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1章 神様が作った実験場
邂逅するまで 9
しおりを挟むなんなのから。あの不審者。
ついさっき、会った男を思い出していた。何かと聞けば小さな呟きにもならい潜った声を出すだけでまともに喋りもしない。目も手も挙動不審でひどく戸惑っていた。あれがコミュ障というものかしら。
あたしは行く宛もなくただ店の一角を探索していた。
埃塗れのメニュー。鏡文字で綴られた商品名。この世界ではなぜか左右反対にされているのよね。
ふと思い至ったあたしは自身の胸ポケットから生徒手帳を取り出す。生徒手帳は通常の文字列で並んでいる。自身の所有物はこのルールに反映されていないみたいね。でも、あの男、襟が左前になっていた。着物は右前が常識よね。子どもの頃から達観していた世界けれど、案外わからないものもあるのね。
店を出て、どこに行こうかと考えてみる。取り敢えず、外にでも出てみましょうか。
埃っぽい空気を吸い込んで耳を澄ます。聞こえてくるのものはなかった。人の目線はない。声もしない。雑音もない。完璧な静寂がそこにあった。
聴覚視覚触覚で完璧な静寂を知り、そして味わいほそ笑んだ。
鼻歌を携えて、駅の構内を探索する。
錆びれた看板、老化したコンクリート、使われなくなった汚いベンチ。人類がいなくなった世界。
ふらふらと歩いていたらふわりと黒い蝶がどこからどもなく横切る。あの蝶、階段から落ちた時にもいた。地獄にも蝶がいるようね。
あたしから離れては近づいては周りを旋回する。その動作をいくつか繰り返す。やっぱり、手招きされている気がする。
特に行きたい場所もないあたしは蝶の導きとやらに従うことにした。
黒い蝶はスッタフオンリーのドアを前にしてふわふわ飛ぶ。「この中へ」ということかしら?
スタッフしか許されないドアの向こう。そこには光もなく、開かれたドアから通路の明かりが差し込む。
あたしは光を背にしてドア向こうの暗闇を見つめる。蝶は影の中へ誘うけれど、その先へ行く勇気はなかった。誰かいる。
闇から浮かんだ人影を中心に黒い蝶たちが集い、肩や頭に止まったり、飛んでいたりする。
「誰なの?」
「蝶男、そう呼んでくれ」
通路に響いたのは男のものだった。優しさのある穏やかな口調だった。声の低さから男性だとわかる。
「鼻歌まで流して楽しそうだね」
独りだと油断していた。まさかあれを聞いていたなんて。
「心弾ませるのもいいけど、気を引き締めないと奴らが君を見つけてしまうよ」
「奴らって?」
「上にいる奴らさ」
暗闇に隠れている男が人差し指を上に向けて言う。
「男がいただろ。赤い目を持つ男。彼の手を借りるといい。助けになるよ。必ずね」
蝶男とかいう男の台詞にあたしは言葉を返さなかった。
「疑っているね」
「信頼は挨拶から始まるものじゃない?」
暗闇の中で蝶男が笑った気がした。
「では改めて。初めまして久しぶり。私は蝶男」
「間違ってるわよ」
「いいや、これで合ってるよ」
さっきから理解できないことばっかり言ってる。
「もっと近くで話をしよう」
それ以上の答えはなかった。代わりに蝶男は手を広げてあたしが来るのを期待する。
躊躇いがあった。でも、このよくわからない状況の説明が欲しかったあたしは少しだけ陰へ脚を踏み入れる。蝶男へ近寄ろうとした。
突然、耳を劈く金切り声が通路の奥から飛んで来た。蝶男の両肩ごしに白く煌めいた鉤爪はハクのものだった。ハクは背後から蝶男を襲おうとして手や口を広げる。
ハクが捕えようとすると謎の人影はいくつもの蝶となって粉々に散り、通路の奥へと消えていく。飛んで行く蝶を一匹でも捕まえようとハクは手を伸ばし、牙で宙を噛むけれど、どの蝶もハクは見えず、白い身体をすり抜けていく。
1羽も蝶がいなくなると獲物を逃したと悔やむ。
「あたしのチキンを食べておいてまだ物足りないの?」
なんのことやらと首を傾げたハク。
あたしはひと呼吸置いて蝶男がいたところを見つめる。そこに蝶も男もいない。
「なんなのよ」
地獄にいるだけであたしの脳は処理しきれないのに、これ以上訳のわからない登場は辞めてほしい。頭がパンクしてしまう。
休憩が欲しいわね。だからといって店の中に入るのは嫌。明るい場所がいい。そうだ、あそこがいいわね。
ホームのベンチを思い出したあたしはそこへ向かった。
ベンチの埃を払うと腰を落とす。そこに広がる荒廃した風景を眺める。植物も生物も消えた世界。曇天を丸く空けた光は静かに世界を見下している。
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