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第三章
薄い膜の向こう側
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秋風に舞い狂う枯葉のように、ざわめきが胸に込み上げる。画面に表示された文字を見た瞬間、ユウトの呼吸は凍りついたように止まった。
「ユウトくん。私は救急車で病院に運ばれました」
指先が微かに震え始める。かろうじて文字をタップする。
「え、どうしたの?」
「持病の卵巣腫瘍が突然ねじれてしまって、今すぐ緊急の摘出手術をしないといけないんです。手術をしないと命に関わると言われました」
「そんな……どうすればいい? 僕に何かできることはある?」
「ごめんなさい。私、混乱して、うまく言えないのですが」
その文字の連なりは、いつもの彼女の穏やかさとは違い、ぴんと張り詰めた緊張感に満ちていた。
「ドイツの民間保険に入っているんですが、外国人の持病が悪化した場合、保険が使えないと言われました。私は、そんなこと知りませんでした」
「じゃあ、手術はどうなるの?」
「外国人の場合、預かり金が必要で、18000ユーロだと言われました」
「日本円でいくらなの?」
「300万円です」
「え……そんなに?」
「貯金を使えば何とかなります。でも、少しだけ足りないのです」
「いくら足りないの?」
「30万円です。私には頼れる親戚もいなくて、友人も仕事上の付き合いばかりです」
「30万……。それって今すぐ必要なの?」
「前金で払わないと、手術ができないと言われました」
「じゃあ、今すぐ30万が必要なんだね。分かった。僕が何とかする」
「ユウトくんは、そんなにお金を持ってないですよね」
「でも、30万なら何とかなる。後でまた連絡するね」
彼は銀行のアプリを立ち上げ、残高を確認した。33万円。日々の切り詰めた生活の中で、いざという時のために貯めていた全財産だった。この30万円を彼女に送れば、彼女を助けることができる。しかし、貯金が底をつけば、僕の生活はどうなるのだろう。いや、僕の生活などどうでもいい。彼女の命がかかっているんだ。このお金で彼女が助かるなら。
彼は彼女の口座番号を聞き、海外送金で30万円を振り込んだ。自分の口座の残高は、31088円。しかし、彼に後悔はなかった。
「ユウトくん、ありがとう。これですぐに手術を受けることができます。ユウトくんのお金は、退院してから必ず返します」
「アミさん、こんな僕でも役に立ててうれしいよ。僕は、今までずっと君に支えられてきた。その恩返しをしたいと思っていた。だから、少しだけ恩返しができて、とても幸せだよ。お金は返さなくてもいい。絶対に元気になって、またいろんなことを話そう」
「ユウトくん、ありがとう。手術が終わったら、すぐに連絡します」
その夜、彼はほとんど眠れなかった。薄闇の染みついた天井の木目をじっと見つめながら、遠い異国の空の下で、病院のベッドに横たわっている彼女の姿を、祈るように想い続けていた。
どこか光の届かない深海の淵を、僕はあてもなく彷徨っている。そこはひっそりとした寂寥に満たされ、あまりに深く、あまりに哀しい。僕はただ、もはや手が届かないほど遠くに行ってしまった誰かの面影を求めて、その果てしない闇の中を歩き続けているのだ。
ふと、足元に柔らかな気配を感じて目を落とすと、そこには白い靴下を履いた模様の黒猫が、僕の傍らに寄り添っていた。「ここはいったい、どこなのだろう。そして僕は、誰の魂の欠片を、これほどまでに探し求めているのだろう……」
窓から差し込む朝の光が、カーテンのわずかな襞を透かして、部屋の隅々をゆらゆらと、水底のように照らしていた。ユウトは浅い眠りから覚め、重たい体を起こしながら、薄い布団を跳ね除けた。枕元に置いたスマートフォンを手に取ったが、アミからの返信は、まだ届いていない。
彼はその日、幾度となく、その小さな画面を見つめた。見慣れたはずのその画面は、どこか現実感を欠いたモノクロームの幻影のようにしか感じられない。
「彼女は、麻酔の眠りの中にいるのだろう。すぐに返事が来るはずはない」
彼は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。そして、不安から逃れるように、いつものピッキング作業へと意識を集中しようとした。けれど、掌に伝わる段ボールの重みも、指先に触れるフォークリフトのレバーの冷ややかな感触も、絶え間なく鳴り響く運搬ベルトの乾いた擦過音でさえも、すべては一枚の薄い膜を通して眺めている遠い出来事のように、意識の奥へと遠ざかっていくのだった。
その日、アミからの返信はなかった。
翌日も、鉛のように重たくなった体を持て余しながら、ユウトは幾度となくスマートフォンの小さな画面を見つめた。そこには、彼女からの言葉は一つもない。
「たとえ麻酔の眠りから覚めても、しばらくは絶対安静の期間が続くはずだ。その間はスマホを使うこともできないだろう」
自分でも聞き取れないほどか細い声で、そう自分を納得させようとした。食欲は消え去り、水さえも、どこか苦い後味が舌に残る。何一つ分からないまま、ただ虚ろな、形のない時間だけが彼の傍を通り過ぎていった。
どうして僕は彼女のことを、もっと詳しく聞いておかなかったのだろう。僕の手元にあるのは、たった一行のメールアドレスだけだ。彼女に嫌われたくないという一心から、彼女の私生活に踏み込むことを躊躇していたのだ。せめて、SNSだけでも知ってさえいれば、今彼女がどのような状態なのか、わかるかもしれないのに。
彼は、そのメールアドレスを、まるで教会のマリア像を拝むような気持ちで、じっと見つめ続けていた。
次の日は、雨だった。雨音は屋根を激しく叩き、湿った空気の中に、淀んだ灰色の光が忍び込んできた。ユウトの胸の中に、漠然とした、しかし逃れようのない不安が込み上げてくる。もしこのまま、彼女からの連絡が途絶えてしまったら。万が一、手術の後に、取り返しのつかない事態が起こっていたら。そんな考えが、霧のようにふつふつと湧き起こり、彼の心を締め付けた。
重い足を引きずるようにして、外へと踏み出した。濡れたアスファルトをスニーカーで踏み締める。路地裏には、コールタールのような雨が侵食し、傘の向こうには、生気のないビルの群れが、墓標のように霞んで見えた。
彼は何度、心の中で祈りを捧げただろう。「アミさんが、どうか健康を取り戻しますように」と。しかし、空は炭を流したような雲に厚く覆われ、小さな祈りなど、誰もいないホールで鳴らされる壊れたピアノの打鍵音のように、どこへも辿り着かず、消えてしまうような気がした。
都会の喧騒は遠のき、部屋の隅々に、濃密な闇が溜まり始めた時刻。ユウトは布団に顔をうずめ、まどろみと目覚めのあわいを漂っていた。その時、スマートフォンの硬い通知音が、静寂を切り裂いた。
彼女からのメールだった。しかし、その画面に浮かび上がった文字を見た瞬間、彼は絶句した。
「突然のメールで失礼いたします。私は、ハイデルベルク大学病院の看護師シュミットと申します。患者様のスマートフォンをお借りして、これをお送りしております。ユウト様、あなたにお伝えしなければならないことがございます」
* * *
執筆の原風景
「ユウトくん。私は救急車で病院に運ばれました」
指先が微かに震え始める。かろうじて文字をタップする。
「え、どうしたの?」
「持病の卵巣腫瘍が突然ねじれてしまって、今すぐ緊急の摘出手術をしないといけないんです。手術をしないと命に関わると言われました」
「そんな……どうすればいい? 僕に何かできることはある?」
「ごめんなさい。私、混乱して、うまく言えないのですが」
その文字の連なりは、いつもの彼女の穏やかさとは違い、ぴんと張り詰めた緊張感に満ちていた。
「ドイツの民間保険に入っているんですが、外国人の持病が悪化した場合、保険が使えないと言われました。私は、そんなこと知りませんでした」
「じゃあ、手術はどうなるの?」
「外国人の場合、預かり金が必要で、18000ユーロだと言われました」
「日本円でいくらなの?」
「300万円です」
「え……そんなに?」
「貯金を使えば何とかなります。でも、少しだけ足りないのです」
「いくら足りないの?」
「30万円です。私には頼れる親戚もいなくて、友人も仕事上の付き合いばかりです」
「30万……。それって今すぐ必要なの?」
「前金で払わないと、手術ができないと言われました」
「じゃあ、今すぐ30万が必要なんだね。分かった。僕が何とかする」
「ユウトくんは、そんなにお金を持ってないですよね」
「でも、30万なら何とかなる。後でまた連絡するね」
彼は銀行のアプリを立ち上げ、残高を確認した。33万円。日々の切り詰めた生活の中で、いざという時のために貯めていた全財産だった。この30万円を彼女に送れば、彼女を助けることができる。しかし、貯金が底をつけば、僕の生活はどうなるのだろう。いや、僕の生活などどうでもいい。彼女の命がかかっているんだ。このお金で彼女が助かるなら。
彼は彼女の口座番号を聞き、海外送金で30万円を振り込んだ。自分の口座の残高は、31088円。しかし、彼に後悔はなかった。
「ユウトくん、ありがとう。これですぐに手術を受けることができます。ユウトくんのお金は、退院してから必ず返します」
「アミさん、こんな僕でも役に立ててうれしいよ。僕は、今までずっと君に支えられてきた。その恩返しをしたいと思っていた。だから、少しだけ恩返しができて、とても幸せだよ。お金は返さなくてもいい。絶対に元気になって、またいろんなことを話そう」
「ユウトくん、ありがとう。手術が終わったら、すぐに連絡します」
その夜、彼はほとんど眠れなかった。薄闇の染みついた天井の木目をじっと見つめながら、遠い異国の空の下で、病院のベッドに横たわっている彼女の姿を、祈るように想い続けていた。
どこか光の届かない深海の淵を、僕はあてもなく彷徨っている。そこはひっそりとした寂寥に満たされ、あまりに深く、あまりに哀しい。僕はただ、もはや手が届かないほど遠くに行ってしまった誰かの面影を求めて、その果てしない闇の中を歩き続けているのだ。
ふと、足元に柔らかな気配を感じて目を落とすと、そこには白い靴下を履いた模様の黒猫が、僕の傍らに寄り添っていた。「ここはいったい、どこなのだろう。そして僕は、誰の魂の欠片を、これほどまでに探し求めているのだろう……」
窓から差し込む朝の光が、カーテンのわずかな襞を透かして、部屋の隅々をゆらゆらと、水底のように照らしていた。ユウトは浅い眠りから覚め、重たい体を起こしながら、薄い布団を跳ね除けた。枕元に置いたスマートフォンを手に取ったが、アミからの返信は、まだ届いていない。
彼はその日、幾度となく、その小さな画面を見つめた。見慣れたはずのその画面は、どこか現実感を欠いたモノクロームの幻影のようにしか感じられない。
「彼女は、麻酔の眠りの中にいるのだろう。すぐに返事が来るはずはない」
彼は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。そして、不安から逃れるように、いつものピッキング作業へと意識を集中しようとした。けれど、掌に伝わる段ボールの重みも、指先に触れるフォークリフトのレバーの冷ややかな感触も、絶え間なく鳴り響く運搬ベルトの乾いた擦過音でさえも、すべては一枚の薄い膜を通して眺めている遠い出来事のように、意識の奥へと遠ざかっていくのだった。
その日、アミからの返信はなかった。
翌日も、鉛のように重たくなった体を持て余しながら、ユウトは幾度となくスマートフォンの小さな画面を見つめた。そこには、彼女からの言葉は一つもない。
「たとえ麻酔の眠りから覚めても、しばらくは絶対安静の期間が続くはずだ。その間はスマホを使うこともできないだろう」
自分でも聞き取れないほどか細い声で、そう自分を納得させようとした。食欲は消え去り、水さえも、どこか苦い後味が舌に残る。何一つ分からないまま、ただ虚ろな、形のない時間だけが彼の傍を通り過ぎていった。
どうして僕は彼女のことを、もっと詳しく聞いておかなかったのだろう。僕の手元にあるのは、たった一行のメールアドレスだけだ。彼女に嫌われたくないという一心から、彼女の私生活に踏み込むことを躊躇していたのだ。せめて、SNSだけでも知ってさえいれば、今彼女がどのような状態なのか、わかるかもしれないのに。
彼は、そのメールアドレスを、まるで教会のマリア像を拝むような気持ちで、じっと見つめ続けていた。
次の日は、雨だった。雨音は屋根を激しく叩き、湿った空気の中に、淀んだ灰色の光が忍び込んできた。ユウトの胸の中に、漠然とした、しかし逃れようのない不安が込み上げてくる。もしこのまま、彼女からの連絡が途絶えてしまったら。万が一、手術の後に、取り返しのつかない事態が起こっていたら。そんな考えが、霧のようにふつふつと湧き起こり、彼の心を締め付けた。
重い足を引きずるようにして、外へと踏み出した。濡れたアスファルトをスニーカーで踏み締める。路地裏には、コールタールのような雨が侵食し、傘の向こうには、生気のないビルの群れが、墓標のように霞んで見えた。
彼は何度、心の中で祈りを捧げただろう。「アミさんが、どうか健康を取り戻しますように」と。しかし、空は炭を流したような雲に厚く覆われ、小さな祈りなど、誰もいないホールで鳴らされる壊れたピアノの打鍵音のように、どこへも辿り着かず、消えてしまうような気がした。
都会の喧騒は遠のき、部屋の隅々に、濃密な闇が溜まり始めた時刻。ユウトは布団に顔をうずめ、まどろみと目覚めのあわいを漂っていた。その時、スマートフォンの硬い通知音が、静寂を切り裂いた。
彼女からのメールだった。しかし、その画面に浮かび上がった文字を見た瞬間、彼は絶句した。
「突然のメールで失礼いたします。私は、ハイデルベルク大学病院の看護師シュミットと申します。患者様のスマートフォンをお借りして、これをお送りしております。ユウト様、あなたにお伝えしなければならないことがございます」
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