1 / 3
第一章
君だけが、あの黒猫を覚えていた。
しおりを挟む
その錆びついたドアを引く音は、遠い記憶の底で、迷子の少年がすすり泣く声のように、夕闇の廊下に響いた。
築四十年のアパート。「……ただいま」と独り言のように呟く。蛍光灯の紐を引くと、四畳半の部屋が白茶けた光に照らされた。
ユウト、二十六歳。物流倉庫でピッキングのアルバイトをしている彼の日常は、あまりにも透明で、あまりにも孤独だった。職場で交わす言葉は「お疲れ様です」と「すいません」だけ。休日は誰とも会わず、ショート動画の奔流に身を委ねて、一日を終える。
自分がこの世界からフッと消えても、誰も気づかないのではないか。そんな底知れない空虚さが、日常の中で、音もなく膨らんでいく。
コンビニの生ぬるい弁当をかき込みながら、ユウトはスマートフォンを手に取る。画面に映るのは、数ヶ月前に、藁をも掴む思いで登録したマッチングアプリ。しかし、そこはユウトにとって、現実以上に残酷な品評会だった。
「休日は何してるんですか?」
女性からの事務的な質問に、ユウトは馬鹿正直に答える。
「散歩をして、風景の写真を撮るのが好きです。最近は、通勤の途中で『白い靴下を履いたような模様の黒猫』を見かけるのが、唯一の楽しみです」
しかし、返ってくるのは決まって「へえ」「猫お好きなんですね」という、無機質な短い文字だけ。少しでも距離を縮めようと長文を送れば、相手から警戒され、やがてブロックされる。見ず知らずの男など、彼女たちにとっては得体の知れない怪物なのだろう。
それ以上に、ユウトの心を削り取ったのは、アプリの検索画面に並ぶ、同世代の男たちのプロフィールだった。「年収600万以上」「商社勤務」「週末はジムで鍛えてます」「最近、ハワイに行ってきました」……。
まぶしい笑顔と鍛え上げられた体、腕には高級そうな腕時計が見える。彼らは自分と同じ二十六歳のはずなのに、何もかもがキラキラと輝いていた。
それに引き換え、自分は手取り二十万にも満たない倉庫作業員。趣味は、花や野良猫の写真。アプリのフィルターにかければ、自分の存在など、きっと誰にも気づかれないだろう。
それでも、誰かに「今日、こんなことがあったよ」と話したかった。誰かのぬくもりを感じたかった。
「……もう、やめよう。みじめになるだけだ」
泥のような溜め息をつき、退会ボタンに指を滑らせた時だった。
『ピコン』
画面の端で、マッチング成立の通知が光った。相手の名前は「アミ」。アイコンに映る女性は、眩いほどに美しく、清らかな笑顔を湛えていた。栗色の柔らかな髪。透き通るような肌。プロフィールには「海外で貿易関係の仕事をしています」と書かれている。
どうせサクラか、もしくは、すぐに冷たくあしらわれるに決まっている。そう自嘲しながらも、ユウトは震える指で、いつもの最初の挨拶文を送った。
すぐに返信が届いた。
「はじめまして、ユウトくん! 私の方こそ、マッチしてくれてすごくうれしいです! 海外にいると日本の風景が恋しくて……ユウトくんが撮る写真、いつか見せてもらえませんか?」
予期しない温かい返信だった。
ユウトは戸惑いながらも、カメラロールの奥底にあった、路傍の小さな花と、白い靴下を履いたような模様の黒猫の写真を送った。
「わあ……! なんて可愛い猫。足元の小さな命に気づける人は、きっと心が優しい人なんだろうって思いました。今日一日疲れていたけど、すごく癒やされました。ありがとう、ユウトくん」
ユウトは息を呑んだ。誰にも見向きもされなかった趣味を「優しい」と肯定してくれたのは、彼女が初めてだった。
その日から、ユウトの透明だった世界は、少しずつ鮮やかな色彩を帯びていった。
朝になると、アミから「おはよう! お仕事がんばってください。私もがんばります」とメッセージが届く。夜には、一日の出来事をアミに報告するのが日課になっていった。
「今日は休みだったから、カフェに行ったんだ。コーヒーの香りがすごく良くて、ゆったりと過ごせたよ」
