糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

邂逅するまで 5

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 蝶は曇天の雨でも軽やかに真上を飛ぶ。
 虫が好きでも嫌いでもないのに、階段の前でその蝶を眺めていたのは幾度もなく羽ばたくその様がどこかへ手招きされていると思えたから。馬鹿らしいけど、本気でそう思った。
 ハクも同じように眺めていたけれど、スイッチが入ったように唐突に吠え出す。
 甲高い金切り声は犬の威嚇そのもので一羽の蝶に警戒と憎悪を表す。なのに、その怒声は悲鳴みたく聞こえるのはあたしの気のせい?
 蝶はずっと手招きを繰り返し、あたしはそれを見ていた。そうしていると後方からの怒声と叫び声が混じって大きくなっていった。
 白い隣人が金切り声で威嚇するものだから、避けることができなかった。気付いた時にはすでに遅かった。
 振り返ってみればヒステリックを起こしていた女性が改札を跳び越えて走って来る。
 障害となっている人を押し倒して、疾走の勢いを弱めずに走る。警官も追ってはいたけれど、追いつけずにいた。
 人を押して、倒して走る女性は後先を考えるほどの余裕は持っていなかった。あたしも女性にとっては逃走の障害物でしかなく、逃げる女性は呆けていたあたしを後ろへと突き飛ばす。
 ドン、と押された衝撃はあたしを宙に投げて、ローファは段差を滑るようにして離れていく。あたしを地に繋ぐものはなくなった。
 落下する感覚はゆっくりと流れる。息を呑む声、悲鳴、雨音。近くにあったのに遠くから聞こえた。
 階段で打ち所が悪ければ死ぬらしい。この体勢なら頭から着地するのは確かね。
 焦りもなくて執着もなかった。ただあたしはなんとなくそんなことを考えていた。
 屋根を叩く雨粒、肌につく水滴、流れていく人の目、段差。全てが遠ざかってあたしは落ちていく。下へ下へひたすらに落ちていく。
 あれ?この階段、こんなに長かった?
 自由落下が妙に長い。時間がゆっくり流れているからとかではない。
 この駅の階段はこんな延々と伸びてはいなかったはず。
 落下は続き、雨の夕方は夜へと近づく。いよいよ階段の全貌が明らからになって、駅のホームは夜の暗さに包まれる。すでにコンクリートに頭を打っていい頃なのに、あたしの身体はまだ落ち続けて駅の階段そのものが遠ざかって行く。そして訪れた暗闇は夜の暗さではないと悟る。
 あたしが遠ざかって行くのは世界そのものだった。あたしは現代の世界から落ちて暗闇へと投げ出されていた。
 背後から光が差す。焼けた臭いがする。
 まさか、これも夢?
 顔を下に向けてそこに広がる世界を見る。
 いつも夢で見ていた世界が、地獄がそこにあった。
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