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五十崎檀子の手記
二十二
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ですがそのときわたしは唐突に、天井に浮く少女の首が、ひどく不安そうにあちこちに視線を走らせているのに気がついたのです。すると一瞬にして奇妙な感覚が自分の胸に来すのを感じました。
確かに人形のそれと思っていた首がいきなり目を開いて宙に浮き、あまつさえ生きた人間とまったく同じようにきょろきょろと辺りを窺っているという光景だけを切り取って見るならば、これ以上に不気味で恐ろしいものはありませんが、しかしこの瞬間に見た少女の首の周囲を窺うその様は、如何にも頼りなく儚げで、健気にさえ映って見えました。それに、大きな黒い瞳を開いた顔は、目を閉じていたときよりもずっと可憐で美しく、高貴な印象をすらわたしに与え、ますます強く心を惹きつけて離さないのでした。
わたしの恐怖は、突如として湧いた少女の首への、まるで他人とは思えぬほどの同情心によって押し流されてしまいました。もはやわたしにとって、その首が何であるかというようなことは一切重要性を失っていました。──と言うよりも、そのときのわたしは、宙に浮いて心もとない目線を蔵のあちこちに送っているその首を、一人の真に生きている人間の少女と見ていました。
少女の首はしきりに辺りを見回しているだけで、すぐ真下にいる祖父や李大龍の姿は見えていないようでした。やがて黒い宝石のような瞳にみるみる涙を浮かべると、可憐な唇をうっすらと開き、つぼみが雨に打たれて震えるような声で、何か同じ言葉を繰り返し始めました。それがわたしには「ビーシア」だとかいう風に聞こえたのですが、どうやら何かを──というよりは誰かを必死に捜しているようなのでした。その切々と訴えかけるような風情が胸に迫り、わたしは悲しくてたまらない気持ちになってしまいました。
しかし祖父は少女の声を聞くといよいよ驚愕して腰を抜かし、埃の煙を上げながら板の間に座り込みました。
「ば、化け物……!」
祖父がそう叫んだのを聞いたわたしは、何故だかひどく傷ついてしまいました。わたしに向かって投げつけられた言葉でもないのに、化け物と言うその言葉が胸に深く突き刺さったのでした。
少女の首はやはり蔵の天井に浮いたままひたすら周囲を見回して求めるものを捜し続けていましたが、その混乱と悲しみはみるみる大きく膨れ上がっていくようでした。ぽろぽろと真珠のような涙が黒い瞳からこぼれ落ち、先ほどと同じ言葉を繰り返すうちに、その声の調子は次第に絶叫の体に変わり始めていました。
「お、おいっ。これはいったいどういうことだ!? こ、こいつは人形なんかじゃない。なんでこんな化け物がうちの蔵に……!?」
李大龍は青い光を湛えた瞳で少女を見上げ、低く押し込めたような声で、
「……その言葉は、彼女を正確に表現していません。彼女は確かに……このような姿のまま気の遠くなるような年月を生き永らえて来ましたが、それでも彼女を鬼怪──化け物という言葉で言い表すには、あまりにも不憫です」
「し、しかしどう見たってこれは……っ」
「──今はまだ、彼女は人の心を保っている。しかしあなた方の彼女とこの箱篋に執着する心が、彼女の心を変じさせようとしているのです。箱から出て外気に触れたせいで変容はより早く進むでしょう」
「な、何だと……!? なんでわしがこんな化け物なんぞに執着すると言うんだ……っ。だ、だいたいさっきから言う『あなた方』というのは誰のことだ!?」
わたしは瞬間、李大龍があるいはわたしと祖父を指して「あなた方」と言っているのではと思い、心臓が大きく脈打つのを感じました。
と、そのとき不意に、宙に浮かんだ少女の首が動いて、泣き濡れた黒い瞳が祖父をとらえました。途端に少女の顔には明るい歓喜の色が輝き、いきなり高い空から地上の獲物を目掛けて駆け下りてくる鳶の如く、凄い勢いで祖父の胸に舞い降りて飛び込みました。祖父は悲鳴を上げて少女の首から顔を背け、なんとか逃れようとしましたが、震える足には力が入らず、いたずらに板の間を滑るだけでした。