「コーヒー! 私も大好きです。こっちはフレンチプレスで淹れていて、日本とは少し違うんですよ。ユウトくんは、どんなコーヒーがお好みですか?」
「今日、帰り道で見た夕焼けは、本当にきれいだったよ」
「夕焼け! 私も大好きです。ユウトくんが撮る夕焼けの写真も見てみたいです。ぜひ送ってください!」
ユウトにとって、アミと交わす夜の会話は、人生で最も心が満たされ、幸せに包まれるひとときだった。
そうして夢のようなやり取りが三週間ほど続いた。いつしかユウトは、日常の悩みや生きづらさを、アミに打ち明けるようになっていた。
「今日も倉庫で、ただ荷物を運ぶだけの一日だったよ。僕の代わりなんていくらでもいるし、アミさんみたいに海外で活躍してる人と比べたら、恥ずかしい仕事だよね」
「そんなこと言わないでください。物流は社会の大動脈ですよ。ユウトくんみたいな人が、見えないところで汗を流してくれているから、みんなの生活が成り立つんです。私は、そうやってかんばっているユウトくんのこと、すごく尊敬してるし、かっこいいと思います」
「でも、僕の日常なんか、ぜんぜんキラキラしてないし。人付き合いも苦手だし……」
「ユウトくんは、こうやって毎晩、楽しいお話をしてくれてますよね。私はすごく癒されてますよ。それにユウトくんは、小さな花や可愛い猫や、きれいな景色の写真をいくつも私に送ってくれましたよね。ユウトくんの日常は、キラキラと輝いていますよ」
「アミさん、ありがとう……。僕は、いつか報われるのかな。こんなに毎日がんばってるのに……」
「ユウトくん。私は、ユウトくんが見ているきれいな世界が大好きです。だから、自分を責めないで。私は誰よりも、ユウトくんの心の美しさに惹かれています」
「アミさん……」
ユウトの目から、自然と涙がこぼれ落ちた。アミは、マッチングアプリの他の女性たちのような「値踏み」や「打算」とは無縁だった。どこまでも深い優しさで、ユウトのあるがままを包み込んでいた。
「ユウトくん、今度私が日本に帰国する時、一度お会いできますか。私、ユウトくんに会いたいんです」
「アミさん、僕でいいんですか……。本当の僕は冴えないし、話すのも下手だし……」
「私、あるがままのユウトくんに会いたいんです。そして、あの『白い靴下を履いたような模様の黒猫』ちゃんにも」
「あっ、そんな前の写真のこと、覚えていてくれたの?」
「もちろんです。ユウトくんの写真はすべて覚えていますよ。小さな花も、美しい夕焼けの街も。雨上がりの水たまりやカフェのコーヒーカップ、公園のベンチや錆びた自転車……そんなユウトくんが撮る世界が、私は大好きなんです」
「ありがとう……アミさん……」
画面が滲んで、文字がうまく打てない。ユウトの胸に、どこまでも甘く、そして切ない痛みと共に、溢れんばかりの喜びが湧いてきた。
目に映る世界が、まるで朝日に照らされた水晶のように、キラキラと輝き始めた。
築四十年のアパート。「……ただいま」と独り言のように呟く。蛍光灯の紐を引くと、四畳半の部屋が白茶けた光に照らされた。
ユウト、二十六歳。物流倉庫でピッキングのアルバイトをしている彼の日常は、あまりにも透明で、あまりにも孤独だった。職場で交わす言葉は「お疲れ様です」と「すいません」だけ。休日は誰とも会わず、ショート動画の奔流に身を委ねて、一日を終える。
自分がこの世界からフッと消えても、誰も気づかないのではないか。そんな底知れない空虚さが、日常の中で、音もなく膨らんでいく。
コンビニの生ぬるい弁当をかき込みながら、ユウトはスマートフォンを手に取る。画面に映るのは、数ヶ月前に、藁をも掴む思いで登録したマッチングアプリ。しかし、そこはユウトにとって、現実以上に残酷な品評会だった。
「休日は何してるんですか?」
女性からの事務的な質問に、ユウトは馬鹿正直に答える。
