糸と蜘蛛

犬若丸

文字の大きさ
236 / 644
3章 死神が誘う遊園地

瑠璃、幼少期 19

しおりを挟む
   立っていたのは母だった。倒れているのは彰。彼と畳の間には赤い水溜りができていた。彰から流れているそれは古い畳に赤い液体を染み込ませる。
   母の手には彰が所持していたはずのサバイバルナイフ。足元には一万円札の束がいくつも散らばっていた。黒鞄のファスナーが壊れてしまったのだろう。中から札束が散乱している。
   トタン屋根を叩く粒が激しくなる。雨がより一層強くなった。
   肩で息をして、呆然と立つ母は傍にいる娘には気付いていなかった。
   「ママ」
   覇気のないあたしの声は激しい雨音に潰れそうだった。
   びっくりした母はサバイバルナイフを落とす。ゆっくりと振り返る。あたしを見つめると笑った。あたしの好きな笑顔だ。
   母が笑えばあたしも笑う。それは自然と同じくらいに行われていたけれど、その時は口角を上げるのも難しかった。
   「おいで、瑠璃」
   母が手招きをする。身が竦んでいたのに久々に呼ばれたい名が懐かしく、糸に手繰られるようにあたしは母の傍に寄る。
   「いい子ね」
   あたしの頭を撫でる。右手は赤く汚れていたから左手で触れた。
   「私からこんな天使が生まれたなんて信じられない」
   褒められたのに嬉しく思えなかったのは母の言葉に感情がなかったからだ。生気のない言葉だった。
   「ママね、間違っちゃった。もうすぐ警察が来るの」
   「けーさつ?」
   「そうよ。お金を持って逃げても無駄になったの。大人しくあの男に飼われてればよかった」
   母の手が頭から頬に移る。
   あの男とは、もしかしてパパのこと?
   「愛してる、か。結婚なんてするんじゃなかった。瑠璃はママのこと好き?」
   ずっと独白していた母が急に質問を投げる。あたしは素直に頷く。
   「ママはね、子供が嫌いなの」
   頬を撫でていた母の左手が細い首を掴んだ。優しさのない手の平は子供の気管を締めようとしていた。
   あたしは咄嗟に身を引くも母の手は子供の首を追う。
   迫っていたのは命の危機だった。様々な感情を差し置いて生存だけを考えた。あたしは伸びる手に噛みついた。
   母は苦痛に顔を歪め、手を引っ込める。そして、あたしは踵を返して危機から逃げようと走り出した。
   「待ちなさい!」
   母の叱りつけるその声に従わなかった。あたしの耳が意識していたのは母の声じゃなかった。母の声帯ではあるけれど、あれは違う。例えるなら、本や映画に登場するオーガか鬼だ。
   鬼となった母は人を殺したサバイバルナイフを持ち上げると背を向けた小さな子供を追う。
   「瑠璃!こっちに来なさい!」
   これは親が子を叱る怒声じゃない。強者が弱者を追い詰める為に用いるプレッシャーだ。
   それだけでも脚が震えて涙が出る。
   あたしが逃げ込んだのはトイレだった。子供の足では玄関までは届かない。大人との差はそれほどまでになった。
   鍵がついていて玄関よりも近い逃げ場がトイレだった。
   しっかりと鍵を閉めて小さな部屋の隅に身を寄せる。
   「瑠璃!出てきなさい!瑠璃!」
   母はすぐに追いついた。ガチャガチャとドアノブを揺らして、ドアを開けようとする。
   「なんて言うことを聞けないの!私の邪魔ばかりしないでよ!」
   ドアノブを無理矢理回し、木製のドアは大きく揺れ、古くされた金具が外れてしまうのではないかと不安にさせた。
   「わかんない!わかんないよ!ママがして欲しいことなんでもやった!邪魔なんかしていない!」
   なんでと問いかったのはあたしのほうだ。家事のことはあたしがやっていた。「愛してる」が貰えなくても母の言うことに従った。
   なのに、それなのになんで?
   「なんでよ!ママ!」
   嘆いて叫んだ問いかけは懇願に近いものがあった。けれど、あたしの懇願は拒絶された。
   「あああああ!あああああ!」
   母は雄叫びにいた声を上げて胃から口へと吐き出された感情の濁流があたしを襲う。
   「完璧だったのに!うまくいくはずだったのに!あんたがいなければ!あんたさえなければ!」
   全ての不幸はあたしのせいだと文脈のない怒号は語っていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

処理中です...