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4章 闇底で交わす小指
カンダタ、生前 崩れる 11
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小瓶を傾けると無数の幼虫が慌てふためき、中で滑る。蝶男はそんな様子を楽しく眺めながら賭けの話をする。
「君にはいつもと種子が違う幼虫を入れる。そうだな、七日ほど続けようか」
「おれは、どうなるんだ?」
「ふた通りある。人格崩壊か拒絶反応。七日間、拒絶し続け尚且つ人格も保っていられれば君たちは晴れて自由だ」
「うそ、だ」
賭けの内容に乗る気になれなかった。視界はぼやけ、意識に霧がかかったとしても嘘をつかれたのはわかる。
「そうだよ」
蝶男は詫びる様子もなく、焦りもない。
「だが、どこに嘘があったかわかるかな?あの内容には事実もあった。区別がつかないだろう?」
何も言えなくなる。
しかし、嘘だと認めたならば、尚更この賭けには乗るべきではない。
何かが引っかかる。霧の意識の更に奥から「見落としいる」と告げられる。その警告は蝶男の声で消される。
「賭けに乗らないとしても投薬はしてもらう。どうせそこからは逃げられない」
何か言わねばと焦る。今もまた見落としたぞと魂が警告する。その見落としを探ろうとしても思考そのものが脱力していく。
「べにに会わせてくれ」
焦る心と脱力する身体に翻弄された俺が口にしたのは願望だった。
「いいよ。会わせてやろう」
蝶男は満面の笑みを浮かべた。
昼時になっても蝶男は私のもとに来なかった。
呼吸困難になって気絶してから意識が戻るまではそれほど時間は経っていなかった。
けど、縁側の庭には誰も残されていなかった。散らされた花々が痛々しい程にあの出来事を語っていた。
私は邸の中を探し回った。もちろん、離れの小屋も見たが、人がいた痕跡もない。座敷牢に閉じ込められていたあの小児も消えていた。
蝶男が彼を連れ去って、一人だけ残された私は不安だけが膨らみ、堪えられなくなった涙で頬を濡らした。
幾度も幾度も探し回り、何十回と往復した。やがて疲弊した心が探すの諦めて縁側に腰を下ろす。
“塀の外で暮らさないか”
昨晩の彼の言葉が蘇る。
“幸せな暮らしとべにとしたいんだ。俺と生きてくれ”
そんなことを聞かれるくらいだったらもっと早くに別れるべきだった。
蝶男が見逃すはずがなかった。
なのに、ずるずるとずるずると、もう少し、あともう少しと先延ばしにして長く隣に居座った。
昨晩、彼が座っていた場所に身体を横たえる。
連れて行かないで。独りにしないで。
嗚咽を漏らし、名を呼び、言葉にならない声で彼を求める。
「そこまで泣かなくとも会わせるよ」
頭上から聞こえた声に私は勢いよく顔を上げた。目の前に立っていたのは蝶男。
「まぁ、紅柘榴次第だが」
「蝶男っ!」
恨み言を吐くように名を呼ぶ。押し潰してくる不安は憎悪となり、涙は流れくなった。
「冷静になってくれ。彼に合わせると言っているんだ。会いたいんだろう?」
当たり前だ。怒りのまま口にしてしまいそうな言葉を飲み込んだ。
「会わせなくていい。代わりにあの人を解放して」
ふつふつと湧く怒りを堪え、冷静になろうと努めた。
「私はどうなってもいいから」
全てを諦めて項垂れる。
いつもそうだった。私が何かを求めれば、大切なものが消える。かつての兄や乳母がそうだった。望みは叶わず、失うものばかりが増えていく。
「自分の身代わりに彼を自由にしたいと?」
静かに頷く。泣き寝入りだ。どれほど奪われ、憎んでもこの男に乞うしかない。そんな自分が嫌になる。
「そうだなぁ、どうしようか」
わざとらしく悩むの素振りを見せながら蝶男は庭を歩き回る。焦らす動作に奥歯を噛み締める。
「お願いします」
しおらしく頭を下げて乞う。
蝶男は私が屈服する姿を見たいわけではない。わざとらしい態度を見せつけ、私の反応を観察している。
「そこまで言うのなら賭けをしようか」
蝶男が持ちかけたのは怪しげな賭け事だった。
「試したい薬がある。それを君と彼に飲んでもらう」
「また黒蝶?」
「いいや、違う。記憶が喪失する効果がある」
「私だけ飲めばいいじゃない。なんで」
「紅柘榴は特別な存在だ。平凡な彼との違いが出るのか比べたい。試薬はこれが初めてでね。どこまで記憶がなくなるか見当がつかない。全部喪失するのか、ほんの一部か。それとも失わないのか」
私は黙って話を聞く。話を聞く。頭が悪くても蝶男の真意を図ろうとする。
「もし、彼が紅柘榴の記憶を失っていたら解放してやろう」
「記憶が残っていたら?」
「塀の中で二人一緒に暮らせる。もしかしたら、そのほうが幸せかな」
「そんな訳ないじゃない!」
沸騰した怒りがぶり返して声を張り上げる。
何が幸せだ。幸福というのも痛みというものも知らない蝶男が軽々しく幸せを口にしないでほしい。
聞こえよく言ったとしてもやる事はいつも同じ。黒蝶を魂に埋め込み、手駒か黒蝶を増やす苗床にするかだ。
それでよく幸せだと言える。
「なんで、記憶を失わなちゃいけないのよ」
不条理よ、こんなの。
私を忘れれば彼は晴れて自由となり、黒蝶を埋め込まれずに済む。
「もともと別れるつもりだったのだろう?同じじゃないか」
「違う。同じにしないで」
二度と彼に会えなくとも思い出として残り続ける。彼の中で生きていける。
「なんでわからないの?理解できないの?忘却は死ぬのと同じなのに、私は生きているのに、彼の中で死ななちゃいけないの?」
泣いている顔を手で覆う。蝶男に涙を見せたくないのに涙が止まらない。
「君にはいつもと種子が違う幼虫を入れる。そうだな、七日ほど続けようか」
「おれは、どうなるんだ?」
「ふた通りある。人格崩壊か拒絶反応。七日間、拒絶し続け尚且つ人格も保っていられれば君たちは晴れて自由だ」
「うそ、だ」
賭けの内容に乗る気になれなかった。視界はぼやけ、意識に霧がかかったとしても嘘をつかれたのはわかる。
「そうだよ」
蝶男は詫びる様子もなく、焦りもない。
「だが、どこに嘘があったかわかるかな?あの内容には事実もあった。区別がつかないだろう?」
何も言えなくなる。
しかし、嘘だと認めたならば、尚更この賭けには乗るべきではない。
何かが引っかかる。霧の意識の更に奥から「見落としいる」と告げられる。その警告は蝶男の声で消される。
「賭けに乗らないとしても投薬はしてもらう。どうせそこからは逃げられない」
何か言わねばと焦る。今もまた見落としたぞと魂が警告する。その見落としを探ろうとしても思考そのものが脱力していく。
「べにに会わせてくれ」
焦る心と脱力する身体に翻弄された俺が口にしたのは願望だった。
「いいよ。会わせてやろう」
蝶男は満面の笑みを浮かべた。
昼時になっても蝶男は私のもとに来なかった。
呼吸困難になって気絶してから意識が戻るまではそれほど時間は経っていなかった。
けど、縁側の庭には誰も残されていなかった。散らされた花々が痛々しい程にあの出来事を語っていた。
私は邸の中を探し回った。もちろん、離れの小屋も見たが、人がいた痕跡もない。座敷牢に閉じ込められていたあの小児も消えていた。
蝶男が彼を連れ去って、一人だけ残された私は不安だけが膨らみ、堪えられなくなった涙で頬を濡らした。
幾度も幾度も探し回り、何十回と往復した。やがて疲弊した心が探すの諦めて縁側に腰を下ろす。
“塀の外で暮らさないか”
昨晩の彼の言葉が蘇る。
“幸せな暮らしとべにとしたいんだ。俺と生きてくれ”
そんなことを聞かれるくらいだったらもっと早くに別れるべきだった。
蝶男が見逃すはずがなかった。
なのに、ずるずるとずるずると、もう少し、あともう少しと先延ばしにして長く隣に居座った。
昨晩、彼が座っていた場所に身体を横たえる。
連れて行かないで。独りにしないで。
嗚咽を漏らし、名を呼び、言葉にならない声で彼を求める。
「そこまで泣かなくとも会わせるよ」
頭上から聞こえた声に私は勢いよく顔を上げた。目の前に立っていたのは蝶男。
「まぁ、紅柘榴次第だが」
「蝶男っ!」
恨み言を吐くように名を呼ぶ。押し潰してくる不安は憎悪となり、涙は流れくなった。
「冷静になってくれ。彼に合わせると言っているんだ。会いたいんだろう?」
当たり前だ。怒りのまま口にしてしまいそうな言葉を飲み込んだ。
「会わせなくていい。代わりにあの人を解放して」
ふつふつと湧く怒りを堪え、冷静になろうと努めた。
「私はどうなってもいいから」
全てを諦めて項垂れる。
いつもそうだった。私が何かを求めれば、大切なものが消える。かつての兄や乳母がそうだった。望みは叶わず、失うものばかりが増えていく。
「自分の身代わりに彼を自由にしたいと?」
静かに頷く。泣き寝入りだ。どれほど奪われ、憎んでもこの男に乞うしかない。そんな自分が嫌になる。
「そうだなぁ、どうしようか」
わざとらしく悩むの素振りを見せながら蝶男は庭を歩き回る。焦らす動作に奥歯を噛み締める。
「お願いします」
しおらしく頭を下げて乞う。
蝶男は私が屈服する姿を見たいわけではない。わざとらしい態度を見せつけ、私の反応を観察している。
「そこまで言うのなら賭けをしようか」
蝶男が持ちかけたのは怪しげな賭け事だった。
「試したい薬がある。それを君と彼に飲んでもらう」
「また黒蝶?」
「いいや、違う。記憶が喪失する効果がある」
「私だけ飲めばいいじゃない。なんで」
「紅柘榴は特別な存在だ。平凡な彼との違いが出るのか比べたい。試薬はこれが初めてでね。どこまで記憶がなくなるか見当がつかない。全部喪失するのか、ほんの一部か。それとも失わないのか」
私は黙って話を聞く。話を聞く。頭が悪くても蝶男の真意を図ろうとする。
「もし、彼が紅柘榴の記憶を失っていたら解放してやろう」
「記憶が残っていたら?」
「塀の中で二人一緒に暮らせる。もしかしたら、そのほうが幸せかな」
「そんな訳ないじゃない!」
沸騰した怒りがぶり返して声を張り上げる。
何が幸せだ。幸福というのも痛みというものも知らない蝶男が軽々しく幸せを口にしないでほしい。
聞こえよく言ったとしてもやる事はいつも同じ。黒蝶を魂に埋め込み、手駒か黒蝶を増やす苗床にするかだ。
それでよく幸せだと言える。
「なんで、記憶を失わなちゃいけないのよ」
不条理よ、こんなの。
私を忘れれば彼は晴れて自由となり、黒蝶を埋め込まれずに済む。
「もともと別れるつもりだったのだろう?同じじゃないか」
「違う。同じにしないで」
二度と彼に会えなくとも思い出として残り続ける。彼の中で生きていける。
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