」


 そう呟くと、藍人は薄く微笑みを浮かべた。


「僕にそう思えるチャンスをくれたのは保さんだよ」
「いや、だから、俺は――」


 ただ藍人という被写体が良かったから、沖永監督から声がかかったのだと言い返そうとする。だが、言葉半ばで遮るように、藍人が首を左右にゆっくりと振った。それから、ゆるやかに微笑む。


「今の僕を撮(うつ)すなら、どこから撮(うつ)す?」


 突然の問い掛けに、保はパチリと一度瞬いてから反射的に答えた。


「右斜め四十五度の角度から」
「それはどうして?」
「藍人さんは顎の輪郭がシャープなので、その角度が一番顔周りが綺麗に映るんです」
「じゃあ、今なら?」


 藍人が目を細めて、左側の口角を薄らと吊り上げる。少し嗜虐心を滲ませた表情だ。


「左の斜め下から撮ります」
「それもどうして?」
「清水さんは左側の犬歯が少しだけ尖っているので、斜め下側から撮(うつ)すとそれが際立つんです。唇から鋭い犬歯が覗くと、獰猛さが滲んで視聴者の目に残るので。もちろん共演者がいたり、場合によっては違う位置や角度から撮った方がいいときもありますけど……」


 そう説明しながら、自分は一体何を聞かれているのだろうと不思議になる。

 保が首を傾げると、藍人は両腕を組んだまま大きく息を漏らした。


「それって僕だけじゃなくて、他の演者のときもそういうことを考えてるの?」
「えっ、当然じゃないですか」


 保が平然とした口調で答えると、藍人は一瞬ガックリと肩を落とした。自身の額を押さえたまま、藍人が困惑した声で呟く。


「ここまで言って、なんで自覚がないのかなぁ」


 藍人がチラッと保を見やる。だが、保が訳が分からないと言いたげに眉を寄せているのを見ると、大きくため息を漏らした。


「本当は、保さんには僕しか撮(うつ)して欲しくないんだけどね」
「そりゃ無理ですよ」
「分かってるよ。仕事中は我慢する。我慢、してる」


 最後の一言は、わずかに悔しげな響きを滲ませていた。まるで駄々っ子が必死に己を律しているような口調だ。

 拗ねたように細められた藍人の目を見て、保は思わず噴き出してしまった。


「俺が他の人を撮る度に、そんなことを思ってるんですか?」


 笑い混じりに訊ねると、藍人はこくんと子供みたいにうなずいた。


「思ってるよ。保さんに撮ってもらえていいな、ずるいな、って」
「ずるいって」
「保さんには、僕だけを見てほしい」


 思いがけず真剣な口調で言われて、言葉が出てこなくなった。口を開いたまま、じっと藍人を見上げる。藍人は真面目な表情で、保を見返していた。

 いつもの朗らかだったり、意地悪だったりする表情とは違う。心をまっすぐ捧げてくるような眼差しに、息が止まりそうになる。その熱を孕んだ瞳の奥に、チカチカと輝く星が見えた気がした。


「おい、芦名! 機材片したなら、こっち手伝え!」


 鬼村の声が聞こえた瞬間、身体の硬直がほどけた。ハッと息を呑んで、鬼村の方へ顔を向ける。


「はい、すいません! すぐ行きます!」


 そう声を返しながら、慌てて足下の機材を箱に詰めていく。慌ただしく動いていると、頭上から藍人の声が振ってきた。


「ごめんね、長々と話しちゃって。僕からも鬼村さんに謝っておくから、お仕事頑張ってね」


 視線をあげると、藍人が軽く手を振って去って行くのが見えた。その姿をぼんやりと眺めていると、再び鬼村が「芦名ァ!」と叫ぶ声が聞こえてくる。


「はい、すいません! 申し訳ないです!」


 叫び返しながら、保は手元に視線を落として、片付けに集中した。
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