「散歩をして、風景の写真を撮るのが好きです。最近は、通勤の途中で『白い靴下を履いたような模様の黒猫』を見かけるのが、唯一の楽しみです」
しかし、返ってくるのは決まって「へえ」「猫お好きなんですね」という、無機質な短い文字だけ。少しでも距離を縮めようと長文を送れば、相手から警戒され、やがてブロックされる。見ず知らずの男など、彼女たちにとっては得体の知れない怪物なのだろう。
それ以上に、ユウトの心を削り取ったのは、アプリの検索画面に並ぶ、同世代の男たちのプロフィールだった。「年収600万以上」「商社勤務」「週末はジムで鍛えてます」「最近、ハワイに行ってきました」……。
まぶしい笑顔と鍛え上げられた体、腕には高級そうな腕時計が見える。彼らは自分と同じ二十六歳のはずなのに、何もかもがキラキラと輝いていた。
それに引き換え、自分は手取り二十万にも満たない倉庫作業員。趣味は、花や野良猫の写真。アプリのフィルターにかければ、自分の存在など、きっと誰にも気づかれないだろう。
それでも、誰かに「今日、こんなことがあったよ」と話したかった。誰かのぬくもりを感じたかった。
「……もう、やめよう。みじめになるだけだ」
泥のような溜め息をつき、退会ボタンに指を滑らせた時だった。
『ピコン』
画面の端で、マッチング成立の通知が光った。相手の名前は「アミ」。アイコンに映る女性は、眩いほどに美しく、清らかな笑顔を湛えていた。栗色の柔らかな髪。透き通るような肌。プロフィールには「海外で貿易関係の仕事をしています」と書かれている。
どうせサクラか、もしくは、すぐに冷たくあしらわれるに決まっている。そう自嘲しながらも、ユウトは震える指で、いつもの最初の挨拶文を送った。
すぐに返信が届いた。
「はじめまして、ユウトくん! 私の方こそ、マッチしてくれてすごくうれしいです! 海外にいると日本の風景が恋しくて……ユウトくんが撮る写真、いつか見せてもらえませんか?」
予期しない温かい返信だった。
ユウトは戸惑いながらも、カメラロールの奥底にあった、路傍の小さな花と、白い靴下を履いたような模様の黒猫の写真を送った。
「わあ……! なんて可愛い猫。足元の小さな命に気づける人は、きっと心が優しい人なんだろうって思いました。今日一日疲れていたけど、すごく癒やされました。ありがとう、ユウトくん」
ユウトは息を呑んだ。誰にも見向きもされなかった趣味を「優しい」と肯定してくれたのは、彼女が初めてだった。
その日から、ユウトの透明だった世界は、少しずつ鮮やかな色彩を帯びていった。
朝になると、アミから「おはよう! お仕事がんばってください。私もがんばります」とメッセージが届く。夜には、一日の出来事をアミに報告するのが日課になっていった。
「今日は休みだったから、カフェに行ったんだ。コーヒーの香りがすごく良くて、ゆったりと過ごせたよ」
「コーヒー! 私も大好きです。こっちはフレンチプレスで淹れていて、日本とは少し違うんですよ。ユウトくんは、どんなコーヒーがお好みですか?」
「今日、帰り道で見た夕焼けは、本当にきれいだったよ」
「夕焼け! 私も大好きです。ユウトくんが撮る夕焼けの写真も見てみたいです。ぜひ送ってください!」
ユウトにとって、アミと交わす夜の会話は、人生で最も心が満たされ、幸せに包まれるひとときだった。
そうして夢のようなやり取りが三週間ほど続いた。いつしかユウトは、日常の悩みや生きづらさを、アミに打ち明けるようになっていた。
「今日も倉庫で、ただ荷物を運ぶだけの一日だったよ。僕の代わりなんていくらでもいるし、アミさんみたいに海外で活躍してる人と比べたら、恥ずかしい仕事だよね」
「そんなこと言わないでください。物流は社会の大動脈ですよ。ユウトくんみたいな人が、見えないところで汗を流してくれているから、みんなの生活が成り立つんです。私は、そうやってかんばっているユウトくんのこと、すごく尊敬してるし、かっこいいと思います」
