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第二章
ファインダー越しの世界
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夕闇が、まるで深海のように街を沈めてゆく。少し前まで淡い紅色に染まっていた路地は、やがて深遠なインディゴブルーの膜に包み込まれ、静謐なレクイエムを奏で始める。
ユウトは、重い一眼レフカメラを両手で構えた。ファインダーの向こうに広がる景色は、息をのむほどに美しく、そして、どうしようもなく哀しい。闇に沈んでいくビルの谷間、薄明かりに滲んでいくマンション群、大地に溶け込んでいく人々の後ろ姿。
日常という名の雑踏の中で、自分の輪郭を見失いそうになるたび、彼はこの小さなガラスの窓を覗いた。そこにはもう一つの清冽な世界があり、その一隅に、小さくてもかけがえのない「自分」という存在が、確かに息づいているのを感じるのだった。
ユウトにとって、ファインダー越しの景色だけが、彼と世界とをかろうじて繋ぎ留める、一筋の細い絹の糸だった。
彼は毎晩のように、街の断片を掬い上げ、それを一片の栞のようにアミに送り続けた。
「今日の夕焼けの街は、こんなにきれいだったよ」
「昼休みに撮った写真。ビルに反射する光が、まるで音楽のようにキラキラとゆれていたよ」
「今日はいつもの黒猫に会えなかったから、代わりに他の猫の写真を送るね。三毛猫の子猫だよ」
アミは、それらの写真に、いつも最大限の賛辞を返した。
「すごくきれいな夕焼けの街ですね。ユウトくんと一緒に見てみたいなあ」
「ドイツの街は歴史が重すぎて、時々、中世に迷い込んだような錯覚に陥ります。ユウトくんの街の写真は、私に元気を与えてくれます」
「可愛い子猫!! お母さん猫はそばにいましたか? ユウトくんは可愛い猫を見つける天才ですね!」
そんな他愛のないやり取りが、疲弊した彼の心に、砂漠の泉のような安らぎをもたらした。それはユウトにとって、どこまでも清らかで、どこまでもかけがえのない慈雨だった。
次第に、アミも自分の内面にある弱い部分を打ち明けるようになっていった。生い立ちの寂しさ、異国での孤独、そして体の微かな不調……。
「ごめんなさい。今日は生理痛で、朝から身体が重くて……。ずっとベッドの中で、ユウトくんが送ってくれた写真を眺めていました」
「アミさん、無理しないで。僕にできることがあれば、何でも言って。僕は、君のために何ができるだろうかって、そんなことばかり考えてるんだ」
「ありがとう。私はユウトくんの優しさに、本当に助けられています。ずっと海外にいて寂しかったけど、今はユウトくんがいるので寂しくないよ。私はユウトくんに出会って、本当に幸せです」
「僕もアミさんに出会って、本当に幸せだと思ってる。今は、こうしてやりとりをしたり、写真を送ったりすることしかできないけど、もっとアミさんを支えられるように僕もがんばるよ」
「ユウトくん、本当にありがとう。実は私、少し持病があって、時々落ち込むことがあるけど、ユウトくんの優しさに触れて、いつも元気をもらっています。ユウトくんがいてくれて、本当に良かった」
文字だけの対話だった。けれどそれは、日常のどんな声よりも深く、彼の胸の奥に沁みわたった。自分のすべてを彼女に捧げたい。彼女の弱さを包み込み、守り抜きたい。それが自分にとって、この世界に生きる唯一の意味だとさえ感じた。
ある夕暮れのことだった。ユウトは愛用のカメラを手に、見知らぬ坂道を上っていた。ファインダーを覗いた彼が、不意に指の動きを止めた。胸元のポケットの中で、スマートフォンが微かに震えたのだ。それは、いつもとは違う時間。アミからの新しいメッセージだった。
* * *
執筆の原風景
ユウトは、重い一眼レフカメラを両手で構えた。ファインダーの向こうに広がる景色は、息をのむほどに美しく、そして、どうしようもなく哀しい。闇に沈んでいくビルの谷間、薄明かりに滲んでいくマンション群、大地に溶け込んでいく人々の後ろ姿。
日常という名の雑踏の中で、自分の輪郭を見失いそうになるたび、彼はこの小さなガラスの窓を覗いた。そこにはもう一つの清冽な世界があり、その一隅に、小さくてもかけがえのない「自分」という存在が、確かに息づいているのを感じるのだった。
ユウトにとって、ファインダー越しの景色だけが、彼と世界とをかろうじて繋ぎ留める、一筋の細い絹の糸だった。
彼は毎晩のように、街の断片を掬い上げ、それを一片の栞のようにアミに送り続けた。
「今日の夕焼けの街は、こんなにきれいだったよ」
「昼休みに撮った写真。ビルに反射する光が、まるで音楽のようにキラキラとゆれていたよ」
「今日はいつもの黒猫に会えなかったから、代わりに他の猫の写真を送るね。三毛猫の子猫だよ」
アミは、それらの写真に、いつも最大限の賛辞を返した。
「すごくきれいな夕焼けの街ですね。ユウトくんと一緒に見てみたいなあ」
「ドイツの街は歴史が重すぎて、時々、中世に迷い込んだような錯覚に陥ります。ユウトくんの街の写真は、私に元気を与えてくれます」
「可愛い子猫!! お母さん猫はそばにいましたか? ユウトくんは可愛い猫を見つける天才ですね!」
そんな他愛のないやり取りが、疲弊した彼の心に、砂漠の泉のような安らぎをもたらした。それはユウトにとって、どこまでも清らかで、どこまでもかけがえのない慈雨だった。
次第に、アミも自分の内面にある弱い部分を打ち明けるようになっていった。生い立ちの寂しさ、異国での孤独、そして体の微かな不調……。
「ごめんなさい。今日は生理痛で、朝から身体が重くて……。ずっとベッドの中で、ユウトくんが送ってくれた写真を眺めていました」
「アミさん、無理しないで。僕にできることがあれば、何でも言って。僕は、君のために何ができるだろうかって、そんなことばかり考えてるんだ」
「ありがとう。私はユウトくんの優しさに、本当に助けられています。ずっと海外にいて寂しかったけど、今はユウトくんがいるので寂しくないよ。私はユウトくんに出会って、本当に幸せです」
「僕もアミさんに出会って、本当に幸せだと思ってる。今は、こうしてやりとりをしたり、写真を送ったりすることしかできないけど、もっとアミさんを支えられるように僕もがんばるよ」
「ユウトくん、本当にありがとう。実は私、少し持病があって、時々落ち込むことがあるけど、ユウトくんの優しさに触れて、いつも元気をもらっています。ユウトくんがいてくれて、本当に良かった」
文字だけの対話だった。けれどそれは、日常のどんな声よりも深く、彼の胸の奥に沁みわたった。自分のすべてを彼女に捧げたい。彼女の弱さを包み込み、守り抜きたい。それが自分にとって、この世界に生きる唯一の意味だとさえ感じた。
ある夕暮れのことだった。ユウトは愛用のカメラを手に、見知らぬ坂道を上っていた。ファインダーを覗いた彼が、不意に指の動きを止めた。胸元のポケットの中で、スマートフォンが微かに震えたのだ。それは、いつもとは違う時間。アミからの新しいメッセージだった。
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執筆の原風景
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