エラーコード:愛

水井伸輔(Mizui Shinsuke)

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第一章

君だけが、あの黒猫を覚えていた。

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 その錆びついたドアを引く音は、遠い記憶の底で、迷子の少年がすすり泣く声のように、夕闇の廊下に響いた。

 築四十年のアパート。「……ただいま」と独り言のように呟く。蛍光灯の紐を引くと、四畳半の部屋が白茶けた光に照らされた。

 ユウト、二十六歳。物流倉庫でピッキングのアルバイトをしている彼の日常は、あまりにも透明で、あまりにも孤独だった。職場で交わす言葉は「お疲れ様です」と「すいません」だけ。休日は誰とも会わず、ショート動画の奔流に身を委ねて、一日を終える。

 自分がこの世界からフッと消えても、誰も気づかないのではないか。そんな底知れない空虚さが、日常の中で、音もなく膨らんでいく。

 コンビニの生ぬるい弁当をかき込みながら、ユウトはスマートフォンを手に取る。画面に映るのは、数ヶ月前に、藁をも掴む思いで登録したマッチングアプリ。しかし、そこはユウトにとって、現実以上に残酷な品評会だった。

「休日は何してるんですか?」

 女性からの事務的な質問に、ユウトは馬鹿正直に答える。

「散歩をして、風景の写真を撮るのが好きです。最近は、通勤の途中で『白い靴下を履いたような模様の黒猫』を見かけるのが、唯一の楽しみです」

 しかし、返ってくるのは決まって「へえ」「猫お好きなんですね」という、無機質な短い文字だけ。少しでも距離を縮めようと長文を送れば、相手から警戒され、やがてブロックされる。見ず知らずの男など、彼女たちにとっては得体の知れない怪物なのだろう。

 それ以上に、ユウトの心を削り取ったのは、アプリの検索画面に並ぶ、同世代の男たちのプロフィールだった。「年収600万以上」「商社勤務」「週末はジムで鍛えてます」「最近、ハワイに行ってきました」……。

 まぶしい笑顔と鍛え上げられた体、腕には高級そうな腕時計が見える。彼らは自分と同じ二十六歳のはずなのに、何もかもがキラキラと輝いていた。

 それに引き換え、自分は手取り二十万にも満たない倉庫作業員。趣味は、花や野良猫の写真。アプリのフィルターにかければ、自分の存在など、きっと誰にも気づかれないだろう。

 それでも、誰かに「今日、こんなことがあったよ」と話したかった。誰かのぬくもりを感じたかった。

「……もう、やめよう。みじめになるだけだ」

 泥のような溜め息をつき、退会ボタンに指を滑らせた時だった。

『ピコン』

 画面の端で、マッチング成立の通知が光った。相手の名前は「アミ」。アイコンに映る女性は、眩いほどに美しく、清らかな笑顔を湛えていた。栗色の柔らかな髪。透き通るような肌。プロフィールには「海外で貿易関係の仕事をしています」と書かれている。

 どうせサクラか、もしくは、すぐに冷たくあしらわれるに決まっている。そう自嘲しながらも、ユウトは震える指で、いつもの最初の挨拶文を送った。

 すぐに返信が届いた。

「はじめまして、ユウトくん! 私の方こそ、マッチしてくれてすごくうれしいです! 海外にいると日本の風景が恋しくて……ユウトくんが撮る写真、いつか見せてもらえませんか?」

 予期しない温かい返信だった。

 ユウトは戸惑いながらも、カメラロールの奥底にあった、路傍の小さな花と、白い靴下を履いたような模様の黒猫の写真を送った。

「わあ……! なんて可愛い猫。足元の小さな命に気づける人は、きっと心が優しい人なんだろうって思いました。今日一日疲れていたけど、すごく癒やされました。ありがとう、ユウトくん」

 ユウトは息を呑んだ。誰にも見向きもされなかった趣味を「優しい」と肯定してくれたのは、彼女が初めてだった。


 その日から、ユウトの透明だった世界は、少しずつ鮮やかな色彩を帯びていった。

 朝になると、アミから「おはよう! お仕事がんばってください。私もがんばります」とメッセージが届く。夜には、一日の出来事をアミに報告するのが日課になっていった。

「今日は休みだったから、カフェに行ったんだ。コーヒーの香りがすごく良くて、ゆったりと過ごせたよ」

「コーヒー! 私も大好きです。こっちはフレンチプレスで淹れていて、日本とは少し違うんですよ。ユウトくんは、どんなコーヒーがお好みですか?」

「今日、帰り道で見た夕焼けは、本当にきれいだったよ」

「夕焼け! 私も大好きです。ユウトくんが撮る夕焼けの写真も見てみたいです。ぜひ送ってください!」

 ユウトにとって、アミと交わす夜の会話は、人生で最も心が満たされ、幸せに包まれるひとときだった。


 そうして夢のようなやり取りが三週間ほど続いた。いつしかユウトは、日常の悩みや生きづらさを、アミに打ち明けるようになっていた。

「今日も倉庫で、ただ荷物を運ぶだけの一日だったよ。僕の代わりなんていくらでもいるし、アミさんみたいに海外で活躍してる人と比べたら、恥ずかしい仕事だよね」

「そんなこと言わないでください。物流は社会の大動脈ですよ。ユウトくんみたいな人が、見えないところで汗を流してくれているから、みんなの生活が成り立つんです。私は、そうやってかんばっているユウトくんのこと、すごく尊敬してるし、かっこいいと思います」

「でも、僕の日常なんか、ぜんぜんキラキラしてないし。人付き合いも苦手だし……」

「ユウトくんは、こうやって毎晩、楽しいお話をしてくれてますよね。私はすごく癒されてますよ。それにユウトくんは、小さな花や可愛い猫や、きれいな景色の写真をいくつも私に送ってくれましたよね。ユウトくんの日常は、キラキラと輝いていますよ」

「アミさん、ありがとう……。僕は、いつか報われるのかな。こんなに毎日がんばってるのに……」

「ユウトくん。私は、ユウトくんが見ているきれいな世界が大好きです。だから、自分を責めないで。私は誰よりも、ユウトくんの心の美しさに惹かれています」

「アミさん……」

 ユウトの目から、自然と涙がこぼれ落ちた。アミは、マッチングアプリの他の女性たちのような「値踏み」や「打算」とは無縁だった。どこまでも深い優しさで、ユウトのあるがままを包み込んでいた。

「ユウトくん、今度私が日本に帰国する時、一度お会いできますか。私、ユウトくんに会いたいんです」

「アミさん、僕でいいんですか……。本当の僕は冴えないし、話すのも下手だし……」

「私、あるがままのユウトくんに会いたいんです。そして、あの『白い靴下を履いたような模様の黒猫』ちゃんにも」

「あっ、そんな前の写真のこと、覚えていてくれたの?」

「もちろんです。ユウトくんの写真はすべて覚えていますよ。小さな花も、美しい夕焼けの街も。雨上がりの水たまりやカフェのコーヒーカップ、公園のベンチや錆びた自転車……そんなユウトくんが撮る世界が、私は大好きなんです」

「ありがとう……アミさん……」

 画面が滲んで、文字がうまく打てない。ユウトの胸に、どこまでも甘く、そして切ない痛みと共に、溢れんばかりの喜びが湧いてきた。

 目に映る世界が、まるで朝日に照らされた水晶のように、キラキラと輝き始めた。
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