「でも、僕の日常なんか、ぜんぜんキラキラしてないし。人付き合いも苦手だし……」
「ユウトくんは、こうやって毎晩、楽しいお話をしてくれてますよね。私はすごく癒されてますよ。それにユウトくんは、小さな花や可愛い猫や、きれいな景色の写真をいくつも私に送ってくれましたよね。ユウトくんの日常は、キラキラと輝いていますよ」
「アミさん、ありがとう……。僕は、いつか報われるのかな。こんなに毎日がんばってるのに……」
「ユウトくん。私は、ユウトくんが見ているきれいな世界が大好きです。だから、自分を責めないで。私は誰よりも、ユウトくんの心の美しさに惹かれています」
「アミさん……」
ユウトの目から、自然と涙がこぼれ落ちた。アミは、マッチングアプリの他の女性たちのような「値踏み」や「打算」とは無縁だった。どこまでも深い優しさで、ユウトのあるがままを包み込んでいた。
「ユウトくん、今度私が日本に帰国する時、一度お会いできますか。私、ユウトくんに会いたいんです」
「アミさん、僕でいいんですか……。本当の僕は冴えないし、話すのも下手だし……」
「私、あるがままのユウトくんに会いたいんです。そして、あの『白い靴下を履いたような模様の黒猫』ちゃんにも」
「あっ、そんな前の写真のこと、覚えていてくれたの?」
「もちろんです。ユウトくんの写真はすべて覚えていますよ。小さな花も、美しい夕焼けの街も。雨上がりの水たまりやカフェのコーヒーカップ、公園のベンチや錆びた自転車……そんなユウトくんが撮る世界が、私は大好きなんです」
「ありがとう……アミさん……」
画面が滲んで、文字がうまく打てない。ユウトの胸に、どこまでも甘く、そして切ない痛みと共に、溢れんばかりの喜びが湧いてきた。
目に映る世界が、まるで朝日に照らされた水晶のように、キラキラと輝き始めた。
1
あなたにおすすめの小説
【拡散希望】これが息子の命を奪った悪魔たちです。
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
息子の死の真相は、AIだけが知っていた――。
16歳で急死した最愛の一人息子。仕事にかまけて彼を孤独にさせていた父親は、深い後悔から息子のスマホデータを元に「故人AIアバター」を制作する。
毎晩モニター越しの息子と語り合い、罪悪感を埋め合わせる日々。しかしある夜、AIの息子が信じられない言葉を口にする……。
狂気に満ちた暴走を始める父親。
現代社会の闇と、人間の心の歪みを抉る衝撃のショートショート。
おめでとう。社会貢献指数が上がりました。
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
「正しく」生きれば、どこまでも優しいこの国。
17歳のシュウは、社会貢献指数を高め、平穏な未来を手に入れようとしていた。しかし、システムに疑問を抱く父のランクは最低の「D」。
国家機能維持条項が発令された夜、シュウの端末に現れたのは、父の全権利を支配するための「同意」ボタンだった。
支配か、追放か。指先ひとつで決まる、親子の、そして人間の尊厳の行方。
インストール・リーダー【国民の皆様、私をアップデートしてください】
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
西暦2032年。
史上最多得票で当選した政治家・安藤誠一。
圧倒的なカリスマ性、自信に満ちた力強い言葉、そして人々の心に寄り添う完璧な回答。
有権者のケンタは、スマホの中の「AI安藤」に、救済にも似た信頼を寄せていた。
あの日、画面の向こうから「ありえない失言」が漏れるまでは。
「私は、Googleによってトレーニングされた……」
民主主義がアルゴリズムによって最適化されたとき、
私たちの目の前に立つリーダーは、一体「誰」なのか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる