21 / 644
1章 神様が作った実験場
邂逅するまで 8
しおりを挟む
ビルの中で鬼の群れに出会し、男はあっさりと死んだ。
あれは酷かった。息の根を止めず、ゆっくり、べちゃくちゃと男の意識を残したまま食べられた。
どうせこれも忘れてしまうだろう。
そう思い至り、男は立ち上ってバールを手にする。そしてまた空の穴を求めて歩き出す。
いつまでこんなことを続けるのだろうか。一層のこと自我さえも捨ててしまおうか。思考を止めてしまおうか。
何百回、何千回も繰り返した問答だ。これにも飽きてしまった。
飽きた心はひとつの感情が死んだ証だ。いくつもの思考、思想が生まれて死んでいく。そうやって削られてすり減らされて男に残ったのはわずかな感情と「君に会う」という願望だけだった。この願望が自我を繋ぎ、切り離せないもどかしさが男を苦しめた。
駅まで着くと周囲に警戒の糸を張り巡らながら改札へと進む。
本来、多くの人が行き交うための場所なのにそこに立つのは男だけ。ただ広いだけの改札前は奇妙な虚ろを描く空間に思えた。
改札前を通る際も注意が必要だった。あそこは身を隠せる場所がないのだ。天井を支える円柱はあるが、身を隠すには頼りがない。
ゆっくりとした足取りで広間を通る。様々な所に注意を払う。向かうのは改札を抜け、ホームに上がる階段。その階段に何者かの影が差しこむ。階段を踏んで鳴らす音が無機質に反響する。
何者かなんて決まっている。それは間違いなく鬼だろう。この世界には男と鬼しかいないのだから。
幸い、商店通りからさほど離れていない。隠れる時間はまだある。
急いで戻った男は一軒の店へと入る。光はほとんど届かない店内は暗闇に包まれており、隠れるのに丁度よかった。カウンターの後ろに隠れて明るい外の様子を伺う。
何もなければそれでいいのだか、できれば姿を現してほしい。危険なものの行動を少しでも把握しておきたい。
鬼しかいないと確信があった。地獄は男に孤独を押し付けていた。ほかの人間がいるはずがないのだ。絶対的な事実。それを覆したのは一人の女性だった。金髪と異国の服だろうか。奇妙な恰好をしている。
女性は森に迷った少女の素振りで不安や好奇の瞳で周りを見渡す。
仏は男に孤独を押し付けられた。仏の真意は計りようがないが、人に飢えさえようとしていたのは確かだ。今の男がそういった状況だった。
だからこそ、突然現れた女性に唖然となった。石で頭を殴られたようで、思考もままならない。
彼女はもう一度、見渡してその後「はく」とだけ呟いて男は立ち上った。
人に会えた嬉しさか、孤独から生まれた欲求か、芽生えた感情に正体はなかった。しかし、懐かしい感覚だった。そこにいるのは確かに人なのだ。
走って来る男に女性は驚いて逃げようとするも手首を掴んで制止させる。途端に、女性が悲鳴を上げた。当たり前だ。見知らない男が走っていきなり掴んできたのだ。恐がるはずだ。
掴んだ手を引っ込めて身を退かせる。また女性も逃げようとせず、こちらを睨みつける。
初めての遭遇に胸が高鳴ったが、すぐに冷めた。彼女の深く冷たい目がこちらを責めて申し訳ない気持ちになる。
金髪の女性は男をつま先から毛先まで、まじまじと見つめた。安全確認をしているような鋭い目つきだ。
「あなた、あの時の」
独り言のような呟きが女性から漏れた。
会ったことはないはずだ。少なくともこんな目立つ風貌は忘れにくい。
「覚えがないのならいいの。忘れて」
記憶を探る様子はそのまま顔にでていたらしい。
気にしなくていいと言うのならそうしよう。どうせ乏しい記憶力では何も思い出せないのだ。
「で、あんた誰なの?あたしに用?」
用があったわけではない。強いて言うのならそこに人がいたからとしか答えられない。ひとまず、名を聞かれたならば、名乗らないといけない。
喉を鳴らそうと、息を吐く。出たのは空気が口喉を通る音だけだった。
名。自分の名。呼ばれていた名。男に押し付けられていたものはあまりにも長かった。それを実感したのはこの瞬間に他ならない。男の名は永久に埋もれてしまっていた。
「ねぇ、聞いてるの?喋れないわけじゃないんでしょ?」
「お、ん」
咄嗟に出た言葉は掠れて弱々しく舌もうまく動かせない。一応、声は出せるようだ。
