糸と蜘蛛

犬若丸

文字の大きさ
392 / 644
4章 闇底で交わす小指

カンダタ、生前 崩れる 17

しおりを挟む
 そこからは全てが曖昧だ。幼虫たちが這う感覚も朧げで、夢心地の中にいた。
 はっきりしているのは一つ、耳元で囁くあの声だ。
 「望みのものを手に入れるんだ」「あの子の為に」「幸せの為に」「死んでも構わない」「死んでもいい」
 ゆっくりと穏やかに魂に刻まれていく。囁かれる度に頷き、頷く度にそれらは自分の言葉であると自覚する。
 甘い匂いに包まれ、囁く声が反復する。暗闇に身を委ね、黒蝶が魂を蹂躙する。



 俺に光が差し込んだのは突然の出来事だった。
 光が暗闇を裂き、開かれる。黒に慣れてしまった目にその純白は痛かった。思えず目を瞑り、顔を逸らす。
 「ほら、待ち焦がれた彼だ」
 蝶男の声がした。しかし、俺に向けられたものではない。
 女性が息を呑み、狭い檻に駆け寄る。女性が口を開き、音を漏らす。呼ばれているのか話しかけているのかわからない。女性の声が理解できない音となっている。
 眩しさに俺は呻く。早くあの暗闇に帰してくれと女性に背を向け、身体を丸める。
 女性が手を伸ばし、丸くなった背中に触れた。指が震えている。
 よく聞けば、声に嗚咽が混じっている。更によく聞けば「ごめんなさい」と繰り返している。
 微かに春の匂いがする。それが優しく、俺の姿勢は自然と光に向けられた。
 俺の前にいたのは涙で汚れた女性だった。腰まで伸びた髪は結われておらず、飾り気がない。花丸紋の赤い着物を身に纏っている。
 「だ、れだ?」
 知らない女性がそこにいた。
 俺の問いに女性は悲しく顔を歪め、嗚咽を漏らす。
 「よかったね。賭けに勝った。これで彼は自由だ」
 「黙って!」
 蝶男の嘲笑に女性は怒鳴った。鶯とはほど遠い声だ。
 「二人にさせて」
 怒鳴ったかと思えば次は弱々しく願う。
 「いいだろう。僕はあちら側に行ってくる。別れの言葉をゆっくり考えればいいさ」
 あっさりと承諾した蝶男は小屋から離れ、姿を消す。
 「ごめんなさい、ほんとごめんなさい」
 泣きながら謝る女性は俺の頬を慈しみ撫でる。
 綺麗なのに涙で汚れるのはもったいないなと俺は呆然としながら呑気に思っていた。
 どこからか持ってきた南京錠の鍵で檻を開ける。
 自分を囲むものがなくなり、俺の身体は雪崩れるように檻から出た。
 檻の外に出られたのは上半身だけであり、その半身も起き上がれずに地面に転がったままだ。
 立ち上がれない。脚はある。だが、脚の使い方を思い出せない。
 「これしかなかったの」
 泣きながら許しを乞いているようだ。
 涙を拭った目は強い決意を宿していた。
 立ち上がると外の様子を見、すぐ様、俺のもとへと戻る。
 「立てる?」
 首を横に振る。
 女性は俺の右腕を自身の肩に回し、左腕は左の脇腹に回すと帯を掴む。女性が立ち上がれば、半身を預け背負わされていた。
 「私が連れ行くから。もうあちら側に関わらなくていいから」
 俺を背負う彼女は暗い小屋から外の光へと歩き出す。
 一歩、踏むたびに身体が揺れ、俺の顔は彼女の首筋にすり寄せる。春の匂いが心地よかった。
 数日間のうちに俺の目は暗闇に慣れすぎてしまった。外の光を浴びた目は真面に開けられず、光は容赦なく、瞳の奥を刺激する。
 痛みを伴う刺激から逃れようと彼女の首に額を埋め、僅かな陰を求める。
 そんな俺に彼女は「大丈夫」と「すぐ元通りになる」とを繰り返す。身体は揺らされ、運ばれる。
 俺の意識は朦朧としており、どこを歩いているのかさえも把握できない。登っているのか、それとも下っているのか。
 春が近い風は仄かに冷たく芽生えたばかりの青草を踏む。春の匂いと体温が心地よかった。
 対して、彼女の指先は次第に冷たくなっていく。吐く息も荒い。それでも俺を下ろさず、休まず、歩き続けた。
 一刻も早く人喰い塀から離れないといけない。一歩でも、遠くへと。
 彼女の指が冷たい。
 あぁ、そうだ。彼女はよく指が冷えていた。だから、その手を包んで温めていたんだ。
 いつも、そうしていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写はすべて架空です。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

合成師

盾乃あに
ファンタジー
里見瑠夏32歳は仕事をクビになって、やけ酒を飲んでいた。ビールが切れるとコンビニに買いに行く、帰り道でゴブリンを倒して覚醒に気付くとギルドで登録し、夢の探索者になる。自分の合成師というレアジョブは生産職だろうと初心者ダンジョンに向かう。 そのうち合成師の本領発揮し、うまいこと立ち回ったり、パーティーメンバーなどとともに成長していく物語だ。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

処理中です...