糸と蜘蛛

犬若丸

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4章 闇底で交わす小指

カンダタ、生前 崩れる 12

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 蝶男が溜まった涙を拭ってやろうと触れてくる。その不快さから手を振り払う。蝶男は構わず笑う。
 「ハザマは僕と同じ塊人だ。黒蝶はなくとも技術がある。彼がどんな目に遭うか想像してごらん。まずは魂を抜かれハザマに連れて行かれるだろうね。そこで血抜きされて、前頭部の骨を切除する。もちろん、生体ではなく魂だから意識は残っているよ。それから露わになった脳を」 
 「やめて!」
 これ以上聞きたくないと両手で耳を塞ぐも蝶男は私の手首を掴み、囁く。
 「わかったろう?僕は優しいんだ。記憶を失うだけで済ませるつもりなんだから」
 蝶男の説明が頭の中で反復する。反復し、想像する。流血と悲鳴、恐怖。
 「賭けに乗るか乗らないかは君たちの自由だ」
 「君たち?」
 蝶男が引っかかる言い方をした。
 「彼にも同じ賭けを持ち出したんだ。でも、乗り気じゃなくてね。どうしても君を忘れたくないそうだ」
 彼の、赤い瞳を思い出す。
 太陽の光に照らされて煌めいて、目を細める。私を映す赤い瞳。いつまでも私だけを映してほしかった。
 「会わせて」
 震える唇で消えそうな声に訴える。
 「もちろん、そのつもりだ」



 しばらくの間、私を待たせた後、蝶男は離れの小屋に連れて行った。
 「その前にいいかな」
 小瓶に似たものを取り出す。奇妙な形の蓋がある。
 「それ、何?」
 「香水だ。この国ではまだ広がっていないかね。知らなくて当然だ」
 それだけ言うと蝶男は私に香水の霧を吹きかけた。甘い香りの霧が私に纏まりつき、その不快さに蝶男を睨む。
 蝶男は睨む視線を気にせずに小屋の戸を開く。
 纏まりつく甘い香りの不快さも忘れた。開かれた戸の向こうには四角く狭い檻に窮屈そうに押し込まれた彼がいた。
 いくら小屋を探しても見つけらなかったと言うのに蝶男が戸を開いただけで求めていた人が現れた。
 駆け寄り、檻の前で膝をつくと何度も名を呼ぶ。幾ら呼んでも反応がない。
 「ねぇ、起きて」
 身体は小さく丸まり、頭は力なく項垂れていた。
 檻の中へ手を伸ばして頬を撫でる。単衣や肌は血と土埃で汚れている。恐らく蝶男につけられた怪我も治っていない。
 「生きているよ。逃げられないようにしているけどね」
 歯軋りが鳴る。憎悪が溢れそうだ。
 こんな檻、壊してしまいたい。
 そんな考えが浮かんだ時、降りていた目蓋がぴくりと動いた。
 私は両手で頬を包む。目蓋がゆっくりと上がり、赤い瞳が私を映す。
 半開きになった唇から「べに」と声が漏れる。
 安心しきった弱々しい笑みを向けると私の手に頬をすり寄せた。
 「ぶじで、良かった」
 「私のことはいいから」
 無傷の私を見たからそうした言葉が漏れたのだろう。心配するなら自分にしてほしい。
 彼の手が私の手を重ね、瞳を閉じようとする。
 意識は戻ったが、目が虚ろだ。口調もゆっくりで鈍い。
 振り返り、蝶男を責める。
 「何をしたの?」
 「少しの間、眠らせただけさ。早く用件を言ったらどうだい?」
 蝶男が催促してくる。内心で舌打ちをすると彼と向き直る。 
 「よく聞いて」
 顔を軽く揺さぶり、沈みかけた彼の意識を起こす。再び目蓋が上がり、目が合う。
 「私は賭けに乗るわ」
 「あの賭けを?」
 眠りに沈みかけていた意識だとしてもその言葉を理解できた。
 不安げに眉を寄せ、私を抱き締めようとするも倦怠感が酷い身体ではそれすらできない。
 だから、代わりに私が彼を抱き締めた。
 身を引き寄せ、大丈夫と言い聞かせるように背中を撫でる。二人の間に挟まる檻の鉄棒が邪魔で仕方がない。これが最後の抱擁だと思うと悲しくなる。
 「駄目だ」
 語気が弱い。なのに、心の底から来る否定だとわかる。
 「駄目だ」
 忘れたくない、忘れられたくない。同じ気持ちを持っているのが痛いくらいに嬉しい。
 「怖くない。私は怖くないから。私を信じて」
 「そろそろ、いいかな?」
 時間切れだと蝶男が告げる。
 最後の抱擁を惜しみながら身体を離す。
「行くな」
 これを最後にしないでくれと彼の手と声が訴える。
 「また会える」
 無理に作った笑顔を赤い瞳に映しながら立ち上がる。
 「べに」
 幾度も呼ぶ。今にも泣きそうな顔をしているのかその声色でわかる。
 私は振り返らなかった。もし振り返ってしまえば、悲痛な顔を見てしまえば、必死に固めた覚悟が揺らいでしまう。
 小屋の戸を越え、蝶男が閉じるのと同時に泣きながら求める彼の声が途絶えた。
 また戸を開けたとしても彼はいないだろう。
 私は膝から崩れ落ちて堪えていた涙を流す。箍が外れると涙は止まらず、目の前に蝶男がいたとしても嗚咽が混じった声を鳴らしてしまう。
 「立ってもらえるかな。いつまでも泣いていると次にいけない」
 「誰のせいでっ!」
 責めたてようとした声はそこで止まった。無駄だ。こいつに言葉は届かない。
 泣くのをやめた私は立ち上がる。
 この賭けで彼の記憶がなくなり、自由になったとしても私は人食い塀に囚われたまま。
 寄り添う優しさを味わえば孤独の寂しさに耐えられなくなる。思い出だけでは生きてはいけない。
 自害。それが私の決意。
 彼が人喰い塀を去った後、苦痛しかないこの人生を終わらせよう。
 彼の温もりがない人生に意味はないのだから。
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