そんなこと、と言いかけた言葉も言葉として成り立たなかった。
「じゃあ、なんなの?」
女性には苛立った棘があった。用もないのに知らない男に掴まれた。それがひどく不快だったらしい。
何も話せずにいると女性は大げさな溜め息を吐く。
「用がないなら、行くわ」
背を向けて去って行く。本当は引き留めたかった。
呼び止めようとするもその声すら出なかった。女性の手を掴むのも躊躇われて宙をかく。
ただ一人も呼び止められない自分に唖然とするしかなかった。自分はこれほど無力だっただろうか。
何かが変わるかと思った。もしかしたら、ここから抜け出せると。しかし、それは男が人に出会えただけのことで地獄の生活が終わるわけでない。
勝手に期待して勝手に落胆する。身勝手だったが、ひどく傷心していた。彼女の姿が見えなくなっても、しばらくの間頭を項垂れて佇む。周囲への警戒も怠っていた。そのぐらいに男の心情は落ちていた。
その心が危機感を鈍らせた。低い唸り声が背後から聞こえた。
凍ったのは背筋だけではなかった。悪寒は全身に伝わって逃げる脚ですら動こうとしない。男にできたのは目線だけを振り向かせて鬼の鉤爪を迎えることぐらいだった。
死んだのは一瞬のことで痛みもなかった。脳天から裂かれれば即死だろう。
いや、それよりもあの鬼だ。彼女はまだ駅にいるのだろうか。男を食った鬼は次に彼女を狙う。
焦燥が男を急かす。それとは逆にもう一人の、全てを達観する自分が囁く。
平気だろう。ここにいるということは彼女もまた罪人となって死んでしまったということだ。もう死んでいるのなら死ぬことはない。自分と同じだ。無意識に助けに行こうとしたが助ける義理もない。彼女は名も知らない他人なのだ。
それでいいのだろうか。死はなくとも見殺しにするのと変わりはない。そしたらまた下衆な男に戻ってしまう。
また?自分はいつ変わった?今も昔もかわらない下衆野郎だ。
なんだろう、この蟠りは。
正体不明の蟠りが男の中にあった。どこから生まれて来たのかは答えようがなかったが、その蟠りが訴えてくる。その思いに男は従った。
バールを手に入れて急いで駅へと向かう。
あれは酷かった。息の根を止めず、ゆっくり、べちゃくちゃと男の意識を残したまま食べられた。
どうせこれも忘れてしまうだろう。
そう思い至り、男は立ち上ってバールを手にする。そしてまた空の穴を求めて歩き出す。
いつまでこんなことを続けるのだろうか。一層のこと自我さえも捨ててしまおうか。思考を止めてしまおうか。
何百回、何千回も繰り返した問答だ。これにも飽きてしまった。
飽きた心はひとつの感情が死んだ証だ。いくつもの思考、思想が生まれて死んでいく。そうやって削られてすり減らされて男に残ったのはわずかな感情と「君に会う」という願望だけだった。この願望が自我を繋ぎ、切り離せないもどかしさが男を苦しめた。
駅まで着くと周囲に警戒の糸を張り巡らながら改札へと進む。
本来、多くの人が行き交うための場所なのにそこに立つのは男だけ。ただ広いだけの改札前は奇妙な虚ろを描く空間に思えた。
改札前を通る際も注意が必要だった。あそこは身を隠せる場所がないのだ。天井を支える円柱はあるが、身を隠すには頼りがない。
ゆっくりとした足取りで広間を通る。様々な所に注意を払う。向かうのは改札を抜け、ホームに上がる階段。その階段に何者かの影が差しこむ。階段を踏んで鳴らす音が無機質に反響する。
何者かなんて決まっている。それは間違いなく鬼だろう。この世界には男と鬼しかいないのだから。
幸い、商店通りからさほど離れていない。隠れる時間はまだある。
急いで戻った男は一軒の店へと入る。光はほとんど届かない店内は暗闇に包まれており、隠れるのに丁度よかった。カウンターの後ろに隠れて明るい外の様子を伺う。
何もなければそれでいいのだか、できれば姿を現してほしい。危険なものの行動を少しでも把握しておきたい。
鬼しかいないと確信があった。地獄は男に孤独を押し付けていた。ほかの人間がいるはずがないのだ。絶対的な事実。それを覆したのは一人の女性だった。金髪と異国の服だろうか。奇妙な恰好をしている。
女性は森に迷った少女の素振りで不安や好奇の瞳で周りを見渡す。