確かに人形のそれと思っていた首がいきなり目を開いて宙に浮き、あまつさえ生きた人間とまったく同じようにきょろきょろと辺りを窺っているという光景だけを切り取って見るならば、これ以上に不気味で恐ろしいものはありませんが、しかしこの瞬間に見た少女の首の周囲を窺うその様は、如何にも頼りなく儚げで、健気にさえ映って見えました。それに、大きな黒い瞳を開いた顔は、目を閉じていたときよりもずっと可憐で美しく、高貴な印象をすらわたしに与え、ますます強く心を惹きつけて離さないのでした。
わたしの恐怖は、突如として湧いた少女の首への、まるで他人とは思えぬほどの同情心によって押し流されてしまいました。もはやわたしにとって、その首が何であるかというようなことは一切重要性を失っていました。──と言うよりも、そのときのわたしは、宙に浮いて心もとない目線を蔵のあちこちに送っているその首を、一人の真に生きている人間の少女と見ていました。
少女の首はしきりに辺りを見回しているだけで、すぐ真下にいる祖父や李大龍の姿は見えていないようでした。やがて黒い宝石のような瞳にみるみる涙を浮かべると、可憐な唇をうっすらと開き、つぼみが雨に打たれて震えるような声で、何か同じ言葉を繰り返し始めました。それがわたしには「ビーシア」だとかいう風に聞こえたのですが、どうやら何かを──というよりは誰かを必死に捜しているようなのでした。その切々と訴えかけるような風情が胸に迫り、わたしは悲しくてたまらない気持ちになってしまいました。
しかし祖父は少女の声を聞くといよいよ驚愕して腰を抜かし、埃の煙を上げながら板の間に座り込みました。
「ば、化け物……!」
祖父がそう叫んだのを聞いたわたしは、何故だかひどく傷ついてしまいました。わたしに向かって投げつけられた言葉でもないのに、化け物と言うその言葉が胸に深く突き刺さったのでした。
少女の首はやはり蔵の天井に浮いたままひたすら周囲を見回して求めるものを捜し続けていましたが、その混乱と悲しみはみるみる大きく膨れ上がっていくようでした。ぽろぽろと真珠のような涙が黒い瞳からこぼれ落ち、先ほどと同じ言葉を繰り返すうちに、その声の調子は次第に絶叫の体に変わり始めていました。
「お、おいっ。これはいったいどういうことだ!? こ、こいつは人形なんかじゃない。なんでこんな化け物がうちの蔵に……!?」
李大龍は青い光を湛えた瞳で少女を見上げ、低く押し込めたような声で、
「……その言葉は、彼女を正確に表現していません。彼女は確かに……このような姿のまま気の遠くなるような年月を生き永らえて来ましたが、それでも彼女を鬼怪──化け物という言葉で言い表すには、あまりにも不憫です」
「し、しかしどう見たってこれは……っ」
「──今はまだ、彼女は人の心を保っている。しかしあなた方の彼女とこの箱篋に執着する心が、彼女の心を変じさせようとしているのです。箱から出て外気に触れたせいで変容はより早く進むでしょう」
「な、何だと……!? なんでわしがこんな化け物なんぞに執着すると言うんだ……っ。だ、だいたいさっきから言う『あなた方』というのは誰のことだ!?」
わたしは瞬間、李大龍があるいはわたしと祖父を指して「あなた方」と言っているのではと思い、心臓が大きく脈打つのを感じました。
と、そのとき不意に、宙に浮かんだ少女の首が動いて、泣き濡れた黒い瞳が祖父をとらえました。途端に少女の顔には明るい歓喜の色が輝き、いきなり高い空から地上の獲物を目掛けて駆け下りてくる鳶の如く、凄い勢いで祖父の胸に舞い降りて飛び込みました。祖父は悲鳴を上げて少女の首から顔を背け、なんとか逃れようとしましたが、震える足には力が入らず、いたずらに板の間を滑るだけでした。
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