仏は男に孤独を押し付けられた。仏の真意は計りようがないが、人に飢えさえようとしていたのは確かだ。今の男がそういった状況だった。
だからこそ、突然現れた女性に唖然となった。石で頭を殴られたようで、思考もままならない。
彼女はもう一度、見渡してその後「はく」とだけ呟いて男は立ち上った。
人に会えた嬉しさか、孤独から生まれた欲求か、芽生えた感情に正体はなかった。しかし、懐かしい感覚だった。そこにいるのは確かに人なのだ。
走って来る男に女性は驚いて逃げようとするも手首を掴んで制止させる。途端に、女性が悲鳴を上げた。当たり前だ。見知らない男が走っていきなり掴んできたのだ。恐がるはずだ。
掴んだ手を引っ込めて身を退かせる。また女性も逃げようとせず、こちらを睨みつける。
初めての遭遇に胸が高鳴ったが、すぐに冷めた。彼女の深く冷たい目がこちらを責めて申し訳ない気持ちになる。
金髪の女性は男をつま先から毛先まで、まじまじと見つめた。安全確認をしているような鋭い目つきだ。
「あなた、あの時の」
独り言のような呟きが女性から漏れた。
会ったことはないはずだ。少なくともこんな目立つ風貌は忘れにくい。
「覚えがないのならいいの。忘れて」
記憶を探る様子はそのまま顔にでていたらしい。
気にしなくていいと言うのならそうしよう。どうせ乏しい記憶力では何も思い出せないのだ。
「で、あんた誰なの?あたしに用?」
用があったわけではない。強いて言うのならそこに人がいたからとしか答えられない。ひとまず、名を聞かれたならば、名乗らないといけない。
喉を鳴らそうと、息を吐く。出たのは空気が口喉を通る音だけだった。
名。自分の名。呼ばれていた名。男に押し付けられていたものはあまりにも長かった。それを実感したのはこの瞬間に他ならない。男の名は永久に埋もれてしまっていた。
「ねぇ、聞いてるの?喋れないわけじゃないんでしょ?」
「お、ん」
咄嗟に出た言葉は掠れて弱々しく舌もうまく動かせない。一応、声は出せるようだ。
そんなこと、と言いかけた言葉も言葉として成り立たなかった。
「じゃあ、なんなの?」
女性には苛立った棘があった。用もないのに知らない男に掴まれた。それがひどく不快だったらしい。
何も話せずにいると女性は大げさな溜め息を吐く。
「用がないなら、行くわ」
背を向けて去って行く。本当は引き留めたかった。
呼び止めようとするもその声すら出なかった。女性の手を掴むのも躊躇われて宙をかく。
ただ一人も呼び止められない自分に唖然とするしかなかった。自分はこれほど無力だっただろうか。
何かが変わるかと思った。もしかしたら、ここから抜け出せると。しかし、それは男が人に出会えただけのことで地獄の生活が終わるわけでない。
勝手に期待して勝手に落胆する。身勝手だったが、ひどく傷心していた。彼女の姿が見えなくなっても、しばらくの間頭を項垂れて佇む。周囲への警戒も怠っていた。そのぐらいに男の心情は落ちていた。
その心が危機感を鈍らせた。低い唸り声が背後から聞こえた。
凍ったのは背筋だけではなかった。悪寒は全身に伝わって逃げる脚ですら動こうとしない。男にできたのは目線だけを振り向かせて鬼の鉤爪を迎えることぐらいだった。
死んだのは一瞬のことで痛みもなかった。脳天から裂かれれば即死だろう。
いや、それよりもあの鬼だ。彼女はまだ駅にいるのだろうか。男を食った鬼は次に彼女を狙う。
焦燥が男を急かす。それとは逆にもう一人の、全てを達観する自分が囁く。
平気だろう。ここにいるということは彼女もまた罪人となって死んでしまったということだ。もう死んでいるのなら死ぬことはない。自分と同じだ。無意識に助けに行こうとしたが助ける義理もない。彼女は名も知らない他人なのだ。
それでいいのだろうか。死はなくとも見殺しにするのと変わりはない。そしたらまた下衆な男に戻ってしまう。
また?自分はいつ変わった?今も昔もかわらない下衆野郎だ。
なんだろう、この蟠りは。
正体不明の蟠りが男の中にあった。どこから生まれて来たのかは答えようがなかったが、その蟠りが訴えてくる。その思いに男は従った。
バールを手に入れて急いで駅へと向かう。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる